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第1章:許嫁契約!?
第3話:15億のお嫁の決意と、甘い声の出会い
しおりを挟む翌朝、私がリビングに行くと、食卓には朝食が並んでいた。
「おはよう。」と、私はいつもよりも元気なく挨拶をした。
「バカ奈月、よく寝たか?いつになくフグ顔だぜ。」と、普段と変わらない、ちゃかした言い方をする、弟の悠真。
私の顔は、昨夜の涙と睡眠不足のせいで、目が腫れぼったく、口元は食いしばったままだった。
専業主夫の父が作る朝食は、パン派である私の好みに合わせたトースト二枚とスクランブルエッグが定番。
しかし、今日の食卓に並んでいるのは、焼き魚と卵焼き、ご飯と味噌汁という和食のセットだった。母が好む朝食。母が手早く用意したと、すぐに分かった。
父はいつものように微笑ましい表情でキッチンにいるものの、家族全員、昨夜の混乱の後の異常な平穏さに包まれていた。
母は銀行の主任という立場で、家の借金について最も責任を感じていた世帯主だ。その母が、今日だけは食卓で私を待っていた。
「奈月、昨日はよく眠れたかい?」
母の言葉は、まるで何事もなかったかのように優しかったが、その目が腫れていることは隠せなかった。
私の兄である雅人は二十八歳。中小企業のチームリーダーという立場で、家族の借金に苦しむ現状から抜け出せずにいる。無言で、食パンにジャムを塗り広げていた。
そして、中学生の弟、悠真は、普段通りテレビを見て笑っている。だけど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
そんなことを感じ取りながら私は、食卓に着いた。
そして、家族一人一人を見つめ、静かに昨夜の決意を伝える。
「...私、15億の嫁になる。」
その一言で、雅人が手に持っていたジャムナイフの動きが止まった。
父は洗い物を止めて振り返り、悠真はテレビの音量を下げた。
母は、静かにうなずいた。その瞳には安堵と、抑えきれない罪悪感が入り混じっているようだった。
「ありがとう、奈月...」
感謝の言葉の後は、会話は途絶えた。無言で終えたその食事が、家族と共にする最後の食事となった。
その重さが、この運命から家族が解放されるという事実と共に、私をさらに追い詰めるのだった。
執事は昨夜、「お返事は明朝、お聞かせください」と言っていた。
私は、朝食を終え、重い足取りで玄関へ向かった。
玄関に置いてある突っ掛けを履き、下駄箱横の鏡を見た。「酷い顔」と呟きながら、手で髪型を整える。そこで、運命に立ち向かう覚悟を決めた。
玄関ドアを開けると、昨日父が腰かけていた古びた子供用自転車が見えた。思わず溜息と同時に目が潤むが、すぐに顔を真っ直ぐにし、玄関先の古びた門へ足を運んだ。
いつもと変わらない朝、変わらない古びた玄関の門、変わらない10段の階段、変わらない家々なのに、今日は、朝の光でさえも暗く思えるほどだった。
いつもと違うのは、玄関の外に、昨日と同じ黒服の集団が待っていること。その中央には執事が立っている。
――何時から、そこで待っていたのだろうか。
こんなに朝早くから、微動だにせず立つ彼らの姿は、この契約に一切の隙も猶予もないことを物語っていた。
(無効にできるんじゃないの?)と、頭の隅で、弁護士を立てればこの遺言は無効にできるはずだと、抵抗の言葉が囁く。けれど、たった一晩で調べた15億3000万円という借金の額は、そんな理屈を全て押し潰した。
私が行かなければ、これから先どうなるのか。この家の最後の砦は私だと決意したはずなのに、まだ迷っている。
――決意が、まだ足りない。
私は心の中で、自分自身を強く叱責した。
「奈月様、お答えは出ましたでしょうか。」と、執事が静かに問いかけてきた。
奈月は一歩前に出て、静かに言った。
「はい。私、15億円のお嫁になります。」
執事は、その哀切なほどの覚悟がこもった言葉を聞き、口の端をかすかに上げた。それは、諦めを嘲笑うかのような、事務的な微笑だった。
「かしこまりました。この後、改めて瑛斗様へご報告申し上げます。」
執事は、そのまま私の脇をすり抜け、玄関へと向かった。玄関先から「水野様、お邪魔してもよろしいでしょうか。」と、家族に向けて言った。
父は、一瞬戸惑ったものの、すぐに「は、はい。どうぞ、どうぞ」と慌てて答えた。
執事がいることで借金が片付くという希望と安堵が、彼らに断るという選択肢を完全に奪っていたようだった。
執事は、一分の隙もなく整えられた黒スーツのまま、玄関の土間で静かに黒い紳士靴を脱いだ。その動作は一切の迷いなく、まるで修行を積んだ武術の型のようだった。彼は脱いだ靴を、完璧な角度で揃え、そのまま家の中へと入っていった。
「失礼いたします。」
短い挨拶と共に、執事は狭い廊下を通り、私たち家族のいるリビングへと向かう。昨夜と同様に彼の立ち居振る舞いは、この古びた家の中でも、一切の威厳を失わなかった。
執事はリビングの中央辺りに立ち、「ご家族の皆様に、婚約の執行と今後の手続きについて、改めてお話しさせていただきたい事項がございます。」と、静かに告げた。
私は引き止められなかった。
一度許嫁となった瞬間、この家は、もはや私の家族だけの空間ではなくなっていたのだ。後ろに続く黒服の集団に押し出されるように、リビングへと引き返した。
リビングへ戻ると、父、母、雅人、悠真が、皆固唾を呑んで執事の言葉を待っていた。
「遺言書と婚約の証が揃った時点で、効力は発生しております。よって、拒否権はございません。そして、このお話は奈月様を不幸にするものではございませんのでご安心ください。」
執事の言葉は冷たく、一切の反論を許さない。家族の喜びは、私の抵抗をかき消す波のように、容赦なく私を押し流した。全身の力が抜けていくのを感じた。
執事は、確認のためにもう一度婚約の成立を告げた。彼は静かに立ち上がり、白い手袋を整えながら、事務的な口調で通達した後、こう言った。
「奈月様、お荷物はお持ちにならなくて結構です。すぐに新しい生活に必要なものは全て揃えております。」
執事さん、これは爆弾発言ではないでしょうか。安っぽい荷物はこの豪邸には相応しくない、という皮肉。
――いや、待って。
すぐに新しい生活に必要なもの?
