3 / 14
第2話:消えた1,000万円
しおりを挟む
夕闇が、古い日本家屋の湿った空気をいっそう重く沈ませていた。
一階のキッチンでは、母・キヨが鼻歌まじりに肉を焼く音がしている。ジューッという脂の弾ける音と、甘辛い醤油の匂い。かつては空腹を刺激したその香りが、今の和夫には死肉の腐敗臭のように鼻を突いた。
和夫は、自室の畳に這いつくばったまま、手の中の通帳を凝視していた。
【ザンタカ ¥4,218】
網膜に焼き付いたその数字が、チカチカと赤く明滅する。
「……おかしいだろ。計算が合わない」
和夫は震える指で、過去の印字を遡った。障害基礎年金。二ヶ月に一度、振り込まれる約十五万円。和夫が二十代の終わりに心を病み、この部屋に引きこもってから二十年近く。単純計算でも、二千万円近い金がこの口座を通り過ぎていったはずだ。
たとえ食費や光熱費として月に数万円を家に入れたとしても、少なくとも一千万円は「僕の将来のため」に残っているはずだった。母はいつもそう言っていた。「あんたが一人になったとき困らないように、お母さんが一円も付けずに貯めてるからね」と。
和夫は、他の通帳も狂ったようにめくり始めた。
そこには、母の「嘘」が、黒いインクのシミとなって無数に刻まれていた。
『振込 アニキ』『イトウ マゴ イワイ』『ニッセン ツウハン』『ケンコウ ジュズ』
「なんだよ……これ……」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
兄・哲也への頻繁な送金。姪の入学祝い、誕生日、お年玉。そして、母が心酔している怪しげな通信販売や、「運気が上がる」と謳う高額な健康器具。
和夫の魂を削って国から支給された金は、和夫が一度も袖を通したことのないブランド服になり、一度も会ったことのない姪のピアノの月謝になり、母の寂しさを埋めるためのガラクタに化けていた。
「和夫さーん、焼けたわよ! 早くおいで」
下の階から、キヨの朗らかな声が響く。その無邪気さが、今の和夫には悪魔の咆哮よりも恐ろしかった。
和夫は通帳をポケットにねじ込み、階段を降りた。一歩踏み出すごとに、古い木造の床がギリ、ギリと、彼の心の軋みのような音を立てる。
リビングの食卓には、見栄えだけはいい牛ステーキが並んでいた。
「ほら、奮発したのよ。四十九歳の門出だもの」
キヨは、和夫の顔を見るなり、シワの寄った目元を細めて笑った。その笑顔の奥に、和夫は初めて「捕食者」の冷酷さを見た。
「お母さん」
和夫は椅子に座らず、食卓の端を強く掴んだ。指先が白く変わる。
「……通帳、見たよ」
キヨの動きが、凍りついたように止まった。
手に持っていたトングが、カランと皿に当たって高い音を立てる。
「……何の話?」
「仏壇の奥。隠してあった通帳。全部見た。一千万以上あるはずの金が、なんで四千円しかないんだよ」
沈黙が、部屋を支配した。換気扇のブーンという低い唸りだけが、二人の間に流れる。
キヨはゆっくりと姿勢を正し、エプロンで手を拭いた。その目は、もはや先ほどの慈母のものではない。冷たく、どこか見下すような光が宿っていた。
「……勝手に人のものを持ち出すなんて、泥棒みたいな真似するのね」
「僕の金だ! 泥棒はどっちだよ!」
和夫の叫びが、狭いリビングに反響する。
「兄貴にいくら流した? 通販にいくら使った? 僕が、この暗い部屋で、死にたい気持ちを抱えながら、外にも出られずにいた二十年間……その対価がこれかよ! 僕の人生を、食いつぶしてたのか!」
キヨは鼻で笑った。
