炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

文字の大きさ
28 / 37
六章「秋の炭火に、語らいは香る - Words Rise in Autumn Flame」

第27話「香りの届く昼」

しおりを挟む
 木の葉が乾き、通りの石畳いしだたみに影を落としていた。
 海から吹きあげる風はやや湿りを帯びていたが、それでも陽に照らされた木壁きかべかわら隙間すきまからは、秋の匂いがゆっくりと漂っている。

 居酒屋の前に、一人の商人が立っていた。肩掛けの麻袋あさぶくろを持ち、手には平らな木箱を下げている。開店にはまだ早いが、扉の内に気配を感じて、そっと声をかけた。

「──すまん、届けもんだ。宿屋の女将さんから預かってる」

 戸を開けて現れたのは、屈強くっきょうな体格の男だった。金髪を後ろにたばね、袖をまくった腕には炭火すみびで焼かれた跡が残る。

「ああ? ……おう、ありがとな」

 名乗りもせぬやりとりだったが、箱の角に貼られた布印ぬのじるしに見覚えがあった。ベネリオは受け取ると、重みを片手で量ってから店内へと戻る。

 明かりの落ちた店内は、まだ火が起きていない。だが窓から昼光ちゅうこうに、調理台の上が静かに照らされていた。

 布紐ぬのひもをほどき、ふたを開ける。

 ……ふわり。

 空気が揺れた。
 波打つように重なった小粒こつぶきのこが、日乾しされたかさの内側にあわく灰白の色を残している。鼻を寄せれば、深い森の湿りと、わずかに残った潮気しおけとが混ざっていた。

「なるほどな……干しても、森の匂いは抜けねぇってわけか」

 ベネリオは指先でひとつ摘み、炭床すみどこ片端かたはしに置いた小さな陶皿とうざらの上へ載せる。
 陶皿の底には、朝のうちに残しておいた火種が、かすかに赤くともっていた。

 きのこをひとつ、火にかける。

 焦げる音はしない。水気は抜けているのだろう。けれど、熱を帯びた傘の端から、あわい香りが広がっていく。

「……こいつは、いい」

 火が直接当たらぬよう、そっと皿をずらす。きのこの傘がゆるりと反り、その内側からわずかな油分がにじむのを見て、ベネリオは目を細めた。

 ──乾いているが、乾ききってはいない。
 この具合なら、炭の端で焼くだけでじんわりと香りが立つ。

「ったく、あのやろう……前に言ってたこと、忘れたのかと」

 肩を揺らして笑い、もうひとつ、きのこを皿に載せた。

 それから身支度を整える。
 腰に革袋を結び、布手拭いぬのてぬぐいを引っかけて、扉を押し開けた。

 陽はまだ高いが、潮風しおかぜの中に木々の香りが混じっていた。
 秋の昼下がり──魚と香草こうそうを仕入れるには、ちょうどいい時間だ。

 市場のある表通りは、ざわめきに満ちていた。
 干した海藻かいそうを巻いたかごが並び、遠くで誰かが柑橘かんきつを搾る音が聞こえる。

 ベネリオは馴染みの魚売りがいる露地ろじに向かう。

「おう、親父さん。今朝は、いいの入ってるか?」

 通りの角で、肩に網を掛けた漁師の親父がおけを洗っていた。
 陽に焼けた腕を止め、振り向いた顔は皺深しわふかく、それでいて笑っていた。

「そろそろ来ると思ってたぜ、大将。見ろ、このさば。今朝のしおが運んできた」

 桶の中には、青みを帯びたさばが何尾も並んでいた。うろこが陽を受けて光り、腹は張り、目もにごっていない。

「……いいな。こいつを二尾、くれ」
「へいへい。あんたの火なら喜ぶさ。……そういや、あの若い商人から干しきのこを取り寄せたって聞いたぜ?」
「届いたばっかだ。火と合うか、試したところよ」
「へへ、そうか。強いて言やぁ……きのこってのはな、匂いの通りが違う。濡れた炭じゃ、逃げるぞ」
「火は、昼のうちに整えとくさ」

