2 / 26
第1章:許嫁契約!?
第2話:電気紐のリングと幼馴染健太からの着信
しおりを挟む家族全員が同時に、ある場所へ視線を向けた。
「あー、キッチンシンク上の!」
「そう!電気紐のリング!」
そのライトの紐の先端には、埃をかぶった薄い紫色のリングが結び付けられている。このライトは紐が短く、手が届きにくいのが家族共通の悩みだった。
母が「何か、指に引っかかるように輪になっているものを付けたいね。」と言った時、私が適当にその辺にあったリングを紐の先に固結びにしたのだ。
点灯しやすくなり、それ以来、家族は誰もリングを気に留めずにいた。
その適当なものこそが、祖父の遺品整理の際、どこからか転がり落ちたリングを、弟の悠真が拾い上げ、「玩具のリングなんていらね~よ」と、ゴミ箱に捨てた。
私は、祖父の遺品だからとゴミ箱から拾い上げ、テレビ台の上にそっと置いていた。そう思うと、結局は、この御曹司と結婚する運命だった。
(だって、弟の悠真が捨てたものを拾い上げたのは、私自身だから)
「奈月、早く取ってこい!」と、父に急かされ、私は踏み台を持ってきて、ライトの紐からリングを外した。
ライトの紐に固く結びつけられたリングは、抵抗するように簡単には外れなかった。自分の人生を断ち切るように、その薄紫色の輪を力任せに引きちぎり、手に握りしめた。
手のひらに乗せたリングは、薄い紫色。まさにアメジストカラーだった。古い指輪で、表面には細かな傷がついており、長年のキッチンからの油や埃で薄っすらと曇っていたが、確かに光を反射して仄かに輝いている。
「あ、あの...キッチンにあったので、汚れていてすみません。」
私が差し出したリングを見て、白い手袋をはめた手を静かに差し出していた。
執事は表情一つ変えず、丁寧に受け取り、「確認させていただきます。」と、ルーペで裏側を覗き込んだ。
私は、喉の奥が張り付いたような静寂の中、「どうか間違いであってほしい」と、そればかりを願った。両手を胸の前で固く握りしめ、その中に最後の望みを押し込めるように組んだ。
ただの古い指輪だと告げてくれることを一縷の望みとし、組んだ手元から執事の横顔を見つめた。
そして、執事はゆっくりと顔を上げ、静かな口調で告げた。
「間違いございません。この裏側に刻まれたスターライト財閥の刻印。これは、会長が秘蔵していたとされる、特別な婚約の証です。」
その瞬間、荒れ果てた居間の中は、一瞬静寂に包まれた。
その静けさを破ったのは、居間の隅に立っていた弟の声だった。
「やった、マジかよ!」
まだ中学生の弟は、借金の重さが消えるという事実を、純粋な歓喜として受け取っているようだった。
「これで、もう夜中に怒鳴り込んでくる借金取りも来なくなるんだ!新しいゲーム機も買える!」と、興奮して小さな拳を握りしめている。
「つまりは、」
父が震える声で尋ねた。
「借金は…?」
「これで婚約は成立です。負債は本日中に処理されます。」
途端に、父と母は安堵からか、その場で崩れ落ちそうになった。数年来、家族を苦しめてきた借金が一瞬で消えたのだ。弟の明るい歓声と、両親の深い安堵の溜息が、居間を満たした。
しかし、私の頭の中は、真っ白だった。たかが、電気の紐を延長するための輪っか。何の気なしにつけた、この薄紫色のリング一つで、人生の全てを決められてしまった。
歓喜に沸く家族に向き直り、震える声で訴えた。
「ちょっと待って!まず、祖父の借金の金額いくらあるの?」
執事は口の端を微かに上げ、物凄く穏やかな笑みを浮かべた。その微笑みは、この荒れた居間の中で、妙に冷たい光を放っている。
「水野敬一様の現在の負債総額は、正確には15億3,000万円にございます。」
15億3,000万円?その途方もない金額は、私の抵抗の意思を一瞬で凍り付かせた。
これはひど過ぎない?おじいちゃんのお人よしが招いたこの事態で、たった一度の人生が。
私まだ二十歳なのに。
少しくらいは考える時間もらえるよね?
