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怪談師のはなし【泥がつれてきたモノ】
泥のついたパンプス
木村さんが乾夫妻と話した日以降も、碧さんの様子は目に見えて変わっていった。
開店時間を間違える。
釣り銭を渡し忘れる。
前にした話を、別の日にもう一度する。
どれも致命的な失敗ではない。
だが、それらが重なっていくにつれ、店の空気がどこか噛み合わなくなっていった。
そして、いつしか碧さんは、同じ話を繰り返すようになった。
このあたりには、昔、泥深い田んぼがあったという話だ。
「足を踏み入れると、脛のあたりまで沈むんですよ」
そう語るときの碧さんの嬉しそうな口調は、昔話を伝聞でなぞっているようなものではなかった。
まるで、自分の足で立ち、泥の感触を確かめたことがあるかのような言い方だった。
木村さんが乾夫妻と話す機会も増えたが、話題は決まって碧さんの様子についてだった。
乾夫妻もまた、碧さんからこのあたりに昔あったという田んぼの話を、何度も聞かされているそうだ。
「その話、乾さんが碧さんに教えたんじゃないんですか?」
木村さんはそう訊いた。
この町が新しくなる前から住んでいる乾さんが、昔の風景を話して聞かせたのではないかと思っていたのだ。
しかし、ご主人は静かに首を振った。
「たしかに、この辺は昔、田んぼばっかりやったけどな。でも、ワシは碧ちゃんに、そんな話はしてへんで」
脛まで沈むほど泥が深く、年中ぬかるんでいたこと。
牛を使っても思うように耕せず、足を取られて転ぶ人も少なくなかったこと。
一度踏み込むと引き抜くのが大変で、無理に動くと余計に沈んでしまうこと。
碧さんは、乾夫妻に対しても、そうした話を繰り返し語っていたという。
やはり不思議だったのは、その語り口で、郷土史を調べたとか、誰かから聞いた話をなぞっているようには聞こえなかったそうだ。
ご主人は、首をかしげながらこう言った。
「碧ちゃん、あの田んぼを実際に見たわけやないはずやのにな。なんや、『足首のあたりで、泥が吸いつく感じがする』なんて、感触まで覚えてるみたいな言い方するんや」
碧さんの様子がおかしいのは、誰の目にも明らかだった。
だが、どうすればいいのかは分からない。
「何かできることはないでしょうか」
木村さんがそう問うても、ご主人は「分からへん」と、悲しそうに首を振るばかりだった。
木村さん自身も、碧さん本人にどんな忠告をすればいいのか見当がつかなかった。
警察や行政に相談するような話でもない。
結局のところ、ただ、店に通い続けることしか木村さんにはできなかった。
そして、最後に店を訪れた日のことだ。
その日も碧さんは、明らかに上の空だった。
注文を受ける声は小さく、視線が合ってもすぐに逸れる。
その目は、何も映していないガラス玉のようだった。
会計を済ませ、釣り銭を受け取るためにカウンターの前に立ったまま、
木村さんはふと気になって視線をあげた。
碧さんは手に木村さんから受け取った紙幣を持ったまま、カウンターの奥で立ち尽くしていた。
視線は床に落ち、何かを見つめている。
「……碧さん」
声をかけると、少し遅れて顔を上げた。
「はい」と返事はあったが、こちらを見ているようで、やはり焦点は合っていなかった。
そのとき、木村さんは気づいた。
碧さんが履いていた、店内用のパンプス。
そのつま先から甲にかけて、乾いた泥がべったりと付着していた。
その日は雨など降っていない。
店の床は掃除が行き届いており、土が持ち込まれるような場所ではなかった。
そして木村さんが知る限り、碧さんは、その日、店の外には出ていない。
ここで何とかしなければならない。
このままでは、碧さんが危険だ。
はっきりと、そう思った。確信があった。
だが、その直後だった。
心配とは別の感情が、唐突に湧き上がってきた。
理由の分からない、強烈な恐怖だった。
関わってはいけない。
今すぐ、この場を離れなければならない。
何かが、こちらを見ている。
手が伸びてくる前に、距離を取らなければならない。
あの泥が怖い。
理屈ではなかった。
身体が、先に反応していた。
釣り銭を受け取るのももどかしく、
木村さんは、ほとんど転がるように店を出た。
背後でドアが閉まる音を聞いた瞬間、
深い安堵に包まれ、しばらくその場から動けなかったという。
それからしばらく、木村さんは店に足を運べなかった。
意を決して店に向かったのは、一週間が過ぎてからだった。
いつもなら店は開いている時間だが、扉は閉まったままで、
「準備中」の札が下がっていた。灯りもついていない。
インターホンを押し、ドアを叩いても反応はなかった。
心配ではあったが、木村さんは碧さんの連絡先を知らなかった。
諦めきれず、その翌日には仕事を休み、昼頃に再び店を訪れた。
すると店の前には警察車両が止まり、近所が騒然としていた。
店は、もぬけの空だった。碧さんは行方不明だった。
事故なのか、事件なのか。警察が捜索を続けたが、結局、碧さんの行方は分からなかった。
木村さんは、最後にこう付け加えた。
「あとから思い返すと、あの店、ずっと土の匂いがしてた気がするんです」
コーヒーの香りに混じって、湿った土の匂い。
最初は気のせいだと思っていたが、それはもしかすると、
碧さんが何度も語っていた、脛まで沈む田んぼの泥の匂いではなかったか。
「碧さんが、どこへ行ってしまったのかは分かりません。
ただ、乾さんの話にあった、碧さんが肩を貸していた泥だらけの青年が、良くないものと碧さんを結び付けたんじゃなかったのか、そんな風に考えたりもします」
そう言って、木村さんは話を終えた。
この話が怪談なのかどうか、私にも分かりません。
碧さん失踪の犯人が泥だらけの青年なのならば、これは事件です。
しかし、木村さんがいうように、故意に、あるいは意図せずしてかもしれませんが、その青年が良くないものを店に呼び込んでしまい、碧さんはそれに連れ去られてしまったという解釈も成り立つのではないかと、私も思います。
ただ一つ確かなのは、碧さんは今もまだ、見つかっていないということです。
開店時間を間違える。
釣り銭を渡し忘れる。
前にした話を、別の日にもう一度する。
どれも致命的な失敗ではない。
だが、それらが重なっていくにつれ、店の空気がどこか噛み合わなくなっていった。
そして、いつしか碧さんは、同じ話を繰り返すようになった。
このあたりには、昔、泥深い田んぼがあったという話だ。
「足を踏み入れると、脛のあたりまで沈むんですよ」
そう語るときの碧さんの嬉しそうな口調は、昔話を伝聞でなぞっているようなものではなかった。
まるで、自分の足で立ち、泥の感触を確かめたことがあるかのような言い方だった。
木村さんが乾夫妻と話す機会も増えたが、話題は決まって碧さんの様子についてだった。
乾夫妻もまた、碧さんからこのあたりに昔あったという田んぼの話を、何度も聞かされているそうだ。
「その話、乾さんが碧さんに教えたんじゃないんですか?」
木村さんはそう訊いた。
この町が新しくなる前から住んでいる乾さんが、昔の風景を話して聞かせたのではないかと思っていたのだ。
しかし、ご主人は静かに首を振った。
「たしかに、この辺は昔、田んぼばっかりやったけどな。でも、ワシは碧ちゃんに、そんな話はしてへんで」
脛まで沈むほど泥が深く、年中ぬかるんでいたこと。
牛を使っても思うように耕せず、足を取られて転ぶ人も少なくなかったこと。
一度踏み込むと引き抜くのが大変で、無理に動くと余計に沈んでしまうこと。
碧さんは、乾夫妻に対しても、そうした話を繰り返し語っていたという。
やはり不思議だったのは、その語り口で、郷土史を調べたとか、誰かから聞いた話をなぞっているようには聞こえなかったそうだ。
ご主人は、首をかしげながらこう言った。
「碧ちゃん、あの田んぼを実際に見たわけやないはずやのにな。なんや、『足首のあたりで、泥が吸いつく感じがする』なんて、感触まで覚えてるみたいな言い方するんや」
碧さんの様子がおかしいのは、誰の目にも明らかだった。
だが、どうすればいいのかは分からない。
「何かできることはないでしょうか」
木村さんがそう問うても、ご主人は「分からへん」と、悲しそうに首を振るばかりだった。
木村さん自身も、碧さん本人にどんな忠告をすればいいのか見当がつかなかった。
警察や行政に相談するような話でもない。
結局のところ、ただ、店に通い続けることしか木村さんにはできなかった。
そして、最後に店を訪れた日のことだ。
その日も碧さんは、明らかに上の空だった。
注文を受ける声は小さく、視線が合ってもすぐに逸れる。
その目は、何も映していないガラス玉のようだった。
会計を済ませ、釣り銭を受け取るためにカウンターの前に立ったまま、
木村さんはふと気になって視線をあげた。
碧さんは手に木村さんから受け取った紙幣を持ったまま、カウンターの奥で立ち尽くしていた。
視線は床に落ち、何かを見つめている。
「……碧さん」
声をかけると、少し遅れて顔を上げた。
「はい」と返事はあったが、こちらを見ているようで、やはり焦点は合っていなかった。
そのとき、木村さんは気づいた。
碧さんが履いていた、店内用のパンプス。
そのつま先から甲にかけて、乾いた泥がべったりと付着していた。
その日は雨など降っていない。
店の床は掃除が行き届いており、土が持ち込まれるような場所ではなかった。
そして木村さんが知る限り、碧さんは、その日、店の外には出ていない。
ここで何とかしなければならない。
このままでは、碧さんが危険だ。
はっきりと、そう思った。確信があった。
だが、その直後だった。
心配とは別の感情が、唐突に湧き上がってきた。
理由の分からない、強烈な恐怖だった。
関わってはいけない。
今すぐ、この場を離れなければならない。
何かが、こちらを見ている。
手が伸びてくる前に、距離を取らなければならない。
あの泥が怖い。
理屈ではなかった。
身体が、先に反応していた。
釣り銭を受け取るのももどかしく、
木村さんは、ほとんど転がるように店を出た。
背後でドアが閉まる音を聞いた瞬間、
深い安堵に包まれ、しばらくその場から動けなかったという。
それからしばらく、木村さんは店に足を運べなかった。
意を決して店に向かったのは、一週間が過ぎてからだった。
いつもなら店は開いている時間だが、扉は閉まったままで、
「準備中」の札が下がっていた。灯りもついていない。
インターホンを押し、ドアを叩いても反応はなかった。
心配ではあったが、木村さんは碧さんの連絡先を知らなかった。
諦めきれず、その翌日には仕事を休み、昼頃に再び店を訪れた。
すると店の前には警察車両が止まり、近所が騒然としていた。
店は、もぬけの空だった。碧さんは行方不明だった。
事故なのか、事件なのか。警察が捜索を続けたが、結局、碧さんの行方は分からなかった。
木村さんは、最後にこう付け加えた。
「あとから思い返すと、あの店、ずっと土の匂いがしてた気がするんです」
コーヒーの香りに混じって、湿った土の匂い。
最初は気のせいだと思っていたが、それはもしかすると、
碧さんが何度も語っていた、脛まで沈む田んぼの泥の匂いではなかったか。
「碧さんが、どこへ行ってしまったのかは分かりません。
ただ、乾さんの話にあった、碧さんが肩を貸していた泥だらけの青年が、良くないものと碧さんを結び付けたんじゃなかったのか、そんな風に考えたりもします」
そう言って、木村さんは話を終えた。
この話が怪談なのかどうか、私にも分かりません。
碧さん失踪の犯人が泥だらけの青年なのならば、これは事件です。
しかし、木村さんがいうように、故意に、あるいは意図せずしてかもしれませんが、その青年が良くないものを店に呼び込んでしまい、碧さんはそれに連れ去られてしまったという解釈も成り立つのではないかと、私も思います。
ただ一つ確かなのは、碧さんは今もまだ、見つかっていないということです。
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