『49歳の亡命 〜子供部屋からの脱出〜』

かおるこ

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第2話:消えた1,000万円

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夕闇が、古い日本家屋の湿った空気をいっそう重く沈ませていた。

一階のキッチンでは、母・キヨが鼻歌まじりに肉を焼く音がしている。ジューッという脂の弾ける音と、甘辛い醤油の匂い。かつては空腹を刺激したその香りが、今の和夫には死肉の腐敗臭のように鼻を突いた。

和夫は、自室の畳に這いつくばったまま、手の中の通帳を凝視していた。
【ザンタカ ¥4,218】
網膜に焼き付いたその数字が、チカチカと赤く明滅する。

「……おかしいだろ。計算が合わない」

和夫は震える指で、過去の印字を遡った。障害基礎年金。二ヶ月に一度、振り込まれる約十五万円。和夫が二十代の終わりに心を病み、この部屋に引きこもってから二十年近く。単純計算でも、二千万円近い金がこの口座を通り過ぎていったはずだ。

たとえ食費や光熱費として月に数万円を家に入れたとしても、少なくとも一千万円は「僕の将来のため」に残っているはずだった。母はいつもそう言っていた。「あんたが一人になったとき困らないように、お母さんが一円も付けずに貯めてるからね」と。

和夫は、他の通帳も狂ったようにめくり始めた。
そこには、母の「嘘」が、黒いインクのシミとなって無数に刻まれていた。

『振込 アニキ』『イトウ マゴ イワイ』『ニッセン ツウハン』『ケンコウ ジュズ』

「なんだよ……これ……」

喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
兄・哲也への頻繁な送金。姪の入学祝い、誕生日、お年玉。そして、母が心酔している怪しげな通信販売や、「運気が上がる」と謳う高額な健康器具。
和夫の魂を削って国から支給された金は、和夫が一度も袖を通したことのないブランド服になり、一度も会ったことのない姪のピアノの月謝になり、母の寂しさを埋めるためのガラクタに化けていた。

「和夫さーん、焼けたわよ! 早くおいで」

下の階から、キヨの朗らかな声が響く。その無邪気さが、今の和夫には悪魔の咆哮よりも恐ろしかった。
和夫は通帳をポケットにねじ込み、階段を降りた。一歩踏み出すごとに、古い木造の床がギリ、ギリと、彼の心の軋みのような音を立てる。

リビングの食卓には、見栄えだけはいい牛ステーキが並んでいた。
「ほら、奮発したのよ。四十九歳の門出だもの」
キヨは、和夫の顔を見るなり、シワの寄った目元を細めて笑った。その笑顔の奥に、和夫は初めて「捕食者」の冷酷さを見た。

「お母さん」
和夫は椅子に座らず、食卓の端を強く掴んだ。指先が白く変わる。
「……通帳、見たよ」

キヨの動きが、凍りついたように止まった。
手に持っていたトングが、カランと皿に当たって高い音を立てる。
「……何の話?」
「仏壇の奥。隠してあった通帳。全部見た。一千万以上あるはずの金が、なんで四千円しかないんだよ」

沈黙が、部屋を支配した。換気扇のブーンという低い唸りだけが、二人の間に流れる。
キヨはゆっくりと姿勢を正し、エプロンで手を拭いた。その目は、もはや先ほどの慈母のものではない。冷たく、どこか見下すような光が宿っていた。

「……勝手に人のものを持ち出すなんて、泥棒みたいな真似するのね」
「僕の金だ! 泥棒はどっちだよ!」
和夫の叫びが、狭いリビングに反響する。
「兄貴にいくら流した? 通販にいくら使った? 僕が、この暗い部屋で、死にたい気持ちを抱えながら、外にも出られずにいた二十年間……その対価がこれかよ! 僕の人生を、食いつぶしてたのか!」