人間一人の人生に値札が付けられるなんて。
もし私が歩く宝石なら、誰がその宝石を磨き、誰がその輝きを奪うのだろう。
私は、もう一度家族に向き直り、震える声で訴えた。
「まだ就職活動も終わってないし、彼氏だってできたことないのに!無理。」
父と母は、安堵で崩れ落ちそうになっていた体勢から、慌てて私の方へ向き直った。
「奈月、お願い!何を言っているの!」と、母は泣きそうな顔で、すがるように言った。
父は声を荒げ、「この話を受け入れれば、借金が消えるんだぞ!家族全員が救われるんだ!」と叫んだ。
弟は、握りこぶしを上下にして、抗議でもしているかのように言った。
「そうだ、そうだ、バカ奈月。金があれば幸せになれる。神谷財閥の次期当主の許婚になれよ!」
兄は、俺が嫁ぎたいぜと言わんばかりの表情で、こう言った。
「奈月みたいなお転婆娘が嫁に貰ってくれるんだ。夢でしか叶わないと思っていたことが現実なんだぞ。NOなんて言ったら失礼だぞ。」
私の抵抗の訴えも、家族の利己的な説得は、荒れ果てた居間に虚しく響くだけだった。解決には至らない。家族は互いに頷き合い、これで全て丸く収まったとでも言いたげな顔だった。
しかし、母は歓喜に崩れ落ちそうになりながらも、ふと私の顔を見て言葉を詰まらせていた。
「でも……奈月の人生を、こんな形で決めてしまっていいの?」
「そうだよ。お母さん、私の人生は私のも!」
私は思わずテーブルを叩いた。骨董品の皿が震え、カランと音を立てて床に転がした。
声は震えていたが、居間の空気を一瞬凍り付かせるほどの必死さがあった。
その瞬間、私のポケットでスマホが激しく震え、場違いな着信音が荒れた居間に響いた。
画面には、高校時代からの幼馴染である『健太』の名前が表示されていた。
私は、反射的にポケットからスマホを取り出し、家族の視線から逃れるように慌てて居間の外に一歩出た。執事の冷たい視線が背中に突き刺さるのを感じたが、それを無視して通話ボタンを押した。
「ごめん、健太。今、ちょっと家のことでごたごたしてるから……後でかけ直す。うん、またね。」
私が焦って通話を切って居間に戻ると、執事はわずかに目線だけを私に向けた。まるで、たった数秒間の私的な会話の全てを聞き取っていたかのように。
最後に、この決定を覆す権利が、私にあるのではないかと、一縷の望みを託した。
が、何を言い出すのかと思ったら、執事はこう言ったのです。
「ですが、奈月様。ご心配なく。ご婚約が成立すれば、私的な交友関係の整理も、業務の一つとしてサポートいたします。」
「遺言書と婚約の証が揃い、効力は既に発生しております。しかし、ご家族との熟慮期間として、本日夜間のお時間は確保いたします。」
これこそが、財閥と貧乏人との間に生まれるジェネレーションギャップというものですか。私の心配は、借金がどうなるか、ではない。私の人生がどうなるか、だ。
執事は、私が口を挟める隙を与えなかった。
白い手袋を整えながら、事務的な口調で「明朝、改めてお迎えに参りますので、それまでにご準備をお願いいたします。」と言い、「ご質問などございませんでしたら、ご近所様にもご迷惑をお掛けしているかと思いますので、失礼しようかと思っております。」と、一方的に締めくくり始めた。
私は、「意義あり」と、口を挟もうとした。
その瞬間、「ブタ奈月」と、居間の隅に座り込んでいたはずの弟・悠真が、興奮した猿のように私の首に飛びついた。
父はすかざず、「は、はい!ご質問など、もう何もありません。」と、手を振りながら、私の顔と執事の顔をチラチラと見ながら言った。
父の応対を見ていた母は、顔を引き攣らせながら「そうですよね、ご近所の方が、外で何事かと気になさっているでしょうからね。オホホ……」と、滑稽な笑いを漏らした。
私は、首に食い込む悠真の腕を力任せに振り払った。
「今更、世間体なんて、気にする?」
目の前で自分の人生の取引が成立したにも関わらず、諦めきれずにいた。
だが、その場を収めようとする両親の必死な姿を見て、ふと冷静になった。私は、家族を借金の苦しみから救うという大義を拒否する、わがままな娘なのだろうか――。絶望の淵で、そんな罪悪感までもが浮上してきたのだった。
