婚約破棄された令嬢は、幸せになると決めました~追放先で出会った冷徹公爵が、なぜか溺愛してくる件~

sika

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第10話 王都からの噂

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春の訪れとともに、屋敷の空気も明るくなっていった。  
雪に閉ざされていた道が開き、商人たちの往来が戻る。  
領地の市場には新しい品が並び、子どもたちの笑い声が絶えなかった。  

だが、穏やかな日々は長くは続かなかった。  
ある日、王都から戻った商隊が、思いもよらぬ噂を運んできたのだ。

「アイリス・アルベール様が、アルドレッド公爵家に匿われているらしい」  

その噂は風のように広がり、数日のうちに領内のあらゆる場所で囁かれるようになった。  
それが真実であることを知る者は数えるほどだったが、人の好奇心は容赦ない。  
貴族の失脚や、愛憎の物語が人々にとってどれほど魅力的な話題かを、アイリスはよく知っていた。

***  

「お嬢様、申し上げにくいのですが……」  
リーナが心配そうな顔で言った。  
「王都の使者がこちらに向かっているという話が出ています。」  

アイリスは暖炉の前にいた。火のはぜる音が静寂を破る。  
「王都の使者……? またわたしに関わることなのでしょうか。」  
「おそらく。領民の中でも、一部の者が“公爵家が前王太子の婚約者を隠している”と騒いでいるようで……」  

思わず息を呑んだ。  
リュシアンの名を直接耳にしたのは久しぶりだった。  
忘れたはずの痛みが、胸の奥で鈍く疼く。  

「公爵様はこのことをご存じ?」  
「今、文官の方から報告が上がっているはずです。」  

アイリスはすぐに立ち上がる。外套を羽織り、執務室へ向かった。  
昨夜も遅くまで明かりが灯っていた部屋。その扉を叩くと、やはり低い声が中から返ってきた。  

「入れ。」  

扉を開けると、レオン公爵が書類に目を通していた。  
机の上には数通の封書があり、その中の一つには王家の印章が押されている。  
アイリスの心臓が早鐘を打つ。  

「……あの、失礼します。」  
「来ると思っていた。」  
落ち着いた声。怒りも焦りも感じられない。  
彼は椅子を離れ、アイリスを見た。  

「噂のことですね。」  
「ああ。王都からの使者が三日以内に到着する。おそらく王太子の命令だ。」  

アイリスは息を呑んだ。  
「まだ……わたしを――」  
「恐らくは“確認”だろう。生きているか、どんな暮らしをしているのか。彼らにとってはそれだけで十分だ。」  

レオンの声には棘があった。しかしそれは冷たさではない。  
むしろ、彼女を傷つけまいとする硬い鎧のように思えた。  

「公爵様……ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。」  
「お前のせいではない。」  
「でも、わたしがいることで領に迷惑が――」  
「黙れ。」  

その一言に、アイリスは反射的に口を閉じた。  
レオンの目が鋭く光った。  

「自分を責めるな。お前は何も悪くない。悪いのは、己の愚かさを誇りのように言いふらす王都の連中だ。」  

その声音には怒りではなく、強い保護の意志がこもっていた。  
アイリスは何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこない。  
ただ胸が熱くなり、視界が滲む。  

「……ありがとうございます。」  
「礼など要らん。」  

レオンは背を向け、机上の手紙を手に取った。  
炎の前に立つその背が、影を伸ばす。  

「来た使者には俺が会う。お前は屋敷から出るな。」  
「でも、それでは――」  
「これは命令だ、グレイス。」  

その名を呼ばれる声は低く、けれど確かに温かかった。  

***  

迎えた翌々日。  
王都からの使者二名が屋敷に到着した。  
灰色の外套に王家の徽章――見る者を圧する冷たい威圧感があった。  

執務室での面会が始まると、使用人たちは緊張して息を潜めた。  
アイリスは離れた部屋で、扉の向こうの音に耳を澄ませていた。  

「アルドレッド公爵殿、王太子殿下より書簡を預かっております。」  
使者の無機質な声が響く。  
「聞こう。」  

紙が開かれる音。  
リーナが隣で小さく手を握ってくれているのがわかる。  

「元婚約者・アイリス・アルベールが領内に保護されているとの報告を受けた。  
その所在と処遇について説明を求めるものとする――以上です。」  

短い沈黙。  
そのあと聞こえたのは、落ち着いた低音の声。  

「彼女はすでにアルベール家の縁を切り、わが領にて文官補助として働いている。  
この領は王の管轄下にあるが、居住の選択は個人の自由だ。誰にも口出しはさせん。」  

「殿下は“確認”を求めておられます。書面だけでは足りません。」  
「ならば殿下ご自身で来るがいい。私は拒まぬ。」  

冷たい空気が背筋を刺すようだった。  
しかしその中に、確かな誇りと信念が宿っている。  
それがレオン・アルドレッドという男だった。  

やがて使者が言葉を失い、形式的に礼を述べて退室していった。  

***  

扉が閉まる音を聞いた瞬間、アイリスは胸に手を当てた。  
怖かった。  
再び王都が自分を追ってくるような感覚に、足元が揺れる。  

だが同時に――自分を守るために立ってくれた彼の姿が心に刻まれていた。  
一言一句、彼の声が離れない。  

午後。  
執務を終えたレオンが廊下を歩いていると、壁の陰からアイリスが現れた。  
彼女は小さく頭を下げる。  

「公爵様……私のために、ありがとうございます。」  
「礼は要らぬ。俺は当然のことをしただけだ。」  
「でも……わたし、本当にここに居てもいいのでしょうか。」  
「まだそんなことを言うのか。」  

彼は歩み寄り、そっと彼女の肩に手を置いた。  
その手はあたたかく、力強かった。  

「王都の影に怯えるな。ここはお前の居場所だ。」  

アイリスは息を呑んだ。  
何も言えず、ただ頷いた。  
その瞳に浮かぶわずかな涙を見て、レオンは静かに口を開く。  

「……俺は不器用な男だ。言葉で誰かを慰めるのは苦手だが、一つだけ覚えておけ。」  
「……何でしょう。」  
「俺の領にいる限り、お前は誰にも傷つけさせない。」  

その言葉は約束だった。  
彼女の中で、何かが確かな形を持ち始める。  

優しいだけではない。  
ただ冷徹なだけでもない。  
彼の強さと優しさが溶け合うように、  
アイリスの心は静かに、確かに傾いていった。  

夜、部屋に戻ると、窓の外には満月が出ていた。  
その光の下で、彼女はそっと呟く。  

「――どうか、この穏やかな日々が終わりませんように。」  

月明かりは静かに彼女を照らし、  
その祈りを包むように夜が更けていった。  

(第10話 王都からの噂 了)
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