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那須隼人7
充電器
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高梨との通話を終えたあと、隼人はしばらく路地の入口に立ったままだった。
シェアハウスの窓のいくつかがすでに暗い。もとより不在のメンバーの部屋なのか、今日一緒に食事をした誰かがすでに眠りについたのか。そんなことを考えながらも、隼人は手ごとポケットにしまったスマートフォンを握りしめていた。やけに重く感じられる。冷たい夜風が思ったより強く、コートの裾がわずかに揺れた。
明日の夜もシフトには入っていない。
急いで帰る理由はなかったが、ここに留まる理由もなかった。
隼人はのそりのそりと歩き出した。
――最近ずっと閉まってる
その言葉だけが、耳の奥に残っていた。
理由も、いつからなのかも、高梨は言わなかった。
聞けばよかったのに、とは思う。だが、さっきは「そうなのか、心配だな」という、あたり障りのない言葉以外が出てこなかった。
部屋に戻ると、コートだけ脱ぎ捨ててベッドに腰を下ろした。
ベッド脇の机の上には、カメラが置いてある。レンズも付けたままだ。最後に触ったときの位置から動いていない。
隼人は手を伸ばしてカメラを手に取った。
重さを確かめるように持ち上げ、親指が電源ボタンの上にかかる。
ほんの一秒ほどためらってから、結局押さずにカメラを机に戻した。
代わりに、バッグから取り出したスマートフォンを操作し、写真フォルダを開く。
日付順に並んだデータの中に、六守谷の名前が入ったフォルダがある。
開くと、綺麗に舗装された道や、新しい家の並んだ街並みが写っていた。
撮ったときのことは、細かいところまで思い出せる。
風の匂い、空気の冷たさ、自然の光の白さ、その風景のどこを切り取ろうと考えたのか。
日付を進めれば、火事跡の家や泥の庭の写真も出てくるだろう。
それらを見ないように写真フォルダを閉じた。
見学の言葉が、断片的に浮かぶ。
──生きてる人間の世界におらなあかんで
ユキの声も、同じように重なる。
――その悪いものは、そこから離れたハヤトには手が届かないから
自分のせいかもしれない、という考えが、また浮かぶ。
あの庭に行った直後、葵の家でシャワーを借りたのだ。
否定しようとしても、完全には消えない。
LINEを開いた。高梨とのトーク画面。
入力欄に指を置き、文字を打つ。
『いつから?』
そう打ちかけて、消す。
次に、
『最後に会った時』
そこまで入力して、やはり消した。
質問を送ってしまえば、答えが返ってくる。返事が来れば、何かを決めなければならなくなる。
スマートフォンの画面を消し、ベッドの横に置いた。
時計を見ると、もう日付が変わっていた。
翌日が夜勤シフトに入っていれば、調整のために朝まで起きておく必要がある。だが明日も休みだ。眠ってしまってもいい。しかし、まだ眠気はやってこなかった。
冷蔵庫を開け、水を飲む。
コップの縁が少し欠けているのに気づき、今度捨てようと思った。
流し台に置いたまま、洗わなかった。
シャワーを浴び、髪を乾かし、コンビニ夜勤の癖で時計を確認する。
それでもまだ、眠れるほどの疲れはやってこなかった。
ベッドに横になり、天井を見ているうちに、いつの間にか外が明るくなっていた。
カーテン越しの光は、昨日と変わらない朝の色だ。
九時を少し過ぎた頃、スマートフォンが震えた。
高梨からのLINEだった。
『さっき職場で聞いたんだけどな』
『KUUKIに昨日パトカー来てたらしい』
隼人は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
特別な言葉でも、強い調子でもない。
同僚から聞いた噂を、そのまま送ってきただけの文面だ。短い文章をバラバラに送ってきているのは、きっと始業時間を過ぎてから、こそこそとスマートフォンを触っているからなのだろう。
それでも、十分だった。
何もしなかったこと。
聞かなかったこと。
行かなかったこと。
そのすべてが、もう取り返せない場所に置き去りにされたのだと分かる。
そのとき、ふと思い出した。
葵に、まだ返していないものがあった。
シャワーを借りた夜、買ってきてくれた下着の代金だ。
払うと言いながら、あの時は動転しており、そのままになっていた。
金額がいくらだったのかも知らない。
もしかすると、葵は受け取らないかもしれない。
それでも、返していない、という事実だけは残っている。
これが、行かなければならない理由だ、とは思わなかった。
ただ、六守谷に行かずに済ませる言い訳が、自分の中にもう残っていないことだけは分かっていた。
スマートフォンを置いて立ち上がり、隼人は机の上のカメラを見下ろした。
まだ電源は入れていない。
バッテリーの残量も、確かめていない。
それでも、充電器を探すために、引き出しを開けている自分がいた。
シェアハウスの窓のいくつかがすでに暗い。もとより不在のメンバーの部屋なのか、今日一緒に食事をした誰かがすでに眠りについたのか。そんなことを考えながらも、隼人は手ごとポケットにしまったスマートフォンを握りしめていた。やけに重く感じられる。冷たい夜風が思ったより強く、コートの裾がわずかに揺れた。
明日の夜もシフトには入っていない。
急いで帰る理由はなかったが、ここに留まる理由もなかった。
隼人はのそりのそりと歩き出した。
――最近ずっと閉まってる
その言葉だけが、耳の奥に残っていた。
理由も、いつからなのかも、高梨は言わなかった。
聞けばよかったのに、とは思う。だが、さっきは「そうなのか、心配だな」という、あたり障りのない言葉以外が出てこなかった。
部屋に戻ると、コートだけ脱ぎ捨ててベッドに腰を下ろした。
ベッド脇の机の上には、カメラが置いてある。レンズも付けたままだ。最後に触ったときの位置から動いていない。
隼人は手を伸ばしてカメラを手に取った。
重さを確かめるように持ち上げ、親指が電源ボタンの上にかかる。
ほんの一秒ほどためらってから、結局押さずにカメラを机に戻した。
代わりに、バッグから取り出したスマートフォンを操作し、写真フォルダを開く。
日付順に並んだデータの中に、六守谷の名前が入ったフォルダがある。
開くと、綺麗に舗装された道や、新しい家の並んだ街並みが写っていた。
撮ったときのことは、細かいところまで思い出せる。
風の匂い、空気の冷たさ、自然の光の白さ、その風景のどこを切り取ろうと考えたのか。
日付を進めれば、火事跡の家や泥の庭の写真も出てくるだろう。
それらを見ないように写真フォルダを閉じた。
見学の言葉が、断片的に浮かぶ。
──生きてる人間の世界におらなあかんで
ユキの声も、同じように重なる。
――その悪いものは、そこから離れたハヤトには手が届かないから
自分のせいかもしれない、という考えが、また浮かぶ。
あの庭に行った直後、葵の家でシャワーを借りたのだ。
否定しようとしても、完全には消えない。
LINEを開いた。高梨とのトーク画面。
入力欄に指を置き、文字を打つ。
『いつから?』
そう打ちかけて、消す。
次に、
『最後に会った時』
そこまで入力して、やはり消した。
質問を送ってしまえば、答えが返ってくる。返事が来れば、何かを決めなければならなくなる。
スマートフォンの画面を消し、ベッドの横に置いた。
時計を見ると、もう日付が変わっていた。
翌日が夜勤シフトに入っていれば、調整のために朝まで起きておく必要がある。だが明日も休みだ。眠ってしまってもいい。しかし、まだ眠気はやってこなかった。
冷蔵庫を開け、水を飲む。
コップの縁が少し欠けているのに気づき、今度捨てようと思った。
流し台に置いたまま、洗わなかった。
シャワーを浴び、髪を乾かし、コンビニ夜勤の癖で時計を確認する。
それでもまだ、眠れるほどの疲れはやってこなかった。
ベッドに横になり、天井を見ているうちに、いつの間にか外が明るくなっていた。
カーテン越しの光は、昨日と変わらない朝の色だ。
九時を少し過ぎた頃、スマートフォンが震えた。
高梨からのLINEだった。
『さっき職場で聞いたんだけどな』
『KUUKIに昨日パトカー来てたらしい』
隼人は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
特別な言葉でも、強い調子でもない。
同僚から聞いた噂を、そのまま送ってきただけの文面だ。短い文章をバラバラに送ってきているのは、きっと始業時間を過ぎてから、こそこそとスマートフォンを触っているからなのだろう。
それでも、十分だった。
何もしなかったこと。
聞かなかったこと。
行かなかったこと。
そのすべてが、もう取り返せない場所に置き去りにされたのだと分かる。
そのとき、ふと思い出した。
葵に、まだ返していないものがあった。
シャワーを借りた夜、買ってきてくれた下着の代金だ。
払うと言いながら、あの時は動転しており、そのままになっていた。
金額がいくらだったのかも知らない。
もしかすると、葵は受け取らないかもしれない。
それでも、返していない、という事実だけは残っている。
これが、行かなければならない理由だ、とは思わなかった。
ただ、六守谷に行かずに済ませる言い訳が、自分の中にもう残っていないことだけは分かっていた。
スマートフォンを置いて立ち上がり、隼人は机の上のカメラを見下ろした。
まだ電源は入れていない。
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それでも、充電器を探すために、引き出しを開けている自分がいた。
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