キヨは鼻で笑った。
「食いつぶす? 心外ね。あんた、この二十年、誰がご飯を作って、誰が洗濯をして、誰が世間の冷たい目から守ってやったと思ってるの? その食費、電気代、固定資産税。あんたの年金だけで足りるわけないじゃない」
「嘘だ! 計算すればわかる! 兄貴に貸してる分を返してもらえば……」
「哲也さんはね、ちゃんと社会で働いて、子供を育ててるの。あんたみたいに部屋にこもって、国のお荷物になってるのとは違うのよ。家族なんだから、助け合うのは当然でしょう?」

助け合う。
その美しい言葉が、和夫の胃液を逆流させた。
和夫を「引きこもり」という檻に閉じ込め、外の世界の恐怖を植え付け、依存させ、その実、彼を「金を生む家畜」として飼育していたのだ。
兄は「光」を浴び、和夫は「影」でその光の代金を払い続ける。

「お母さんはね、あんたのためを思って言ってるの。そのお金をあんたに渡してみなさい。どうせ変な宗教に騙されるか、無駄遣いして終わりよ。お母さんが管理してあげてるから、こうしてステーキだって食べられるのよ」
キヨは、まるで子供に言い聞かせるように、和夫の手に触れようとした。

和夫はその手を、烈火のごとく振り払った。
「触るな!」
「……和夫さん?」
「僕は、あんたの財布じゃない。兄貴のスポンサーでもない。僕は……人間だ」

和夫の瞳から、熱いものが溢れた。それは悲しみではなく、あまりにも遅すぎた怒りだった。
自分の二十代、三十代。一番動けたはずの季節。
「外に出るのが怖い」という病を、母は治そうとはしなかった。むしろ、外の世界がいかに残酷かを毎日語り聞かせ、和夫をこの六畳間に縛り付けた。そうすれば、都合のいい金が手に入るから。
親心という名の、寄生。

「お金、返してくれ。今すぐ、兄貴に電話して返させろ」
和夫の声は震えていたが、そこには退かない決意があった。
しかし、キヨは溜息をつき、冷めた目で和夫を見上げた。
「無理よ。もう使っちゃったもの。それにね、あんた。その通帳を持ってどこへ行くつもり? 外に出れば、みんなあんたを指差して笑うわよ。『五十手前の子供部屋おじさんが、親に逆らって家出ですか』ってね。あんたには、ここしかないの。お母さんの腕の中しか、居場所はないのよ」

呪文だ。
和夫を縛り付けてきた、最強の呪文。
「……ここしかないなんて、誰が決めた」
和夫はポケットの中の、残高四千二百十八円の通帳を握りしめた。
この四千円は、絶望の数字じゃない。
このババアの呪縛から、僕が「亡命」するための、最初の軍資金だ。

「もういい。話しても無駄だ」
「和夫さん! どこへ行くの! ご飯は? ステーキが冷めるじゃない!」

背後で叫ぶ母の声を無視し、和夫は再び階段を駆け上がった。
部屋に戻り、内側から鍵をかける。
静寂が戻ってきた。しかし、今朝までの静寂とは違う。
それは、戦場に赴く前の、張り詰めた静寂だった。

和夫は暗闇の中で、スマートフォンの画面を点灯させた。
検索窓に、震える指で打ち込む。
『障害者 自立支援 相談窓口』
『親 金 使い込み 相談』

画面の光が、和夫の頬を青白く照らす。
外の世界は怖い。人は恐ろしい。
けれど、自分を愛している振りをしながら、内側から自分を食い破っていくこの女の隣にいるよりは、マシだ。

「僕は……死なない」

和夫は、壁に貼られた古いカレンダーの裏に、殴り書きでメモを取った。
明日、母が買い物に行く一時間。
それが、僕の「亡命」の決行時刻だ。

胃の中のステーキの脂が、ひどく胸を焼いた。
和夫は、生まれて初めて、自分だけの力で夜を明かそうとしていた。
四十九歳の、残酷で、しかし真実の誕生日の夜を。

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