歩く15億の花嫁~契約婚約から始まるオフィス・シンデレラ~

YOR

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第1章:許嫁契約!?

第4話:新しい家は、以心伝心のない場所

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――あと数分で17時だ。

私は慌ててベンチから立ち上がり、重い足取りで家路を急いだ。

何故だか、私の頭の中では、近所の寂れた公園のベンチで、見知らぬ優しい男性との束の間の会話、「人生、大変なことほど、面白いですよ。意外と、どうにかなるものです。」と、その言葉と温かい微笑みが、胸に小さな希望の種を残したようにリピート再生されていた。

玄関のドアを開けると、母が一つの白い箱を抱えて立っていた。

「奈月、おかえり。これを、さっき執事さんの部下の方が届けてくださってね。すぐにこの服に着替えて待っていてほしいそうよ。時間がないから、急いで。」

母の声は震えていたが、その目には焦りと、神谷家の指示に逆らえないという諦めが宿っているようだった。これは、最後の抵抗の機会すら奪われた、運命の執行の準備のように感じた。

私は、その箱を受け取り、自室へ駆け込み他人の趣味で選ばれた着慣れない服を身につけた。

こんなにも気分の優れないときでも、弟の悠真は私の気持ちも考えずにこう言った。

「うわ、ブタ姫じゃん。なんだよ、それ。」

兄の雅人は、弟の悠真のように口を開くことはなかった。その顔は確かに笑っていた。いっそ、弟のように皮肉でも罵倒でもいい、何か一言言い放ってくれた方がどれほどマシだったか。その無言の笑顔は、何よりも冷たく、一方的なお別れのように思えた。

それでも、これが私の家族。これからは、言葉の裏側を読み合うような、この家特有の「以心伝心」の空気感を味わうことはなくなるのだろう。

そんな別れがたい感傷に浸っていると、
――ピンポーン。

17時ちょうど、玄関のチャイムが、私にとっての運命の執行を告げた。

玄関には、父と母、兄の雅人、弟の悠真が、いつになく整った服装で並んだ。父と母の目は腫れていたが、顔には安堵という名の薄い膜が張り付いている。

「奈月、行ってくるんだね...」と、母が今にも泣き出しそうな声で言った。

「母さんの携帯がパンク寸前になるほど電話が鳴って大変だったぞ…」と、父はぼやいていた。

「姉貴。寂しくなったら電話しろ。」悠真は口では強がっていたが、その声には、口の悪さはなかった。

私は家族一人一人に向き直ったが、何も言葉が出なかった。こんな別れでよかったのか、という後悔が胸に込み上げた。ただ、深く頭を下げるしかなかった。過去20年間の感謝と別れの全てを込めたその3秒間を最後に、私は振り返らなかった。

路地には、近所の住民たちが好奇の視線で集まっていた。物珍しげに私を見送ろうとする者、スマホを構えて写真を撮ろうとする者もいる。

そんな彼らの前に立ちはだかったのは、黒一色のスーツに身を包んだ男性3名と女性3名のガード隊だった。彼らは無言で壁を作り、外部の視線を完璧に遮断した。その鉄壁のガードは、私を守るためというより、担保である私を、世間の好奇の目から隔離し、管理するためであるかのようだった。

執事が恭しく車のドアを開け、「奈月様、どうぞ」と静かに声をかけた。

私は、私の好みとはかけ離れた服を纏っている。

それは、執事の部下から届けられたもの。私の好みは、気持ちが明るくなるような目立つ色、例えば鮮やかな青や赤だ。

それなのに、渡されたのは、淡いパステルイエローの、フリルとレースがあしらわれた高級なワンピースだった。まるで、私をお人形のように飾ろうとしているようだ。

そして、新品の黒い、場違いなほど重厚な革パンプスも用意されていた。パステルイエローの甘いワンピースに、黒い革パンプス。そのファッションセンスの悪さに、私は怒りすら覚えた。