「食いつぶす? 心外ね。あんた、この二十年、誰がご飯を作って、誰が洗濯をして、誰が世間の冷たい目から守ってやったと思ってるの? その食費、電気代、固定資産税。あんたの年金だけで足りるわけないじゃない」
「嘘だ! 計算すればわかる! 兄貴に貸してる分を返してもらえば……」
「哲也さんはね、ちゃんと社会で働いて、子供を育ててるの。あんたみたいに部屋にこもって、国のお荷物になってるのとは違うのよ。家族なんだから、助け合うのは当然でしょう?」
助け合う。
その美しい言葉が、和夫の胃液を逆流させた。
和夫を「引きこもり」という檻に閉じ込め、外の世界の恐怖を植え付け、依存させ、その実、彼を「金を生む家畜」として飼育していたのだ。
兄は「光」を浴び、和夫は「影」でその光の代金を払い続ける。
「お母さんはね、あんたのためを思って言ってるの。そのお金をあんたに渡してみなさい。どうせ変な宗教に騙されるか、無駄遣いして終わりよ。お母さんが管理してあげてるから、こうしてステーキだって食べられるのよ」
キヨは、まるで子供に言い聞かせるように、和夫の手に触れようとした。
和夫はその手を、烈火のごとく振り払った。
「触るな!」
「……和夫さん?」
「僕は、あんたの財布じゃない。兄貴のスポンサーでもない。僕は……人間だ」
和夫の瞳から、熱いものが溢れた。それは悲しみではなく、あまりにも遅すぎた怒りだった。
自分の二十代、三十代。一番動けたはずの季節。
「外に出るのが怖い」という病を、母は治そうとはしなかった。むしろ、外の世界がいかに残酷かを毎日語り聞かせ、和夫をこの六畳間に縛り付けた。そうすれば、都合のいい金が手に入るから。
親心という名の、寄生。
「お金、返してくれ。今すぐ、兄貴に電話して返させろ」
和夫の声は震えていたが、そこには退かない決意があった。
しかし、キヨは溜息をつき、冷めた目で和夫を見上げた。
「無理よ。もう使っちゃったもの。それにね、あんた。その通帳を持ってどこへ行くつもり? 外に出れば、みんなあんたを指差して笑うわよ。『五十手前の子供部屋おじさんが、親に逆らって家出ですか』ってね。あんたには、ここしかないの。お母さんの腕の中しか、居場所はないのよ」
呪文だ。
和夫を縛り付けてきた、最強の呪文。
「……ここしかないなんて、誰が決めた」
和夫はポケットの中の、残高四千二百十八円の通帳を握りしめた。
この四千円は、絶望の数字じゃない。
このババアの呪縛から、僕が「亡命」するための、最初の軍資金だ。
「もういい。話しても無駄だ」
「和夫さん! どこへ行くの! ご飯は? ステーキが冷めるじゃない!」
背後で叫ぶ母の声を無視し、和夫は再び階段を駆け上がった。
部屋に戻り、内側から鍵をかける。
静寂が戻ってきた。しかし、今朝までの静寂とは違う。
それは、戦場に赴く前の、張り詰めた静寂だった。
和夫は暗闇の中で、スマートフォンの画面を点灯させた。
検索窓に、震える指で打ち込む。
『障害者 自立支援 相談窓口』
『親 金 使い込み 相談』
画面の光が、和夫の頬を青白く照らす。
外の世界は怖い。人は恐ろしい。
けれど、自分を愛している振りをしながら、内側から自分を食い破っていくこの女の隣にいるよりは、マシだ。
「僕は……死なない」
和夫は、壁に貼られた古いカレンダーの裏に、殴り書きでメモを取った。
明日、母が買い物に行く一時間。
それが、僕の「亡命」の決行時刻だ。
胃の中のステーキの脂が、ひどく胸を焼いた。
和夫は、生まれて初めて、自分だけの力で夜を明かそうとしていた。
四十九歳の、残酷で、しかし真実の誕生日の夜を。
一階のキッチンでは、母・キヨが鼻歌まじりに肉を焼く音がしている。ジューッという脂の弾ける音と、甘辛い醤油の匂い。かつては空腹を刺激したその香りが、今の和夫には死肉の腐敗臭のように鼻を突いた。