執事は、この家族の醜いやり取りを、まるで一幕の喜劇でも見ているかのように、静かに見つめていた。彼の口の端が、僅かに軽蔑の弧を描いた。
その笑みをすぐに消し去ると、「皆様、大変仲睦まじいご様子で、何よりでございます。ですが、お時間はございませんので。」と、事務的な声音に戻り、場を収めた。
そして、執事は、父に向かって一礼し、静かに居間を出て行った。
この言葉は、冷たい宣告の中の、唯一の人間的な譲歩だったが、結局、猶予は一晩しかなかった。
執事が去った後も、荒らされた居間の空気は重いままだった。
私は無言で、床に散らばったアルバムや母の骨董品を拾い始めた。誰かがやらなければならない。片付けという日常の動作で、この非日常を無理やり終わらせようとした。
「奈月...」
父が、悲しげな表情で私の背中に向かって絞り出すように言った。
母は目を腫らし、拾い上げた皿を、震える手で拭いている。
弟の悠真は、床に座り込みながらも、なお口悪く私を責め立てる。
兄は何も言わず、ただ居間の隅で、私の無言の作業を静かに見つめているだけだった。
家族だからこそ感じる無言の空間が、より私を壁際へと追い詰める。
私は作業の手を止め、振り向いた。
「ごめん。一人になりたい。」
すると、兄が静かに言った。
「...もう、いいでしょう。」
その声は、私を助けているのか、この場から追い払おうとしているのか、判別できなかった。その場を放り出し、自室へと向かった。自分の部屋の扉を閉め、鍵をかけた。
その瞬間、全身が激しく震え、さっきまでの騒動が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。 私は床に崩れ落ち、勝手に目から溢れた涙が、頬を伝いしょっぱさを感じた。
「電気紐に結ばれるほどの安っぽい指輪が…」
「あははっ…」
15億3,000万円という途方もない数字が、私の人生の値札に。馬鹿馬鹿しい。
喉の奥から絞り出すような笑いが、誰もいない小さな部屋に響いた。それは、狂気ではなく、現実のあまりの非情さに、諦めがついた瞬間だった。
窓の外は、もうすっかり暗い。
与えられた残り数時間の夜間は、刻一刻と短くなっている。
私は震える手でスマホを掴み、さっきすぐに切ってしまった健太にかけ直した。
数コール後、健太が焦燥感の滲んだ声で出た。
「奈月!さっきはどうしたんだ?家の前に黒塗りの車が何台も止まって、なんかすごいことになってたって、ご近所さんが言ってたぞ。」
(そりゃ、ご近所の噂になるよね)
私は、涙で声が詰まりながらも、努めて明るい声を作った。
「なんでもないよ。ちょっと家の電気の紐が絡まってさ。直したから大丈夫。変な心配かけちゃってごめん。」
「...そうかよ。変なのは、お前の家じゃなくて、お前の家に来た奴らだろ。」
健太の声が、不機嫌なほど低くなった。
「いいか、明日、絶対会おうな。明日のランチ、お前の好きなケーキバイキング予約した。例の場所だ。」
「うん...ありがとう。」
健太はいつも私の喜ぶことをしてくれる。大切な幼馴染だ。
(明日のランチ、行けそうにないな。どうやって断ろう…)
私は「行けない」と言えないまま、通話を切った。
やること、決めることが一気に押し寄せ、何を優先すべきか思考が麻痺した。
普段なら、頭の中を整理するためにまずTODOリストに書き出すのが、私の癖だった。だが、今はそれすら思いつかない。
無意識に手にしたスマホの画面に、習慣で開いていたTODOアプリの白い画面が目に入った。
そこでようやく、「最も優先すべきこと」が、健太に伝えることだと分かった。
もう一度スマホを手に取った。画面を開き、健太とのトーク画面をタップする。
奈月:ごめん。明日のケーキバイキング、行けない。
奈月:多分、会えなくなると思う。
本題に入ると、私の指が震えた。涙が画面に落ちた。自分でもどんな感情で涙がこぼれたか、全く分からなかった。
(これは生理現象だ、と無理やり割り切った。)
奈月:借金を肩代わりしてもらう代わりに、神谷財閥の許嫁に。
奈月:いつも、ありがとう。ごめん。向こうでの生活が始まると、やり取りもできなくなるかもしれない。
送信ボタンを押すと、指に力がなくなり、スマホがベッドの上に落ちた。
『明日、私がどうするかを家族にまず話さないと。』