「サイズだけはジャストヒット」と、思わず小さく溜息を吐くように呟いた。

いつ、誰が、私のスリーサイズや足のサイズを測ったのか。得体の知れない管理下に置かれている事実に、私は無言の圧迫感を覚えていた。

執事が開けてくれた運転席の後部座席へ、私は一歩を踏み入れた。後ろの家族を一瞥することもなかった。

黒光りするベンツの窓ガラスに映る、自分の冴えない顔を見つめていた。
自宅から車でわずか一時間。物理的な距離はたいしたことはなかったが、私にとってこの一時間は、過去と未来を断絶する永遠のような時間だった。

車は、まるで要塞のようにそびえ立つ、巨大な門の前に停車した。門をくぐると、手入れの行き届いた広大な庭が広がる。その奥には、スターライト御殿という通称も頷ける、西洋の宮殿のような豪奢な邸宅があった。

あまりの規模に、私の頭に浮かんだのは税金という現実的な単語だった。それは、あまりにも巨大すぎて、私の常識というフィルターが、とうとう現実を処理しきれずに出したエラーコードのようだった。

ベンツから降りる私を待っていたのは、執事だけではなかった。

「奈月様、本日よりお世話係を務めさせていただきます、日高でございます。」

一人は、四十代と思しき、穏やかな微笑みを浮かべた女性。そして、もう一人。

「そして、こちらが奈月様専属のボディガード、桐谷でございます。」

もう一人は、私より少し年上、二十五歳くらいに見える長身で、全身から隙のないオーラを放つ女性だった。彼女は私に会釈するのみで、一切の感情を顔に出さない。その目は、護衛対象としてだけでなく、私という15億3,000万円の担保を、監視対象として捉えているようだった。

「ボディガード...ですか。」

億単位の価値がある人間が誘拐されたら、大事件だ。

もし私が誘拐され、身代金が払われなければ、あの借金がまた家族の元へ戻ってしまうのだろうか?いや、それよりも、今はスターライト財閥の次期当主の許嫁だ。誘拐犯にしてみれば、借金の有無にかかわらず、私を狙う方が手っ取り早い獲物だろう。

歩く宝石ならぬ歩く15億3,000万円の担保。そんな恐ろしい肩書を、私はアメジストカラーのリングと共に身に着けてしまった。

考えても仕方のないこと。
今やるべきことは一つ。

「奈月様は邸宅の奥にあるゲスト棟にお住まいいただきます。許嫁としての生活と、スターライト企画の社員としての業務、両面をサポートいたします。」と、お世話係の日高が、穏やかな表情で告げた。

「あーお姉さん。神谷瑛斗さんとお話がしたいのですが。」

「お姉さんとは?桐谷のことでしょうか?それともわたくし、日高のことでしょうか?」

どう考えても「お姉さん」はボディガードの桐谷さんのことだろうと決めつけました。日高さんはきっと「これだから庶民は」とか、「そんなに老けていません」と思っているに違いない。

言葉足らずで相手を刺激する癖は母譲り、深く考えずにお馬鹿な発言をしてしまうのは父譲りだ、と心の中で平謝りした。

「あ、日高さんでいいや。」

「どうしても、神谷瑛斗さんと話がしたいです。」

失礼な言い方をしたにも関わらず、しっかり答えてくれるところは、やはり大人な女性だ。その毅然とした態度に、私は自分の子供じみた考え方を恥じた。いつまでも親のしつけや環境のせいにしている場合ではない。この非日常で生き残るなら、私も大人として成長し、この状況を受け入れる努力をしなければならない。

「瑛斗様はただいま別件にてお忙しくされております。お話しいただく時間につきましては、今晩の夕食の席をご用意いたします。」

「夕食?」

「はい。それまでは、本日からの生活についてご説明いたします。」

生活についての説明なんてあるの?普通に暮らせばいいのに、どんな説明があるって言うのか。一般人には知りえないルールでもあるのかな。さっき着いたばかりだけど、もう帰りたい。