和夫は、自室の畳に這いつくばったまま、手の中の通帳を凝視していた。
【ザンタカ ¥4,218】
網膜に焼き付いたその数字が、チカチカと赤く明滅する。
「……おかしいだろ。計算が合わない」
和夫は震える指で、過去の印字を遡った。障害基礎年金。二ヶ月に一度、振り込まれる約十五万円。和夫が二十代の終わりに心を病み、この部屋に引きこもってから二十年近く。単純計算でも、二千万円近い金がこの口座を通り過ぎていったはずだ。
たとえ食費や光熱費として月に数万円を家に入れたとしても、少なくとも一千万円は「僕の将来のため」に残っているはずだった。母はいつもそう言っていた。「あんたが一人になったとき困らないように、お母さんが一円も付けずに貯めてるからね」と。
和夫は、他の通帳も狂ったようにめくり始めた。
そこには、母の「嘘」が、黒いインクのシミとなって無数に刻まれていた。
『振込 アニキ』『イトウ マゴ イワイ』『ニッセン ツウハン』『ケンコウ ジュズ』
「なんだよ……これ……」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
兄・哲也への頻繁な送金。姪の入学祝い、誕生日、お年玉。そして、母が心酔している怪しげな通信販売や、「運気が上がる」と謳う高額な健康器具。
和夫の魂を削って国から支給された金は、和夫が一度も袖を通したことのないブランド服になり、一度も会ったことのない姪のピアノの月謝になり、母の寂しさを埋めるためのガラクタに化けていた。
「和夫さーん、焼けたわよ! 早くおいで」
下の階から、キヨの朗らかな声が響く。その無邪気さが、今の和夫には悪魔の咆哮よりも恐ろしかった。
和夫は通帳をポケットにねじ込み、階段を降りた。一歩踏み出すごとに、古い木造の床がギリ、ギリと、彼の心の軋みのような音を立てる。
リビングの食卓には、見栄えだけはいい牛ステーキが並んでいた。
「ほら、奮発したのよ。四十九歳の門出だもの」
キヨは、和夫の顔を見るなり、シワの寄った目元を細めて笑った。その笑顔の奥に、和夫は初めて「捕食者」の冷酷さを見た。
「お母さん」
和夫は椅子に座らず、食卓の端を強く掴んだ。指先が白く変わる。
「……通帳、見たよ」
キヨの動きが、凍りついたように止まった。
手に持っていたトングが、カランと皿に当たって高い音を立てる。
「……何の話?」
「仏壇の奥。隠してあった通帳。全部見た。一千万以上あるはずの金が、なんで四千円しかないんだよ」
沈黙が、部屋を支配した。換気扇のブーンという低い唸りだけが、二人の間に流れる。
キヨはゆっくりと姿勢を正し、エプロンで手を拭いた。その目は、もはや先ほどの慈母のものではない。冷たく、どこか見下すような光が宿っていた。
「……勝手に人のものを持ち出すなんて、泥棒みたいな真似するのね」
「僕の金だ! 泥棒はどっちだよ!」
和夫の叫びが、狭いリビングに反響する。
「兄貴にいくら流した? 通販にいくら使った? 僕が、この暗い部屋で、死にたい気持ちを抱えながら、外にも出られずにいた二十年間……その対価がこれかよ! 僕の人生を、食いつぶしてたのか!」
キヨは鼻で笑った。
「食いつぶす? 心外ね。あんた、この二十年、誰がご飯を作って、誰が洗濯をして、誰が世間の冷たい目から守ってやったと思ってるの? その食費、電気代、固定資産税。あんたの年金だけで足りるわけないじゃない」
「嘘だ! 計算すればわかる! 兄貴に貸してる分を返してもらえば……」