もしかして、天蓋付きのベッドとか、広大なウォークインクローゼットとか、お姫様になったような部屋を用意してくれているのだろうか。
一瞬、夢見がちな期待が頭をよぎったけれど、すぐに冷水を浴びたように冷静になった。
これは、私に自分の過去を捨てさせ、完全に神谷家に依存させるための、非情な支配の道具にすぎない。きっと。
「そして、水野奈月様。本日付けで、スターライト企画へのご入社も決定しております。明朝より、次期当主の許嫁として、社員として業務にあたっていただきます。」
社員!?許嫁ではなく、社員として!?
雲の上のイケメン御曹司と恋に落ちる。なんて、夢にも思っていたことが。
冷静に考えてみたら私は、一生分のラッキーを手にしたことになる。この15億3,000万円の借金で叶うなんて、とんでもないことだ。
もしかしたら、社員として働くというのも、実は執事の気遣いで、豪華なオフィスで優雅に過ごせる甘い社会人生活が待っているのかもしれない。
そして、甘い結婚生活が待っているのかもしれない。と想像する私は、何に抵抗していたのだろうか。物凄く羨ましくなる存在に変わっているではないか。
あ、でも、社員とは契約上の立場が妻ではなく、使用人であることを意味するのでは?
まぁ、それでもいいのか。
私は就活をしないでもいいのだし、お洒落な洋服を着て、かっこいいヒールを履いて「皆さま、ご機嫌よう」、「奈月主任、今日もお綺麗で」とか「オホホ…」なんて言っているのかも。一度やってみたいと思っていたことが現実になるなんて、最高かもしれない。
だけど、お相手の瑛斗は、こんな私をどう思うのだろうか。
そんなことを想像しながら、最後の力を振り絞って執事に問いかけた。
「...一つだけ。神谷会長の孫、その許婚である神谷瑛斗は、この結婚を、私との結婚を望んでいるんですか?」
執事は一瞬だけ、微笑みを消した。そして、真っ直ぐに私の目を見つめ、冷ややかに告げた。
「さあ。それは、奈月様ご自身で、これからお確かめください。」
その冷徹な言葉は、私の頭の中で膨らんでいた甘い生活への妄想を、瞬時に打ち砕いた。
望んでいるか、どうか、自分で探れ、と?やはりこれは、愛や情など一切ない、冷酷な業務に過ぎない。私は、許嫁ではなく、彼の意志すら知らないまま、この巨大な存在に立ち向かわなければならないということね。
その時、私の心の中で、全ての抵抗と、全ての夢が終わりを告げた気がした。残ったのは、家族を救うという義務と、これから始まる業務への静かな覚悟だけだった。
「つきましては、水野様。本日17時に、改めて奈月様をお迎えに参ります。それまでにご家族との時間をお過ごしください。」
執事は深々と一礼し、黒服の集団と共に、路地に停められたベンツへと戻っていった。
その瞬間、リビングは歓喜の爆発に包まれた。
弟の悠真が「よっしゃあああああ!15億チャラだ!」と叫び、父と母は互いに抱き合い、安堵の涙を流している。
兄の雅人は、私を避けるように、そっと自室へと戻っていった。
残された17時までの数時間は、私にとって、家族の安堵と歓喜を、遠い場所からただ観る断罪の時間となった。
誰も私に話しかけない。まるで、もうこの家にいないかのように。時間は、私の意思とは無関係に、冷酷に17時へと向かっている。
――もう、ここに、私の居場所はない。
私は逃げるように家を出た。
近所の寂れた公園のベンチで、私はぼんやりと座り込んでいた。涙はもう出ない。ただ、明日からの業務への重圧だけが、胸を押しつぶしていた。
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そして、15億3,000万円の婚約によって、もう恋愛とは縁がないものだと諦めていた。そんな私にとって、この目前の感情はあまりにも新鮮だった。
「あまりにも辛そうな顔をしていたので。…人生、大変なことほど、面白いんですよ。意外と、どうにかなるものです。」
「……ありがとうございます。そう、かもしれませんね。」
知らない人に寄り添ってほしい、という衝動に駆られるのを必死で抑え込んだ。私は、その見知らぬ優しさに、思わず涙腺が緩むのを感じた。
そして、この一期一会の出会いが、これからの運命と繋がっていることを、まだ知る由もなかった。
(つづく)
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