しずめ

山程ある

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怪談師のはなし【泥がつれてきたモノ】

カフェの女性店主

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これは、最近、怪談ライブにお越しくださったお客さまから聞いた話です。


年の頃は四十代半ばくらいの男性で、「この話を怪談として語っていいのかは、正直よく分からないんです」と、最初にそう前置きをされました。
「自分が直接見たわけじゃないし、全部あとになってからの繋ぎ合わせで、もしかするとこうだったのかもしれない、と思っただけの話ですから」

仮に、その方を木村さんと呼ぶことにします。



木村さんは、住まいの近所にあるカフェで、毎朝モーニングのコーヒーを飲むのを日課にしていた。
個人経営の小さな店だ。
カウンターとテーブルがいくつかある今風の造りだが、気取った雰囲気はなく、常連同士が自然に顔を覚え合うような、落ち着いた空気の店だった。

店を切り盛りしていたのは、三十歳前後の女性で、その穏やかな店の雰囲気は、彼女の存在によるところも大きかった。

店主の女性のことは、ここでは「みどりさん」としておきます。

常連客は皆、彼女のことを下の名前で呼んでおり、木村さんもそれにならって「碧さん」と呼んでいた。
特別に親しい関係というわけではない。
毎朝、簡単に挨拶を交わし、カウンター席に座ったときに天気やコーヒーの味について少し話す。その程度の距離感だった。

それでも、木村さんが何気なく話した内容を覚えていて、次に顔を合わせたときに「あれ、どうなりました?」と声をかけてくれるような心配りが、碧さんにはあった。

いつからだったか、木村さんは、そんな碧さんの様子に違和感を覚えるようになった。
ある時期を境に、彼女の様子が少しずつ、しかしはっきりと変わっていったのである。

急に体調を崩したとか、明らかに様子がおかしくなったというわけではない。
ただ、動きが以前よりゆっくりになった。
注文を取るときに、ほんの少し間が空く。
カウンターの奥で、何もない場所を見つめている時間が増えた。

「最近、ちょっと寝つきが悪くて」

そう言って笑うことはあったが、「何かあったんですか」と尋ねると、話は曖昧に濁された。

ときおり、それまでの会話とは脈絡のない、妙な話をすることもあった。
夜中、風呂場から物音がする。
誰もいないはずなのに、階段を上る気配がする。
朝、洗面所の鏡を見ると、水が跳ねたような跡が残っている。

どの話も決まって、「気のせいかもしれないんですけどね」と碧さんは結んだ。
彼女自身は深刻に受け取っている様子はなく、それどころか、そんな話をしたこと自体を、次に会ったときには忘れているようだった。

木村さんは、さすがに様子がおかしいと感じ、心配になる。
そこで、ふと思い出したことがあった。

以前、いつもなら営業している時間帯に、「準備中」の札が出ていた日があったのだ。
様子がおかしくなり始めたのは、ちょうどその頃からではなかったか。

ある日の朝、二人掛けのテーブルでコーヒーを飲んでいた木村さんに、隣の席に座った客が話しかけてきた。

「最近の碧ちゃん、ちょっとおかしない?」

声をかけてきたのは、品の良い白髪の夫婦で、話し手はご主人の方だった。
カウンターの様子を気にしながら、声をひそめている。

木村さんは、この夫婦の名前だけは知っていた。

ここでは仮に、乾さん夫妻としておきます。

もともと人付き合いが得意ではない木村さんは、これまで常連同士で挨拶を交わすことはあっても、世間話をすることはほとんどなかった。
突然話しかけられたことに少し驚いたが、それ以上に、乾さん夫妻の表情が真剣だったため、木村さんは話に応じた。

「たしかに、ここのところ、ぼーっとしてることはありますね」

普通に話してもカウンターまで聞こえる距離ではないが、相手に合わせて声を落とす。

「夜中に人の気配がしたとか、朝起きたら泥の足跡が階段に残っとったとか、気味の悪い話をすることもあるんや」

ご主人の口調にも表情にも、面白がっている様子はなかった。
馴染みの店主を本気で心配していることが伝わってくる。

「そういう話、私も聞いたことがあります。でも碧さん、話したこと自体を覚えていないみたいで。次にその話を振っても、不思議そうな顔をするだけなんです」

木村さんが頷くと、ご主人は「やっぱりか」と小さく呟いた。

「前にな、定休日でもないのに、この店が閉まってた日があったんや。ワシと家内は、たまたま買い物帰りに車でこの前を通って、店が閉まってるの珍しいなあって話しててん」

「それ、二、三週間くらい前じゃないですか。私も、店が閉まってて不思議に思いました」

「たしかに、そのくらいやったな」

ご主人が確認すると、奥さんも静かに頷いた。

「でも、それだけやない。ワシら、そのときに、碧ちゃんが泥だらけの男に肩を貸しながら、店に入っていくのも見てん」

「泥だらけの男、ですか」

木村さんには、その光景がすぐには想像できなかった。
この町中で、どうすれば全身が泥だらけになるのか。
その日は大雨でもなかったはずだ。

「車で通り過ぎる一瞬やったから、はっきりとは分からへんけどな。たぶん、碧ちゃんと同じか、少し年下くらいの若い男やと思う」

「一瞬で、そこまで分かったんですか」

疑うつもりはなかったが、思わず口に出ていた。

「前に、この店に来とった、カメラ持った若い子と話したことがあってな。たぶん、その子やと思うねん」

「そうなんですね」

そう答えながらも、「泥」という言葉が、木村さんの中で妙に引っ掛かった。
考え込んだ拍子に、碧さんが以前話していた言葉が、ふと蘇る。


――スニーカーにしみ込んだ泥が、洗っても全然落ちなくて。何か良い方法、知りませんか?

たしかに、そう言って困ったように笑っていた。

――登山でも行ったんですか?

そう尋ねた気がする。

――いえ、私の靴じゃなくて。知り合いが置いていったんです。捨てていいって言われたんですけど、汚れてるだけの靴を捨てるのは、やっぱり気が引けて

知り合い、という言い方はしていたが、おそらく交際相手のものなのだろうと、そのとき木村さんは思った。
碧さんほどの女性に、そういう相手がいても不思議ではない。

嫉妬とまではいかないが、胸の奥にわずかな引っ掛かりを覚え、

――動画サイトなんかで探せば、泥の落とし方も出てくるかもしれませんね

と、当たり障りのない返事をしたのだった。

――なるほど。ありがとうございます。探してみます

その時の碧さんは、印象に残るほど明るい笑顔を見せていた。



「あの、その若い男性って、一体どういう人なんですか」

木村さんの問いに、乾さんのご主人は一瞬考える素振りを見せてから、答えた。

「この辺りに昔あった森のことを、調べてる言うてたと思う」

「森、ですか」

「ああ。この町には、昔、神様として崇められとった森が何個かあってな。それについて調べとったんちゃうかな」

そこで、それまで黙っていた奥さんが口を開いた。

「最近、この店、森の匂いが強なってる気ぃせえへん?」

木村さんが首を傾げると、奥さんは柔らかく笑って続けた。

「木とか葉っぱが濡れたような匂い。それよりもっと強いのは、土の匂い。泥の匂いやね。前はたまにやったけど、今は来るたびにするわ」
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