 短いやりとりだった。だが、通い慣れたやり取りには、互いの信が染みついている。
 受け取ったさばの袋を肩に、ベネリオはふたたび歩き出す。

 通りを曲がると、ひとつだけ影の深い角があった。
 そこに、香草売りの老婆が座っている。木箱に布を被せ、小さな包みをいくつも並べていた。

「……おばあさん、香り袋をひとつ」
「ほれ、これが今朝の。がけの上の風が、ちょうど染みてる」

 包みを受け取ると、指の間から、甘やかで青い香りが立ちのぼった。
 ミントにも似ているが、もっと土に近い。火にくべれば、きのこや魚の匂いをほどよくつなぐだろう。

「……これで、よいの前に間に合う」

 礼を言って歩き出す。
 陽は少し傾き、空の青に白が混じり始めていた。

 店へ戻ると、炭床すみどこにはまだ赤みが残っていた。
 けれど、火は起きてはいない。灰の下で、しんだけが息をしている。

 扉を閉めると、外の喧騒けんそうが遠ざかっていった。
 静かな店の中に、さばの匂いと、干しきのこの乾いた香りが重なる。

 ──火は、まだだ。
 だが、香りはすでによいを予感させていた。

 厨房ちゅうぼうの隅、炭床の手前に膝をつくと、ベネリオは指先で灰を崩した。
 炭の芯がまだ柔らかく赤らんでいるのを確かめると、乾いた薪をひとつ、そっと重ねる。

 ぱちり、と音がした。

 乾いた空気のせいか、火の移りも早い。
 炭に触れる前から、薪の表皮がきしむように収縮し、香ばしい匂いが滲み出していた。

 干しきのこの香りと、さばの生臭さ、香草こうそうの青み。
 これらを一つの火で結びつけるには、しんが静かに立ち上がる火がいい。
 跳ねるような火では、きのこの油が焦げつく。
 眠っているような火なら、魚のあぶらが煙る前に弾ける。

 ──き火じゃない。料理の火だ。
 火加減は、舌のためにある。

 そう自分に言い聞かせるように、ベネリオは灰の山を少し崩し、炭を持ち上げて位置をずらす。
 火を吸った炭は、指先に微かな振動を伝えてきた。

「……よし」

 小さくつぶやいてから、包みに入っていた干しきのこをいくつか並べた。
 香草こうそうの束は、葉を一枚ずつちぎり、陶皿とうざらの縁に添えていく。

 さばはまだ捌いていない。だが、仕込みの前に、火の機嫌を見るのが先だ。

 炭床の中央から、ひと筋、白く細い煙が立った。
 香草こうそうが火を吸い、きのこの油を焦がさぬように熱を分散させている。

 ──静かだ。

 しおの匂いは、まだ濃くない。だが、干しきのこの香りは炭の赤を撫でるように滲んでいる。

 ひとつ、きのこはしで持ち上げてかじる。

 さくり。

 乾いた感触が最初に来る。だがすぐに、傘の内からほのかな苦味と、深い旨みが広がってきた。
 香草こうそうの香りがそのあとに鼻を抜け、舌には塩を使っていないのに甘味が残った。

「……こりゃ、やっぱり……火で変わるな」

 昼のうちに炙るのはもったいないほどだ。
 だが、試し焼きには最適だった。

 台の上にさばを置く。尾に向けて刃を入れると、あぶらがわずかににじんだ。

 今朝のしおの中で獲れたものだと、漁師の親父は言っていた。
 切り口にそれが証明されている。

 腹を裂き、内臓を丁寧に掻き出す。きもは崩さず、小鉢こばちに分けておいた。

 指先を洗い、ふたたび火のほうを見る。
 赤は深く、薪の芯もくすぶり始めていた。灰の縁に煙の筋がまとわりつく──ちょうどよい、呼吸を持った火だ。

 仕込みを終えた頃には、外の光が、少し斜めになっていた。

 扉を開けると、午後の陽が長く伸びていた。
 表通りにはまだ賑わいが残るが、どこか人々の歩みに影が差している。

 ──そろそろ、誰かが火の匂いを感じる時刻だ。

 店の前に立ち、腕を組む。
 しおの香りはかすかに残り、かわりにどこかから、炊きたてのこくの匂いが風に乗って届いていた。

「……いい頃合い、ってとこか」

 もうすぐ、最初の客が現れるかもしれない。
 それとも、まだよいの始まりには早いか──

 再び戸を閉めた。
 内と外が分かたれ、室内には静寂せいじゃくが戻る。

 火の前に戻ると、炙っていた干しきのこがゆっくりと反り、焦げる直前の色に染まりつつあった。

 今はまだ、出す客はいない。

 だが、夜は始まりかけていた。
 火が香りを呼び寄せる。炭が味を育てる。

 ──それだけで、十分だった。

 炭の音が、かすかに鳴った。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

能力『ゴミ箱』と言われ追放された僕はゴミ捨て町から自由に暮らすことにしました

御峰。
ファンタジー
十歳の時、貰えるギフトで能力『ゴミ箱』を授かったので、名門ハイリンス家から追放された僕は、ゴミの集まる町、ヴァレンに捨てられる。 でも本当に良かった!毎日勉強ばっかだった家より、このヴァレン町で僕は自由に生きるんだ! これは、ゴミ扱いされる能力を授かった僕が、ゴミ捨て町から幸せを掴む為、成り上がる物語だ――――。

異世界召喚された俺の料理が美味すぎて魔王軍が侵略やめた件

さかーん
ファンタジー
魔王様、世界征服より晩ご飯ですよ! 食品メーカー勤務の平凡な社会人・橘陽人(たちばな はると)は、ある日突然異世界に召喚されてしまった。剣も魔法もない陽人が頼れるのは唯一の特技――料理の腕だけ。 侵略の真っ最中だった魔王ゼファーとその部下たちに、試しに料理を振る舞ったところ、まさかの大絶賛。 「なにこれ美味い!」「もう戦争どころじゃない!」 気づけば魔王軍は侵略作戦を完全放棄。陽人の料理に夢中になり、次々と餌付けされてしまった。 いつの間にか『魔王専属料理人』として雇われてしまった陽人は、料理の腕一本で人間世界と魔族の架け橋となってしまう――。 料理と異世界が織りなす、ほのぼのグルメ・ファンタジー開幕!

スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜

かの
ファンタジー
 世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。  スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。  偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。  スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!  冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!

酒好きおじさんの異世界酒造スローライフ

天野 恵
ファンタジー
酒井健一(51歳)は大の酒好きで、酒類マスターの称号を持ち世界各国を飛び回っていたほどの実力だった。 ある日、深酒して帰宅途中に事故に遭い、気がついたら異世界に転生していた。転移した際に一つの“スキル”を授かった。 そのスキルというのは【酒聖(しゅせい)】という名のスキル。 よくわからないスキルのせいで見捨てられてしまう。 そんな時、修道院シスターのアリアと出会う。 こうして、2人は異世界で仲間と出会い、お酒作りや飲み歩きスローライフが始まる。

オバちゃんだからこそ ~45歳の異世界珍道中~

鉄 主水
ファンタジー
子育ても一段落した40過ぎの訳あり主婦、里子。 そんなオバちゃん主人公が、突然……異世界へ――。 そこで里子を待ち構えていたのは……今まで見たことのない奇抜な珍獣であった。  「何がどうして、なぜこうなった! でも……せっかくの異世界だ! 思いっ切り楽しんじゃうぞ!」 オバちゃんパワーとオタクパワーを武器に、オバちゃんは我が道を行く! ラブはないけど……笑いあり、涙ありの異世界ドタバタ珍道中。 いざ……はじまり、はじまり……。 ※この作品は、エブリスタ様、小説家になろう様でも投稿しています。

狼の子 ~教えてもらった常識はかなり古い!?~

一片
ファンタジー
バイト帰りに何かに引っ張られた俺は、次の瞬間突然山の中に放り出された。 しかも体をピクリとも動かせない様な瀕死の状態でだ。 流石に諦めかけていたのだけど、そんな俺を白い狼が救ってくれた。 その狼は天狼という神獣で、今俺がいるのは今までいた世界とは異なる世界だという。 右も左も分からないどころか、右も左も向けなかった俺は天狼さんに魔法で癒され、ついでに色々な知識を教えてもらう。 この世界の事、生き延び方、戦う術、そして魔法。 数年後、俺は天狼さんの庇護下から離れ新しい世界へと飛び出した。 元の世界に戻ることは無理かもしれない……でも両親に連絡くらいはしておきたい。 根拠は特にないけど、魔法がある世界なんだし……連絡くらいは出来るよね? そんな些細な目標と、天狼さん以外の神獣様へとお使いを頼まれた俺はこの世界を東奔西走することになる。 色々な仲間に出会い、ダンジョンや遺跡を探索したり、何故か謎の組織の陰謀を防いだり……。 ……これは、現代では失われた強大な魔法を使い、小さな目標とお使いの為に大陸をまたにかける小市民の冒険譚!

【完結】魔術師なのはヒミツで薬師になりました

すみ 小桜(sumitan)
ファンタジー
 ティモシーは、魔術師の少年だった。人には知られてはいけないヒミツを隠し、薬師(くすし)の国と名高いエクランド国で薬師になる試験を受けるも、それは年に一度の王宮専属薬師になる試験だった。本当は普通の試験でよかったのだが、見事に合格を果たす。見た目が美少女のティモシーは、トラブルに合うもまだ平穏な方だった。魔術師の組織の影がちらつき、彼は次第に大きな運命に飲み込まれていく……。

生贄公爵と蛇の王

荒瀬ヤヒロ
ファンタジー
 妹に婚約者を奪われ、歳の離れた女好きに嫁がされそうになったことに反発し家を捨てたレイチェル。彼女が向かったのは「蛇に呪われた公爵」が住む離宮だった。 「お願いします、私と結婚してください!」 「はあ?」  幼い頃に蛇に呪われたと言われ「生贄公爵」と呼ばれて人目に触れないように離宮で暮らしていた青年ヴェンディグ。  そこへ飛び込んできた侯爵令嬢にいきなり求婚され、成り行きで婚約することに。  しかし、「蛇に呪われた生贄公爵」には、誰も知らない秘密があった。

処理中です...