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第13話 幸せの予感と戸惑い
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朝の光が白いカーテンを透かして差し込んでいた。
鳥の声で目を覚ますと、まだ胸がほんのり熱を帯びている。
夢を見たような気がする。昨夜の続きのような、心臓が高鳴る夢。
レオンと踊ったあの瞬間――
彼の手の温もり、見つめる瞳の優しさ。
あの光景が何度もまぶたの裏で揺れていた。
枕に顔を埋め、アイリス……いや、今や“グレイス”としての彼女は小さく呻いた。
「落ち着きなさい。仕事があるでしょう、わたし。」
だが心はまったく落ち着いてくれなかった。
胸の鼓動は相変わらず、昨夜のままのリズムで跳ね続けている。
***
朝食の席で、リーナが嬉しそうに笑った。
「昨日の舞踏会、皆が羨ましがっておりましたよ。グレイス様が公爵様と踊られるなんて、とても素敵でした。」
「そ、そんな大げさな……ただの余興ですよ。」
「皆がそう思うなら、きっと世の女性から嫉妬されてしまいますね。」
リーナの言葉に、パンを持っていた手が止まった。
「嫉妬……?」
「ええ。あの方、普段は誰にも近づかれないのです。踊る姿なんて、生涯見られないと思っていた人までいましたもの。」
リーナの無邪気な笑みに苦笑しながら、グレイスは胸の底で小さな不安が疼くのを感じた。
――あの人の隣にふさわしいのは、本当に自分なのだろうか。
その思いが、心に刺のように残る。
***
午前中、公爵は執務で忙しそうだった。
グレイスは文官補佐として書簡の整理をしていたが、ふと、扉の外から来客の声が響いた。
「アルドレッド公爵閣下、王都の使者からの追加報告書をお持ちしました。」
王都――その響きで、彼女の背筋がわずかにこわばる。
昨日、王太子の使者が訪れてからまだ一週間経たないのに。
どうやら、また何か起きているらしい。
しばらくして使者が帰り、静けさが戻る。
扉が開き、レオンが姿を現した。
「グレイス、少し休憩を取れ。」
「大丈夫です。仕事はまだ半分残っています。」
「いいから。」
命令のような調子。けれどその瞳はどこか優しい。
彼が部屋の鍵を閉める音が響いた。
「……王都がまた騒がしい。」
「どんな――?」
レオンは机の上に封書を置く。
そこに刻まれた印章は、間違いなく王太子のものだった。
「“王太子殿下の婚約者が正式に決定した”という知らせだ。相手は宰相の姪にあたる令嬢らしい。」
グレイスはしばらく言葉を失った。
胸の奥になにかが静かに崩れたような音がする。
「……そうですか。」
「お前に知らせるべきか迷ったが、知らぬままではよくないと思った。」
「ありがとうございます。むしろ……知らせてくださって、よかったです。」
微笑もうとしたが、うまく笑えなかった。
胸の奥が妙に空っぽで、痛みさえ鈍い。
遠い過去のことなのに、まるで昨日のことのように心がざわめく。
「殿下は手放したことを後悔しているという噂もある。」
「後悔……」
「おそらくは王妃教育の名を借りて、“貴族社会の見せ物”にしたことを恥じているのだろう。民の間でも評判が良くない。」
「そんな……」
グレイスは小さく目を閉じた。
ざまぁという言葉が今なら似合うかもしれない。
けれど、それを胸に浮かべても心は晴れなかった。
「憎んでいるか?」
「いいえ。憎むほどの力も残っていません。……ただ、悲しいだけです。」
静かに降りる沈黙。
暖炉の火がぱち、と音を立てた。
「もう、あの人の言葉で泣くことはありません。それだけで十分、過去にさよならができそうです。」
「そうか。」
レオンは一度目を伏せた。
その仕草が、どこか寂しげに見えた。
「……グレイス。これからこの領は、さらに大きく変わる。春の終わりとともに新しい商路が開く。
決裁する文書も増える。お前を正式な補佐官として雇い入れる手続きを進めるつもりだ。」
「補佐官……!」
驚きに息を呑む。
「それは、つまり――」
「領内の文書すべてに名を入れる権限を与えるということだ。貴族以外の者に認められるのは異例だが、俺の領であれば構わん。」
その提案に、心の奥から熱が湧き上がった。
夢のような話だった。
王都では“平凡な令嬢”と切り捨てられた自分が、ここで誰かに必要とされている。
その証がほしくて彼の屋敷に来て、それが今、現実になろうとしている。
「……公爵様、よろしいのですか? わたしのような者に、そんな資格――」
「資格は自分で作るものだ。お前ほど人を見て、考え、行動できる者を、俺は知らない。」
素直な言葉が、まっすぐ胸に届く。
グレイスは目を伏せ、震える声で答えた。
「ありがとうございます。必ず……あなたに恥じない働きをします。」
「俺に、ではない。自分に恥じぬようにだ。――だがその意気は嬉しい。」
視線が合い、自然と微笑み合った。
その瞬間、胸の奥で“何か”が確かに芽吹いた。
***
夜。
会食を終えたレオンは執務室に残り、一人で書類を整理していた。
広間では楽団の名残の音が微かに響く。
机の端に、淡い金の布切れが置かれている。
昨日、グレイスが誤って椅子に引っかけたドレスの裾の欠片だった。
いつの間にか、それを手に取っている自分に気づく。
「……いかんな。」
静かに苦笑した。
あれほど他人を寄せつけなかった自分が、今はたった一人の笑顔に心を動かされている。
彼女が笑えば、領が明るくなったように感じる。
彼女が沈めば、屋敷全体が寒くなる。
「優しさに……慣れすぎたか。」
ぽつりと呟き、深く息をついた。
王都にいる頃には決して口にしなかった言葉。
まだ認めたくはないが、もう逃れられない感情がそこにあった。
***
翌朝。
廊下を歩くグレイスのもとに、ひとりの文官が駆け寄った。
「グレイス様! 大変です、王都より使者が再び――!」
「王都、から……?」
顔を上げた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
再び呼ばれる過去の影。
だが、今の自分はもう一人ではない。
あの公爵の言葉が背中を支えてくれていた。
「……わかりました。公爵様の指示を仰ぎます。」
雨上がりの空に光が射す。
揺らぐ心の奥に、確かな温かさが灯っていた。
それは不安よりも強く、静かに息づく“幸せの予感”だった。
(第13話 幸せの予感と戸惑い 了)
鳥の声で目を覚ますと、まだ胸がほんのり熱を帯びている。
夢を見たような気がする。昨夜の続きのような、心臓が高鳴る夢。
レオンと踊ったあの瞬間――
彼の手の温もり、見つめる瞳の優しさ。
あの光景が何度もまぶたの裏で揺れていた。
枕に顔を埋め、アイリス……いや、今や“グレイス”としての彼女は小さく呻いた。
「落ち着きなさい。仕事があるでしょう、わたし。」
だが心はまったく落ち着いてくれなかった。
胸の鼓動は相変わらず、昨夜のままのリズムで跳ね続けている。
***
朝食の席で、リーナが嬉しそうに笑った。
「昨日の舞踏会、皆が羨ましがっておりましたよ。グレイス様が公爵様と踊られるなんて、とても素敵でした。」
「そ、そんな大げさな……ただの余興ですよ。」
「皆がそう思うなら、きっと世の女性から嫉妬されてしまいますね。」
リーナの言葉に、パンを持っていた手が止まった。
「嫉妬……?」
「ええ。あの方、普段は誰にも近づかれないのです。踊る姿なんて、生涯見られないと思っていた人までいましたもの。」
リーナの無邪気な笑みに苦笑しながら、グレイスは胸の底で小さな不安が疼くのを感じた。
――あの人の隣にふさわしいのは、本当に自分なのだろうか。
その思いが、心に刺のように残る。
***
午前中、公爵は執務で忙しそうだった。
グレイスは文官補佐として書簡の整理をしていたが、ふと、扉の外から来客の声が響いた。
「アルドレッド公爵閣下、王都の使者からの追加報告書をお持ちしました。」
王都――その響きで、彼女の背筋がわずかにこわばる。
昨日、王太子の使者が訪れてからまだ一週間経たないのに。
どうやら、また何か起きているらしい。
しばらくして使者が帰り、静けさが戻る。
扉が開き、レオンが姿を現した。
「グレイス、少し休憩を取れ。」
「大丈夫です。仕事はまだ半分残っています。」
「いいから。」
命令のような調子。けれどその瞳はどこか優しい。
彼が部屋の鍵を閉める音が響いた。
