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第8話 屋敷の小さな秘密
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春の風がようやく雪を溶かし始め、庭の土が見えるようになってきた。
白ばかりだった景色に、薄茶と緑が混ざり出す。
少しずつ、世界に色が戻っていく。
それはアイリスにとって、季節の変化以上の意味を持っていた。
公爵領の空気に馴染み、書く手もはやく、笑うことも自然になった自分。
ここでの日々は、彼女の傷を静かに癒していた。
けれど、変わらないものもある。
レオン公爵は相変わらず無愛想で、人との距離を保ち続けている。
文官たちが彼を畏れながらも敬意を抱いて接しているのを見て、
アイリスは「冷徹」という言葉が形ばかりのものに思えてならなかった。
そんなある日、リーナが部屋に駆け込んできた。
頬を上気させ、手には小さな鍵を握っている。
「お嬢様! 大変です、地下倉庫が急に開いたのです!」
「開いた……? どういうこと?」
「ずっと誰も使っていなかったのに、今朝鍵が外れていて……。
それに、公爵様が“誰も近づくな”と仰っていた場所なんです。」
リーナの声には興奮と不安が混じっていた。
アイリスは戸惑いつつも、その話に妙な引っかかりを覚えた。
「見に行ってもいい?」
「え……でも、怒られるかもしれません!」
「大丈夫よ。見るだけ。何かあったら報告すればいいのよ。」
そう言って微笑み、外套を羽織る。
言葉にできない胸騒ぎを抱えたまま、二人は屋敷の裏手へ向かった。
***
地下倉庫への入口は、使用人たちが通る通用口のさらに奥にあった。
普段は物置代わりに使われ、誰も入らないという。
重たい扉を開くと、冷たい空気が流れ出てくる。
蝋燭の明かりに照らされる階段を降りていくと、
古い木の香りと静寂が包み込んだ。
奥へ進むと、いくつもの木箱と棚が整然と並んでいる。
そして、その一角に、見慣れぬ鉄箱があった。
「これは……?」
リーナが首を傾げる。
アイリスは膝をついて鍵穴を見た。
すでに錆びていたが、最近触られた形跡がある。
少し力を入れると、簡単に開いてしまった。
箱の中には、数冊の帳簿と封筒が入っていた。
埃を払い、そっと表紙をめくる。
そこには領地の経済記録がびっしりと並んでいた。
けれど、その日付は――
「十年前……?」
リーナが覗き込み、息を呑む。
「まさか……公爵様のご両親の頃の記録では?」
「たぶんそうね。」
ページをめくるたびに、整然と並んだ数字が不自然に途切れていた。
ある箇所だけ、収支の記録が抜け落ちている。
代わりに、封筒の束が挟まっていた。
一通取り出して中を読む。
そこには、当時の領民からの請願書が記されていた。
“戦争による徴兵で、息子を三人失いました。もう働ける者がいません。
どうか、税を免除してください。”
“冬の寒さで家族が飢えています。救いを求めます。”
文字は震え、涙の跡でにじんでいる。
どの手紙にも、丁寧に小さい印章が押されていた。
――アルドレッド家当主、レオン・アルドレッドの署名。
「……こんなに……」
リーナが手を口元に当てた。
「全部、公爵様が読んでいたんですね。」
アイリスは胸が締めつけられた。
冷たい人ではなく、誰よりも領民と痛みを分かち合おうとした人。
その心の重さが紙の一枚一枚から伝わってくる。
けれど、封筒の最後に挟まっていた一通だけが違った。
そこには墨で太く書かれた父の名――“アルベール家当主”の宛名があった。
“レオン・アルドレッド公爵殿
戦地への支援物資の件、再三の交渉にも関わらず供給不足が続く件、
これ以上の負担を我が家で引き受けることは困難です。
責任はそちらでお取りください。”
アイリスの指が止まる。
見覚えのある筆跡。
父の字だ。
「……お父様……」
声に、自分でも気づかぬほどの痛みが混ざった。
知らなかった。
父がこの公爵に、そんな冷たい文を送っていたなんて。
リーナがそっと肩に手を置く。
「お嬢様……」
「……この時、公爵様は一人で……戦地の者たちを支えていたのかもしれない。」
静かに立ち上がり、アイリスは箱の蓋を閉めた。
***
その夜、夕食の後。
彼女は迷いに迷いながらも、レオンの執務室を訪れた。
扉を叩くと、すぐに低い声が返る。
「入れ。」
部屋に入ると、暖炉の火がゆらめいていた。
彼は机に向かって紙を広げていたが、すぐに顔を上げた。
「どうした?」
「……地下倉庫のことでお話があります。」
一瞬、空気が変わった。
レオンの瞳が静かに揺れ、何かを悟ったように細められる。
「見たのか。」
「……はい。」
「封を開けたのは、お前か?」
「すみません……でも、どうして隠していたのですか。」
彼は何も答えなかった。
ただ、書類をゆっくりと伏せ、暖炉に目を向けた。
「――忘れたかったからだ。」
炎がぱちりと音を立てる。
その光が彼の顔の陰影を際立たせた。
「十年前、この領地は飢饉と戦争の両方に苦しんだ。
俺はただ、父の遺した責務を果たそうとしただけだったが……結果、救えなかった命が多すぎた。」
「だから、記録を……?」
「あれは罪の証だ。俺にとっては。」
アイリスは静かに首を振った。
「いいえ。違います。あれは……誰かの声です。あなたが残してくれた“生きた証”です。」
レオンはゆっくりと振り向いた。
その目に、わずかに驚きが混じる。
「罪ではなく、希望として受け継げるはずです。」
「お前は……優しいな。」
「優しさではありません。知らなかった真実を知ってしまった以上、
見て見ぬふりをするほうが、ずっと卑怯です。」
沈黙のあと、彼がわずかに笑った。
「……お前は不思議な女だ。本当に、変わった。」
「公爵様に教えられたんです。自分の道を生きると決めたから、もう逃げません。」
彼は一つ、深い息を吐き、窓の外に目を向けた。
夜風に舞う桜の蕾が、静かに揺れている。
「……あの記録は、焼くつもりでいた。だが、お前がそう言うなら任せよう。」
「はい。ちゃんと保管して、後の世に残します。」
「頼んだ、グレイス。」
名を呼ばれ、胸の奥で小さく震える。
氷のような声が、いまは不思議とあたたかく感じた。
***
部屋を出ると、春の夜の風がそっと肌を撫でた。
屋敷の奥では、まだ蝋燭の光がいくつも揺れている。
公爵の過去を知って、彼女は少しだけ理解した。
冷徹に見える男は、本当は誰よりも人の痛みに敏感な人だった。
そして――その孤独に触れた時、
アイリスの胸の奥で、何かが確かに芽吹き始めていた。
(第8話 屋敷の小さな秘密 了)
白ばかりだった景色に、薄茶と緑が混ざり出す。
少しずつ、世界に色が戻っていく。
それはアイリスにとって、季節の変化以上の意味を持っていた。
公爵領の空気に馴染み、書く手もはやく、笑うことも自然になった自分。
ここでの日々は、彼女の傷を静かに癒していた。
けれど、変わらないものもある。
レオン公爵は相変わらず無愛想で、人との距離を保ち続けている。
文官たちが彼を畏れながらも敬意を抱いて接しているのを見て、
アイリスは「冷徹」という言葉が形ばかりのものに思えてならなかった。
そんなある日、リーナが部屋に駆け込んできた。
頬を上気させ、手には小さな鍵を握っている。
「お嬢様! 大変です、地下倉庫が急に開いたのです!」
「開いた……? どういうこと?」
「ずっと誰も使っていなかったのに、今朝鍵が外れていて……。
それに、公爵様が“誰も近づくな”と仰っていた場所なんです。」
リーナの声には興奮と不安が混じっていた。
アイリスは戸惑いつつも、その話に妙な引っかかりを覚えた。
「見に行ってもいい?」
「え……でも、怒られるかもしれません!」
「大丈夫よ。見るだけ。何かあったら報告すればいいのよ。」
そう言って微笑み、外套を羽織る。
言葉にできない胸騒ぎを抱えたまま、二人は屋敷の裏手へ向かった。
***
地下倉庫への入口は、使用人たちが通る通用口のさらに奥にあった。
普段は物置代わりに使われ、誰も入らないという。
重たい扉を開くと、冷たい空気が流れ出てくる。
蝋燭の明かりに照らされる階段を降りていくと、
古い木の香りと静寂が包み込んだ。
奥へ進むと、いくつもの木箱と棚が整然と並んでいる。
そして、その一角に、見慣れぬ鉄箱があった。
「これは……?」
リーナが首を傾げる。
アイリスは膝をついて鍵穴を見た。
すでに錆びていたが、最近触られた形跡がある。
少し力を入れると、簡単に開いてしまった。
箱の中には、数冊の帳簿と封筒が入っていた。
埃を払い、そっと表紙をめくる。
そこには領地の経済記録がびっしりと並んでいた。
けれど、その日付は――
「十年前……?」