日高は、穏やかな表情でゲスト棟の豪華なリビングへと促した。

「まずは、この邸宅での基本的な生活についてご説明いたします。ご質問は随時承りますが、業務に関わる重要な規則もございますので、どうか集中してご傾聴くださいませ。」

日高は、恭しく、澱みない口調で説明を始めた。

「まず、邸宅内での生活についてですが、基本的にゲスト棟の範囲内であれば自由に行動いただけます。」

日高はそこで一度区切り、私を見た。

これは、何か質問は?という沈黙だろうか。それとも、ここからが本題ですよ、という合図?……自由に行動できるのはゲスト棟の範囲内?やはり、この豪華な家は私の檻でしかないということを言いたいのかもしれない。

この家では、水野家のような以心伝心など通用しないのだろう。全てが明確な規則と契約に基づいており、阿吽の呼吸で許される曖昧さなど、存在しないに違いない。これから私が関わる神谷家は、常に冷たい論理と、明確なルールで動くのだろう。


「本邸、特に瑛斗様がいらっしゃる区画への立ち入りは、アポイントメントが必要です。これは安全管理上の規則でございます。」

「アポ?同じ家に住むのに?」

私の切実な疑問に対し、日高は一切表情を変えなかった。

「そして、最も重要なのは、明日からの勤務についてです。」
日高は、手元のタブレットを確認した。

「副社長室付き特別補佐としてご入社されます。勤務時間は9時から18時。許嫁として瑛斗様と時間を共にし、庶民の感覚を社内に反映していただきます。」

特別補佐ね。庶民の感覚を反映?それ、私が財閥の御曹司に説教するってこと?つまり私は普通の人代表ってこと。財閥の御曹司に庶民の考え方を教えるなんて、喧嘩の予感しかしないけど。でも勤務時間が18時までなら、それ以降は契約外だし、許嫁という肩書きも定時ルールで縛れるなら、私にも逃げ道があるかもしれない。これはちょっとした勝ち筋かも。

「ご心配なく。奈月様の普段通り副社長の瑛斗様のお人柄を全面にでるよう業務を行って頂ければ問題ありませんので。」

そう言われ、私は広すぎるゲスト棟の一室へ足を踏み入れた。

天井は高く、窓から見える庭はどこまでも続いている。けれど、広さは安心ではなく、むしろ落ち着かない。ベッドに腰を下ろし、スマホを取り出す。通知がいくつか溜まっていた。
高校時代からの友人たちとのグループチャット。

香山涼子:奈月、就活どう?計画通り進んでる?

立花杏:面接で噛んだんでしょ(笑)

野々村葵:事実確認。噛んだのは本当?

私はため息をつきながら、指を動かした。
「就活どころじゃない。財閥の御曹司の許嫁になった。」

数秒後、スタンプと爆笑の嵐が返ってきた。

杏:え、少女漫画?何それ!

涼子:ちょっと待って、それ本当に大丈夫なの?相手、怖い人じゃないよね?

葵:情報不足。詳細を送れ。

私はスマホを見つめ、ため息をついた。送るより話した方が早い。通話ボタンを押すと、すぐに三人の声が重なった。

私は、状況を簡潔に話すと、一瞬の沈黙のあと、三人の声が重なる。
「えー!」「ほんとに?」「マジか……」
真面目な声、きゃぴきゃぴした声、冷静な声が入り混じった。やがて、手のつけられないほどの爆笑に変わっていった。

スマホを耳に押し当てながら、私は天井を見上げ、小さく呟いた。

「……笑い話で済めばいいんだけどね。」

「最後に、明日の状況報告、期待しているよ。おやすみ」と冷静な葵が言い、音声通話が終わった。

通話を切った、数秒後にノックの音が響いた。

「奈月様、夕食のご用意が整いました。」
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