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第9話 優しさに揺れる心
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春が本格的に訪れようとしていた。
屋敷の庭には白い花が咲き出し、鳥たちが明るく鳴き交わしている。
長かった冬が終わり、少しずつ人々の顔にも笑みが増え始めていた。
そんな中、アイリスの胸の内は静かに波打っていた。
地下倉庫で見つけた古い記録の数々――。
そこに綴られていた領民の叫び、公爵が背負い続けていた悲しみ。
それを知って以来、彼女の見る世界は確かに変わっていた。
冷たいと思っていた人が、実は誰よりも傷を抱えていた。
それを知った今、彼に向ける視線が優しくならずにはいられなかった。
***
朝。
文官たちとの打ち合わせが終わり、アイリスはいつものように執務室へ報告に向かった。
扉を叩くと、聞き慣れた低い声が返る。
「入れ。」
室内には淡い陽光が差し込み、机の上には整えられた書類が山のように積まれていた。
レオン公爵はその中から一枚を取り上げ、静かに目を通している。
「おはようございます、公爵様。」
アイリスが頭を下げると、彼は手を止めて視線を上げた。
その金の瞳が一瞬だけ柔らかく光った気がした。
「おはよう、グレイス。昨日の記録は確認した。無駄が一つもない。見事だ。」
「ありがとうございます。」
「特にこの村の補助金の配分、よく調べたな。俺が気づかなかった点を正確に指摘している。」
そう言って、彼は軽く顎で示した。
机の上には、アイリスが書いた修正案が置かれている。
それを見ただけで胸が熱くなった。
努力がきちんと届いていると感じる瞬間――それがどれほど嬉しいか、彼女は知っていた。
「殿下時代の文官より優秀だな。」
その一言で、アイリスの動きが止まった。
“殿下”という言葉を聞くだけで、胸の奥の古傷が疼く。
レオンも気づいたのか、すぐに小さく息を吐いた。
「……ああ、悪かった。」
「いえ。もう、昔のことです。」
そう答えながらも、指先が微かに震えた。
だが、次に続いた彼の言葉が、その震えを静めた。
「お前がここにいて良かった。俺の領地は、ようやく息をしている。」
「……わたしが、ですか?」
「そうだ。お前がいると、皆が安心する。俺もだ。」
その言葉に、心が強く揺れた。
胸の奥で小さな音が鳴る。
今まで誰にもそんな風に言われたことはなかった。
“いて良かった”。その一言が、どれほど彼女の心を救ったことか。
「ありがとうございます……公爵様。」
その声は震えていたけれど、確かに笑顔だった。
***
昼下がり。
外は穏やかな陽気が広がり、屋敷の庭では子どもたちが走り回っていた。
文官の手伝いを終えたアイリスは、中庭のベンチで少し休憩を取っていた。
風に乗って咲き始めた花の香りが漂う。
そこへレオンの影が落ちた。
「こんなところにいたのか。」
「お疲れなのですか?」
「外の空気でも吸いたくなった。」
彼は隣に腰を下ろすと、視線を遠くの丘へ向けた。
その横顔はどこか穏やかで、春の光を受けてやわらかに見えた。
「この季節は嫌いではない。」
「公爵様が季節の話をなさるなんて珍しいですね。」
「……そうかもしれんな。昔は、毎年春になるたびに葬儀が増えた。冬を越えられなかった者たちの。」
その言葉に、胸が締めつけられる。
けれど今は、彼の声音が少し違っていた。
過去を嘆くのではなく、その苦しみすら穏やかに受け入れているような響き。
「だが、今年の春は違う。花が咲くのを純粋に楽しめそうだ。」
「それは……きっと、公爵様が領を守り抜いたからです。」
「守り抜いた? いや、俺が支えられている。」
レオンはそう言って、ふとアイリスに視線を向けた。
黄金の瞳がまっすぐに心を射抜く。
「お前が、傍にいるからだ。」
一瞬、時間が止まった。
風の音も鳥の声も消えて、世界には二人きりしか残らない。
「……わたくし、そんな大層なことは何もしておりませんわ。」
「自覚がないなら、それでいい。」
彼の声は低く、優しかった。
けれどそこに滲む感情の色が、今までのどんな言葉よりも熱を帯びていた。
どうしてだろう。
その優しさが嬉しいのに、胸が苦しかった。
***
夜。
部屋に戻ったアイリスは、窓を開けて外の月を見上げた。
明るい月が庭を照らし、風がカーテンを揺らしている。
心は静かでありながら、どこか落ち着かない。
「わたし……どうして、あの人の言葉一つでこんなに動揺するのかしら。」
レオンの表情を思い出すたびに、頬が熱くなる。
あの瞳、あの声。
凍てつく冬を知る男の、どこまでも深い優しさ。
自分は恋を、もう知らないと思っていた。
失った夜に燃え尽きたはずの心が、再び温かさを覚えるなんて想像もしていなかった。
けれど、確かに心の奥で小さな芽が息づき始めている。
それはまだ名もない想い。けれど確かに、彼に向かって伸び始めていた。
「駄目よ……公爵様は……」
呟いた声が夜に溶ける。
身分も、生き方も、世界が違う。
彼は領を背負う人。自分は、居場所を与えられただけの客人。
この感情を抱いてはいけないと分かっている。
それでも、止められなかった。
彼の姿を見るたび、胸の奥で花が咲くような痛みが広がる。
「どうして、あの人はそんなに優しいの……」
アイリスは胸に手を当て、そっと笑った。
心は揺れていた。けれどその揺れさえも、今は愛おしいと感じてしまうほどに。
***
翌朝。
レオンは執務室で書類を整理していたが、不意に窓の外から笑い声が聞こえた。
庭で花の世話をしているアイリスの声だ。
春風に混じって届くその笑いに、知らず口元が綻ぶ。
「……あの娘が来てから、屋敷が静かでなくなったな。」
ぼそりと呟き、机に視線を戻す。
書類の端に小さく書かれた彼女の字――整って、真面目で、どこか優しい。
胸の奥で何かが温かく広がる。
“お前が傍にいるからだ。”
昼下がりに自分が口にしたあの言葉を思い出し、
彼は小さく息をついた。
「……俺も、少し変わったかもしれんな。」
その声は、誰にも聞かれぬように小さく、けれど確かに笑みを含んでいた。
(第9話 優しさに揺れる心 了)
屋敷の庭には白い花が咲き出し、鳥たちが明るく鳴き交わしている。
長かった冬が終わり、少しずつ人々の顔にも笑みが増え始めていた。
そんな中、アイリスの胸の内は静かに波打っていた。
地下倉庫で見つけた古い記録の数々――。
そこに綴られていた領民の叫び、公爵が背負い続けていた悲しみ。
それを知って以来、彼女の見る世界は確かに変わっていた。
冷たいと思っていた人が、実は誰よりも傷を抱えていた。
それを知った今、彼に向ける視線が優しくならずにはいられなかった。
***
朝。
文官たちとの打ち合わせが終わり、アイリスはいつものように執務室へ報告に向かった。
扉を叩くと、聞き慣れた低い声が返る。
「入れ。」
室内には淡い陽光が差し込み、机の上には整えられた書類が山のように積まれていた。
レオン公爵はその中から一枚を取り上げ、静かに目を通している。
「おはようございます、公爵様。」
アイリスが頭を下げると、彼は手を止めて視線を上げた。
その金の瞳が一瞬だけ柔らかく光った気がした。
「おはよう、グレイス。昨日の記録は確認した。無駄が一つもない。見事だ。」
「ありがとうございます。」
「特にこの村の補助金の配分、よく調べたな。俺が気づかなかった点を正確に指摘している。」
そう言って、彼は軽く顎で示した。
机の上には、アイリスが書いた修正案が置かれている。
それを見ただけで胸が熱くなった。
努力がきちんと届いていると感じる瞬間――それがどれほど嬉しいか、彼女は知っていた。
「殿下時代の文官より優秀だな。」
その一言で、アイリスの動きが止まった。
“殿下”という言葉を聞くだけで、胸の奥の古傷が疼く。
レオンも気づいたのか、すぐに小さく息を吐いた。
「……ああ、悪かった。」
「いえ。もう、昔のことです。」
そう答えながらも、指先が微かに震えた。
だが、次に続いた彼の言葉が、その震えを静めた。
「お前がここにいて良かった。俺の領地は、ようやく息をしている。」
「……わたしが、ですか?」
「そうだ。お前がいると、皆が安心する。俺もだ。」
その言葉に、心が強く揺れた。
胸の奥で小さな音が鳴る。
今まで誰にもそんな風に言われたことはなかった。
“いて良かった”。その一言が、どれほど彼女の心を救ったことか。
「ありがとうございます……公爵様。」
その声は震えていたけれど、確かに笑顔だった。
***
昼下がり。
外は穏やかな陽気が広がり、屋敷の庭では子どもたちが走り回っていた。
文官の手伝いを終えたアイリスは、中庭のベンチで少し休憩を取っていた。
風に乗って咲き始めた花の香りが漂う。
そこへレオンの影が落ちた。
「こんなところにいたのか。」
「お疲れなのですか?」
「外の空気でも吸いたくなった。」
彼は隣に腰を下ろすと、視線を遠くの丘へ向けた。
その横顔はどこか穏やかで、春の光を受けてやわらかに見えた。
「この季節は嫌いではない。」
「公爵様が季節の話をなさるなんて珍しいですね。」
「……そうかもしれんな。昔は、毎年春になるたびに葬儀が増えた。冬を越えられなかった者たちの。」
その言葉に、胸が締めつけられる。
けれど今は、彼の声音が少し違っていた。
過去を嘆くのではなく、その苦しみすら穏やかに受け入れているような響き。
「だが、今年の春は違う。花が咲くのを純粋に楽しめそうだ。」
「それは……きっと、公爵様が領を守り抜いたからです。」
「守り抜いた? いや、俺が支えられている。」
レオンはそう言って、ふとアイリスに視線を向けた。
黄金の瞳がまっすぐに心を射抜く。
「お前が、傍にいるからだ。」
一瞬、時間が止まった。
風の音も鳥の声も消えて、世界には二人きりしか残らない。
「……わたくし、そんな大層なことは何もしておりませんわ。」
「自覚がないなら、それでいい。」
彼の声は低く、優しかった。
けれどそこに滲む感情の色が、今までのどんな言葉よりも熱を帯びていた。
どうしてだろう。
その優しさが嬉しいのに、胸が苦しかった。
***
夜。
部屋に戻ったアイリスは、窓を開けて外の月を見上げた。
明るい月が庭を照らし、風がカーテンを揺らしている。
心は静かでありながら、どこか落ち着かない。
「わたし……どうして、あの人の言葉一つでこんなに動揺するのかしら。」
レオンの表情を思い出すたびに、頬が熱くなる。
あの瞳、あの声。
凍てつく冬を知る男の、どこまでも深い優しさ。
自分は恋を、もう知らないと思っていた。
失った夜に燃え尽きたはずの心が、再び温かさを覚えるなんて想像もしていなかった。
けれど、確かに心の奥で小さな芽が息づき始めている。
それはまだ名もない想い。けれど確かに、彼に向かって伸び始めていた。
「駄目よ……公爵様は……」
呟いた声が夜に溶ける。
身分も、生き方も、世界が違う。
彼は領を背負う人。自分は、居場所を与えられただけの客人。
この感情を抱いてはいけないと分かっている。
それでも、止められなかった。
彼の姿を見るたび、胸の奥で花が咲くような痛みが広がる。
「どうして、あの人はそんなに優しいの……」
アイリスは胸に手を当て、そっと笑った。
心は揺れていた。けれどその揺れさえも、今は愛おしいと感じてしまうほどに。
***
翌朝。
レオンは執務室で書類を整理していたが、不意に窓の外から笑い声が聞こえた。
庭で花の世話をしているアイリスの声だ。
春風に混じって届くその笑いに、知らず口元が綻ぶ。
「……あの娘が来てから、屋敷が静かでなくなったな。」
ぼそりと呟き、机に視線を戻す。
書類の端に小さく書かれた彼女の字――整って、真面目で、どこか優しい。
胸の奥で何かが温かく広がる。
“お前が傍にいるからだ。”
昼下がりに自分が口にしたあの言葉を思い出し、
彼は小さく息をついた。
「……俺も、少し変わったかもしれんな。」
その声は、誰にも聞かれぬように小さく、けれど確かに笑みを含んでいた。
(第9話 優しさに揺れる心 了)
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