「哲也さんはね、ちゃんと社会で働いて、子供を育ててるの。あんたみたいに部屋にこもって、国のお荷物になってるのとは違うのよ。家族なんだから、助け合うのは当然でしょう?」
助け合う。
その美しい言葉が、和夫の胃液を逆流させた。
和夫を「引きこもり」という檻に閉じ込め、外の世界の恐怖を植え付け、依存させ、その実、彼を「金を生む家畜」として飼育していたのだ。
兄は「光」を浴び、和夫は「影」でその光の代金を払い続ける。
「お母さんはね、あんたのためを思って言ってるの。そのお金をあんたに渡してみなさい。どうせ変な宗教に騙されるか、無駄遣いして終わりよ。お母さんが管理してあげてるから、こうしてステーキだって食べられるのよ」
キヨは、まるで子供に言い聞かせるように、和夫の手に触れようとした。
和夫はその手を、烈火のごとく振り払った。
「触るな!」
「……和夫さん?」
「僕は、あんたの財布じゃない。兄貴のスポンサーでもない。僕は……人間だ」
和夫の瞳から、熱いものが溢れた。それは悲しみではなく、あまりにも遅すぎた怒りだった。
自分の二十代、三十代。一番動けたはずの季節。
「外に出るのが怖い」という病を、母は治そうとはしなかった。むしろ、外の世界がいかに残酷かを毎日語り聞かせ、和夫をこの六畳間に縛り付けた。そうすれば、都合のいい金が手に入るから。
親心という名の、寄生。
「お金、返してくれ。今すぐ、兄貴に電話して返させろ」
和夫の声は震えていたが、そこには退かない決意があった。
しかし、キヨは溜息をつき、冷めた目で和夫を見上げた。
「無理よ。もう使っちゃったもの。それにね、あんた。その通帳を持ってどこへ行くつもり? 外に出れば、みんなあんたを指差して笑うわよ。『五十手前の子供部屋おじさんが、親に逆らって家出ですか』ってね。あんたには、ここしかないの。お母さんの腕の中しか、居場所はないのよ」
呪文だ。
和夫を縛り付けてきた、最強の呪文。
「……ここしかないなんて、誰が決めた」
和夫はポケットの中の、残高四千二百十八円の通帳を握りしめた。
この四千円は、絶望の数字じゃない。
このババアの呪縛から、僕が「亡命」するための、最初の軍資金だ。
「もういい。話しても無駄だ」
「和夫さん! どこへ行くの! ご飯は? ステーキが冷めるじゃない!」
背後で叫ぶ母の声を無視し、和夫は再び階段を駆け上がった。
部屋に戻り、内側から鍵をかける。
静寂が戻ってきた。しかし、今朝までの静寂とは違う。
それは、戦場に赴く前の、張り詰めた静寂だった。
和夫は暗闇の中で、スマートフォンの画面を点灯させた。
検索窓に、震える指で打ち込む。
『障害者 自立支援 相談窓口』
『親 金 使い込み 相談』
画面の光が、和夫の頬を青白く照らす。
外の世界は怖い。人は恐ろしい。
けれど、自分を愛している振りをしながら、内側から自分を食い破っていくこの女の隣にいるよりは、マシだ。
「僕は……死なない」
和夫は、壁に貼られた古いカレンダーの裏に、殴り書きでメモを取った。
明日、母が買い物に行く一時間。
それが、僕の「亡命」の決行時刻だ。
胃の中のステーキの脂が、ひどく胸を焼いた。
和夫は、生まれて初めて、自分だけの力で夜を明かそうとしていた。
四十九歳の、残酷で、しかし真実の誕生日の夜を。
0
あなたにおすすめの小説
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
春に狂(くる)う
転生新語
恋愛
先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/
カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる