『49歳の亡命 〜子供部屋からの脱出〜』

かおるこ

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第3話:優しい監禁

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朝の光が、埃の舞う六畳間に冷たく差し込んでいた。

和夫は一睡もできなかった。目が冴え渡り、頭の奥で神経が細い針のように突き刺さるような感覚。耳を澄ませば、階下でキヨが掃除機をかける音が、ズズズと床を這う蛇の音のように聞こえてくる。

昨日までの「優しい母」は、もういない。
和夫は、勇気を振り絞って再び一階に降りた。手には、昨夜見つけたあの「空っぽの通帳」を握りしめている。

「お母さん。もう一度言うよ。この通帳の金を、少しずつでいいから返して。僕は、ここを出てグループホームか何かを探す。自分で……自分の人生をやり直したいんだ」

掃除機の音が、唐突に止まった。
静寂。耳鳴りがするほどの沈黙。
キヨはゆっくりと腰を伸ばし、振り返った。その顔には、和夫がこれまで見たこともないような、不気味なほど「穏やかな」微笑が浮かんでいた。

「和夫さん。あんた、まだそんな夢みたいなこと言ってるの? 外の世界がどんなに恐ろしいか、もう忘れたの?」

キヨは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。古い家の木の香りと、母が常用している湿布のツンとした匂いが鼻を突く。それは「介護」を象徴する匂いだ。

「自立? 笑わせないで。あんた、一人で電車に乗れるの? 役所で自分の名前を書いて、窓口の人と目を合わせて話せるの? 無理よ。あんたはね、ちょっとしたストレスですぐに頭が真っ白になって、動けなくなる。パニックになって、道端でうずくまって……。その時、誰が助けてくれると思ってるの? 通りすがりの他人が? 警察が? いいえ、みんな汚いものを見るような目で、あんたを避けて通るだけよ」

「……それでも、僕は行かなきゃいけないんだ。ここにいたら、僕は死んでるのと同じだ」

「死んでる? 心外ねえ。お母さんは、あんたを『生かす』ために、どれだけ自分を犠牲にしてきたか。友達との旅行も、自分の服も、全部我慢して。あんたの将来のために、毎日毎日……」

「嘘だ! 僕の金を、兄貴や自分の通販に使ってたじゃないか!」

和夫の叫びに、キヨの表情が瞬時に凍りついた。
次の瞬間、彼女の口から漏れたのは、低い、地を這うような笑い声だった。

「使い込んだ? 違うわ。あれは『保管料』よ。あんたのような社会の役に立たない人間を、五十年近くもこの屋根の下で養って、三食食べさせて、誰にも後ろ指を指されないように守ってあげた。その手間賃よ。むしろ足りないくらいだわ」

「手間賃……? 僕は、あんたの商売道具じゃない!」

「いいえ。あんたは、お母さんがいないと一分も生きていけない『無力な子供』なのよ。四十九にもなって、まだそれがわからない? 情けないわね。外の空気に触れたら、あんたなんて一瞬でバラバラに壊れてしまう。お母さんはね、あんたが壊れるのが見たくないの。だから、こうして守ってあげてるのよ。これは愛情なの。わかる? 世界中で、あんたを愛してるのは、お母さんだけなのよ」

キヨの手が、和夫の頬に伸びた。冷たく、カサカサとした枯れ木のような指先。
和夫は思わず身をすくめた。その指が触れた場所が、氷を押し当てられたように痺れる。

「ねえ、和夫さん。そんな汚い通帳なんて捨てて、二階に戻りなさい。今日はあんたの好きな、柔らかいオムライスを作ってあげる。ケチャップでハートを描いてあげるから。ね? それを食べて、ぐっすり眠ればいいの。外のことなんて考えなくていい。お母さんが、死ぬまであんたを隠してあげる。誰にも見られないように。誰にも傷つけられないように……」

その言葉は、まるで真綿で首を絞められるような心地よさと、吐き気がするほどの拒絶感を同時に運んできた。
「愛情」という名にパッケージされた、猛毒。
母が言う「守る」とは、和夫の翼を一本ずつ丁寧に、しかし確実に、引きちぎっていく行為だった。

「……監禁だ。これは、監禁だよ」
和夫は掠れた声で呟いた。

「監禁? 人聞きが悪いわね。あんたは自由よ。二階の部屋でゲームをしてもいいし、テレビを見てもいい。ただ、『外』という毒の中に飛び込むのを止めているだけ。お母さんは、あんたの命を守ってるの。……ああ、そうそう。念のために、玄関の合鍵は、お母さんが持っておくわね。あんた、最近少し情緒が不安定だから、ふらっと外に出て事故にでも遭ったら大変だもの」

キヨはエプロンのポケットから、和夫がいつも使っていた鍵を取り出した。いつの間に持ち出したのか。ジャラリと鳴る金属音が、独房の扉を閉める音に聞こえた。

「返せよ! それは僕の鍵だ!」

「いいえ、これは『安全装置』。あんたがもっと落ち着いて、お母さんの言うことを聞けるようになったら、また返してあげる。さあ、上に行きなさい。いい子ね、和夫さん。あんたは、お母さんの可愛い赤ちゃんだった頃から、何も変わらなくていいのよ」

和夫は、崩れ落ちそうになる足を必死に支えながら、階段を這い上がった。
背後から、「ふふふ」という、少女のような無垢で残酷な笑い声が追いかけてくる。

部屋に戻り、内側から鍵をかけようとしたが、手元が震えてなかなかかからない。
ようやくカチャリと音がした時、和夫は冷たいフローリングに顔を押し付けた。

(……負けるな。ここで折れたら、僕は一生、あのお節料理の煮物みたいな匂いの中で、腐っていくんだ)

母が吐いた呪いの言葉が、耳の奥でリフレインする。
『外に出てもあんたに何ができるの?』
『誰が面倒を見ると思ってるの?』
『あんたは壊れてしまう』

その呪いに抗うように、和夫はスマートフォンの画面を点灯させた。
昨日、履歴に残した「就労支援センター」の番号。
窓の外では、名前も知らない鳥が、自由な羽音を立てて飛び去っていく。

和夫は、震える親指を画面に押し当てた。
「パニックになってもいい。壊れてもいい。……それでも、僕は僕のままで、外で壊れたい」

窓を叩く冬の風が、和夫の頬を叩いた。
それは、母の冷たい指先よりもずっと、生きている実感を伴っていた。

母という名の優しい看守。
子供部屋という名の清潔な棺桶。
そこからの亡命は、今、ようやく思想の段階から、実践へと移ろうとしていた。

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