リーナが覗き込み、息を呑む。
「まさか……公爵様のご両親の頃の記録では?」
「たぶんそうね。」
ページをめくるたびに、整然と並んだ数字が不自然に途切れていた。
ある箇所だけ、収支の記録が抜け落ちている。
代わりに、封筒の束が挟まっていた。
一通取り出して中を読む。
そこには、当時の領民からの請願書が記されていた。
“戦争による徴兵で、息子を三人失いました。もう働ける者がいません。
どうか、税を免除してください。”
“冬の寒さで家族が飢えています。救いを求めます。”
文字は震え、涙の跡でにじんでいる。
どの手紙にも、丁寧に小さい印章が押されていた。
――アルドレッド家当主、レオン・アルドレッドの署名。
「……こんなに……」
リーナが手を口元に当てた。
「全部、公爵様が読んでいたんですね。」
アイリスは胸が締めつけられた。
冷たい人ではなく、誰よりも領民と痛みを分かち合おうとした人。
その心の重さが紙の一枚一枚から伝わってくる。
けれど、封筒の最後に挟まっていた一通だけが違った。
そこには墨で太く書かれた父の名――“アルベール家当主”の宛名があった。
“レオン・アルドレッド公爵殿
戦地への支援物資の件、再三の交渉にも関わらず供給不足が続く件、
これ以上の負担を我が家で引き受けることは困難です。
責任はそちらでお取りください。”
アイリスの指が止まる。
見覚えのある筆跡。
父の字だ。
「……お父様……」
声に、自分でも気づかぬほどの痛みが混ざった。
知らなかった。
父がこの公爵に、そんな冷たい文を送っていたなんて。
リーナがそっと肩に手を置く。
「お嬢様……」
「……この時、公爵様は一人で……戦地の者たちを支えていたのかもしれない。」
静かに立ち上がり、アイリスは箱の蓋を閉めた。
***
その夜、夕食の後。
彼女は迷いに迷いながらも、レオンの執務室を訪れた。
扉を叩くと、すぐに低い声が返る。
「入れ。」
部屋に入ると、暖炉の火がゆらめいていた。
彼は机に向かって紙を広げていたが、すぐに顔を上げた。
「どうした?」
「……地下倉庫のことでお話があります。」
一瞬、空気が変わった。
レオンの瞳が静かに揺れ、何かを悟ったように細められる。
「見たのか。」
「……はい。」
「封を開けたのは、お前か?」
「すみません……でも、どうして隠していたのですか。」
彼は何も答えなかった。
ただ、書類をゆっくりと伏せ、暖炉に目を向けた。
「――忘れたかったからだ。」
炎がぱちりと音を立てる。
その光が彼の顔の陰影を際立たせた。
「十年前、この領地は飢饉と戦争の両方に苦しんだ。
俺はただ、父の遺した責務を果たそうとしただけだったが……結果、救えなかった命が多すぎた。」
「だから、記録を……?」
「あれは罪の証だ。俺にとっては。」
アイリスは静かに首を振った。
「いいえ。違います。あれは……誰かの声です。あなたが残してくれた“生きた証”です。」
レオンはゆっくりと振り向いた。
その目に、わずかに驚きが混じる。
「罪ではなく、希望として受け継げるはずです。」
「お前は……優しいな。」
「優しさではありません。知らなかった真実を知ってしまった以上、
見て見ぬふりをするほうが、ずっと卑怯です。」
沈黙のあと、彼がわずかに笑った。
「……お前は不思議な女だ。本当に、変わった。」
「公爵様に教えられたんです。自分の道を生きると決めたから、もう逃げません。」
彼は一つ、深い息を吐き、窓の外に目を向けた。
夜風に舞う桜の蕾が、静かに揺れている。
「……あの記録は、焼くつもりでいた。だが、お前がそう言うなら任せよう。」
「はい。ちゃんと保管して、後の世に残します。」
「頼んだ、グレイス。」
名を呼ばれ、胸の奥で小さく震える。
氷のような声が、いまは不思議とあたたかく感じた。
***
部屋を出ると、春の夜の風がそっと肌を撫でた。
屋敷の奥では、まだ蝋燭の光がいくつも揺れている。
公爵の過去を知って、彼女は少しだけ理解した。
冷徹に見える男は、本当は誰よりも人の痛みに敏感な人だった。
そして――その孤独に触れた時、
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(第8話 屋敷の小さな秘密 了)
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