「……王都がまた騒がしい。」
「どんな――?」
レオンは机の上に封書を置く。
そこに刻まれた印章は、間違いなく王太子のものだった。
「“王太子殿下の婚約者が正式に決定した”という知らせだ。相手は宰相の姪にあたる令嬢らしい。」
グレイスはしばらく言葉を失った。
胸の奥になにかが静かに崩れたような音がする。
「……そうですか。」
「お前に知らせるべきか迷ったが、知らぬままではよくないと思った。」
「ありがとうございます。むしろ……知らせてくださって、よかったです。」
微笑もうとしたが、うまく笑えなかった。
胸の奥が妙に空っぽで、痛みさえ鈍い。
遠い過去のことなのに、まるで昨日のことのように心がざわめく。
「殿下は手放したことを後悔しているという噂もある。」
「後悔……」
「おそらくは王妃教育の名を借りて、“貴族社会の見せ物”にしたことを恥じているのだろう。民の間でも評判が良くない。」
「そんな……」
グレイスは小さく目を閉じた。
ざまぁという言葉が今なら似合うかもしれない。
けれど、それを胸に浮かべても心は晴れなかった。
「憎んでいるか?」
「いいえ。憎むほどの力も残っていません。……ただ、悲しいだけです。」
静かに降りる沈黙。
暖炉の火がぱち、と音を立てた。
「もう、あの人の言葉で泣くことはありません。それだけで十分、過去にさよならができそうです。」
「そうか。」
レオンは一度目を伏せた。
その仕草が、どこか寂しげに見えた。
「……グレイス。これからこの領は、さらに大きく変わる。春の終わりとともに新しい商路が開く。
決裁する文書も増える。お前を正式な補佐官として雇い入れる手続きを進めるつもりだ。」
「補佐官……!」
驚きに息を呑む。
「それは、つまり――」
「領内の文書すべてに名を入れる権限を与えるということだ。貴族以外の者に認められるのは異例だが、俺の領であれば構わん。」
その提案に、心の奥から熱が湧き上がった。
夢のような話だった。
王都では“平凡な令嬢”と切り捨てられた自分が、ここで誰かに必要とされている。
その証がほしくて彼の屋敷に来て、それが今、現実になろうとしている。
「……公爵様、よろしいのですか? わたしのような者に、そんな資格――」
「資格は自分で作るものだ。お前ほど人を見て、考え、行動できる者を、俺は知らない。」
素直な言葉が、まっすぐ胸に届く。
グレイスは目を伏せ、震える声で答えた。
「ありがとうございます。必ず……あなたに恥じない働きをします。」
「俺に、ではない。自分に恥じぬようにだ。――だがその意気は嬉しい。」
視線が合い、自然と微笑み合った。
その瞬間、胸の奥で“何か”が確かに芽吹いた。
***
夜。
会食を終えたレオンは執務室に残り、一人で書類を整理していた。
広間では楽団の名残の音が微かに響く。
机の端に、淡い金の布切れが置かれている。
昨日、グレイスが誤って椅子に引っかけたドレスの裾の欠片だった。
いつの間にか、それを手に取っている自分に気づく。
「……いかんな。」
静かに苦笑した。
あれほど他人を寄せつけなかった自分が、今はたった一人の笑顔に心を動かされている。
彼女が笑えば、領が明るくなったように感じる。
彼女が沈めば、屋敷全体が寒くなる。
「優しさに……慣れすぎたか。」
ぽつりと呟き、深く息をついた。
王都にいる頃には決して口にしなかった言葉。
まだ認めたくはないが、もう逃れられない感情がそこにあった。
***
翌朝。
廊下を歩くグレイスのもとに、ひとりの文官が駆け寄った。
「グレイス様! 大変です、王都より使者が再び――!」
「王都、から……?」
顔を上げた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
再び呼ばれる過去の影。
だが、今の自分はもう一人ではない。
あの公爵の言葉が背中を支えてくれていた。
「……わかりました。公爵様の指示を仰ぎます。」
雨上がりの空に光が射す。
揺らぐ心の奥に、確かな温かさが灯っていた。
それは不安よりも強く、静かに息づく“幸せの予感”だった。
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