しずめ

山程ある

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那須隼人6

神様がいる山

 隼人が帰る時、ラジがハウスの外まで見送りにきてくれた。

「ラジ、ありがとう。今日は本当に来てよかったよ」

 言葉に合わせて吐く息が白い。
 時刻は二十二時をまわっており、空気はずいぶんと冷え込んでいる。

「こちらこそ、来てくれてありがとうです。ハヤトさんにコンビニで話したときから、楽しみにしてました」

 ラジは寒さを気にする様子もなく、少し照れたように笑う。
 近くの路地からは飲食店の排気ダクトの音が、遠くからは最終に近い電車の走行音が響いてくる。都会の夜の音だ。

「ところでハヤトさん、さっき聞いたおばけの話、前に言ってたのとは違う?」

 ふいにラジが切り出した。
 声色は穏やかだが、街灯に照らされた瞳には真剣な光が宿っている。隼人が先ほど語った、あの泥の庭での体験談を気にしていたようだ。

「ああ。前に夜勤明けのオレをラジが心配してくれただろ? 実はそのあとに、もう一度あの町に行ったんだ。今日話したのはその時の体験だよ」

「ハヤトさん、おばけに気に入られてる」

「気に入られてるというか、嫌われてるというか……。でもユキさんも『近寄らなければ問題ない』って言ってたし、もうあの町には行かないよ」

 苦笑いして答えてから、隼人は、はっとあることに気づいた。

「もしかしてラジ、今日はユキさんに会わせるために、オレを招待してくれたのか?」

 ラジは否定しなかった。

「ハヤトさん、ずっと顔色が悪かったです。身体じゃなくて、もっと中のほう、心が健康じゃないのが分かりました。僕にはおばけのこととかは分かりませんけど、ユキさんならなんとかしてくれるんじゃないかと思って。でも、ハヤトさんにネパールの料理食べてもらいたかったのも本当です」

「……ありがとう」

 素直な感謝を口にすると、ラジはようやく安心したように表情を緩めた。そして、ハウスの前に並んだマリーゴールドの鉢植えを指さす。

「ハヤトさん、次に来るときはみんなの写真撮ってください。今日はいなかったハウスメイトの四人も一緒に」

「わかった。次はカメラ持ってくるよ。昼間の、明るいうちに撮ろう」

「はい! みんなにおしゃれさせますから」

 ラジは白い歯を見せて嬉しそうに笑い、それからふと、視線を遠くへ投げた。シェアハウスの屋根の向こう、ビルの隙間に切り取られた狭い夜空を見上げる。

「……ハヤトさん、いつかネパールも撮ってほしいです」

「ネパール?」

「はい。僕の村、山の間にあるんです。カトマンズからバスで何時間もかかる場所で。晴れた日の朝、学校に行く前に北のほうを見ると、すごく遠くに白くて大きな山が光ってて」

 ラジは言葉を探すように少し黙り、自分の記憶の中にある景色をなぞるように続けた。

「ヒマラヤ。近くまで行ったことはないです。お金もかかるし、観光客が行く場所だから。でも毎朝、あの白いのを見て学校に行ってました。おばあちゃんは、あの山には神様がいるって言ってました。遠いのに大きくて、きれいで……ちょっと怖いです」

 隼人はラジの視線を追うように顔を上げた。
 彼の「怖い」という言葉には、隼人が六守谷で遭遇した、あの穢れた恐怖とは違う、もっと根源的で、透き通った畏敬の感情の響きがあった。

「でもオレ、山の写真はあんまり撮ったことないんだ」

「そうなんですか?」

「うん。うら寂れた町並みとか、古い路地とか、そういうのばっかりで」

「でも、ハヤトさんの写真なら、あの山の怖いところも、きれいなところも、全部そのまま写る気がします。だから、いつか撮ってほしいです」

 真っ直ぐな信頼を向けられ、隼人は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。

「そうだな。山とか自然を撮る練習して、いつかネパールに行くよ。その時はラジが案内してくれるんだろ?」

「もちろんです。お母さんの辛いダル・バートもごちそうしますね」

「今日のでも十分辛かったけど」

「お母さんのはもっと辛いです。そしてもっと美味しいです」

 胸を張るラジの得意げな笑顔に、隼人もつられて笑みをこぼした。

「分かったよ。……じゃあまた、コンビニで」

「はい。おやすみなさい、ハヤトさん」

 手を挙げてラジに別れを告げ、隼人は駅へ向かって歩き出した。

 背後でハウスのドアが閉まる音がして、あたりに夜の静寂が戻ってくる。




 歩き始めてほどなくして、コートのポケットの中でスマホが短く振動した。
 着信ではなく、LINEの通知だ。画面を確認すると、高梨からの短いメッセージが表示されている。

『ちょっと電話できないか?』

 ――こんな時間に珍しい。飲みの誘いかな

 時間の遅い早いにかかわらず、あの六守谷町を抱える矢隈市へ出向こうとは思えない。
 もし飲みの誘いなら断ろう。そう決めて、隼人は発信ボタンをタップした。

 呼び出し音は二回と鳴らなかった。

「もしもし、隼人か?」

 食い気味に出た高梨の声は、想像していたような酔った調子ではなかった。

「ここ最近、ずっと『KUUKI』が閉まってるんだ。隼人は……葵さんとは連絡取ってないか?」
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