(つづく)
10
あなたにおすすめの小説
大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。
菊池まりな
恋愛
25歳の朱里は、同じ部署の先輩・嵩にずっと片想いをしていた。けれども不器用な朱里は、素直に「好き」と言えず、口から出るのはいつも「大嫌い」。彼女のツンデレな態度に最初は笑って受け流していた嵩も、次第に本気で嫌われていると思い込み、距離を置き始める。
そんな中、後輩の瑠奈が嵩に好意を寄せ、オープンに想いを伝えていく。朱里は心の奥で「私は本当は死ぬほど好きなのに」と叫びながらも、意地とプライドが邪魔をして一歩踏み出せない。
しかし、嵩の転勤が決まり、別れが迫ったとき、朱里はついに「大嫌い」と100回も繰り返した心の裏にある“本音”を告白する決意をする――。
【書籍化】小さな恋のトライアングル
葉月 まい
恋愛
OL × 課長 × 保育園児
わちゃわちゃ・ラブラブ・バチバチの三角関係
人づき合いが苦手な真美は ある日近所の保育園から 男の子と手を繋いで現れた課長を見かけ 親子だと勘違いする 小さな男の子、岳を中心に 三人のちょっと不思議で ほんわか温かい 恋の三角関係が始まった
*✻:::✻*✻:::✻* 登場人物 *✻:::✻*✻:::✻*
望月 真美(25歳)… ITソリューション課 OL
五十嵐 潤(29歳)… ITソリューション課 課長
五十嵐 岳(4歳)… 潤の甥
【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~
蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。
嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。
だから、仲の良い同期のままでいたい。
そう思っているのに。
今までと違う甘い視線で見つめられて、
“女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。
全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。
「勘違いじゃないから」
告白したい御曹司と
告白されたくない小ボケ女子
ラブバトル開始
思わせぶりには騙されない。
ぽぽ
恋愛
「もう好きなのやめる」
恋愛経験ゼロの地味な女、小森陸。
そんな陸と仲良くなったのは、社内でも圧倒的人気を誇る“思わせぶりな男”加藤隼人。
加藤に片思いをするが、自分には脈が一切ないことを知った陸は、恋心を手放す決意をする。
自分磨きを始め、新しい恋を探し始めたそのとき、自分に興味ないと思っていた後輩から距離を縮められ…
毎週金曜日の夜に更新する予定ですが、時々お休み挟みます
僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
新卒でセクハラ被害に遭い、職場を去った久遠(くおん)。
再起をかけた派遣先で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
駆け出しご当地アイドルがヤクザに一目惚れされた話
一ノ瀬ジェニファー
恋愛
ド田舎の道の駅で、持ち歌もグッズもないまま細々と活動を続けるご当地アイドル・桜あかり(16)。
夢は大きく武道館!……と言いたいところだけど、今はレジ打ちもこなす「なんでもできるマルチな地底アイドル」。
そんな彼女に、ある日転機が訪れる。
地元の道の駅がテレビで紹介され、あかりの笑顔が全国放送で流れたのだ。
その映像を東京で目にしたのが、幸村 静(ゆきむら しずか)。
見た目は完璧、物腰も柔らか──けれどその正体は、裏の世界の男だった。
「会いたいから」というシンプルすぎる理由で、あかりに会いに片道10時間を車で会いに来た。
謎のヲタク知識もを引っ提げて、推し活(という名の執着)が始まる……!
これは、アイドルを夢見る少女と、厄介オタクなヤクザの、ピュアで不穏でちょっと笑える物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる