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第14話 初めての笑顔
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朝霧が山を包み込み、遠くから鳥の声が聞こえていた。
夜の雨が上がり、草葉に水滴が輝いている。
そんな中、アイリス――いや、“グレイス”はいつもより早く目を覚ました。
王都からの使者が到着したと報せを受けたのは、昨夜のことだった。
もう逃げはしないと決めた。
それでも胸の奥で小さな不安の種がじりじりと芽を出していた。
リーナが心配そうに覗き込む。
「グレイス様、本当にお一人で向かわれるのですか? 公爵様にお任せしても……」
「いいえ。もう誰かに守ってもらうばかりの自分ではいたくないの。今度こそ、ちゃんと会話をして終わらせたいの。」
その声には迷いがなかった。
彼女は微笑むと、支度を終えて屋敷を出る。
外は透き通るような空気。雨で洗われた大地がかすかに光っていた。
***
執務室の前に立つと、扉の向こうから話し声が聞こえた。
「……彼女に直接会いたい、と?」
低い声はレオンのものだ。
それに続いて、使者の静かな声が応える。
「はい。王太子殿下よりの伝言です。どうか一言でも構いません。元婚約者として伝わる言葉をお預かりしたいと。」
沈黙。
しばらく経って、レオンがゆっくりと息を吐く音がした。
「それを、本人が聞く義務はない。」
「それでも、お言葉だけでも――」
その瞬間、アイリスは扉を開いた。
「必要ありません。」
部屋中の視線がこちらに向かう。
驚きを隠せない王都の使者の顔。
そして、彼がいる。
静かな眼差しでこちらを見ているのはレオンだった。
「グレイス……」
「わたしに伝えることがあるなら、今ここで伺います。」
毅然とした声でそう告げると、使者が小さく頷いた。
「殿下のお言葉を、そのままお伝えします。――“幸せであることを願っている。それだけは、信じてほしい”」
それだけを残して、使者は頭を下げた。
沈黙が落ちる。
胸の奥で、かつての痛みがふっと溶けていくのを感じた。
怒りも悲しみもなく、ただ遠い昔の出来事として胸の奥に沈んでいく。
「ありがとう。」
アイリスは静かに言葉を落とす。
「殿下にも、同じようにお伝えください。――“どうか、貴方もお幸せに”と。」
使者は息を飲み、深く頭を下げて去って行った。
ドアが閉まる音が聞こえた瞬間、足から力が抜ける。
けれど倒れはしなかった。
温かい腕が、しっかりと支えてくれていた。
「……無理をするな。」
「公爵様……」
「見事だった。お前にしか言えぬ言葉だった。」
その言葉が胸を包み、ようやく緊張がほどけた。
ほんの僅かに、頬に涙がこぼれた。
レオンは無言でそれを指先で拭い、低く囁いた。
「泣くな、グレイス。お前の涙に意味を与えるのは俺だけでいい。」
その声音の優しさに、胸が高鳴る。
言葉もなくただ、頷くことしかできなかった。
***
翌日。
久しぶりに屋敷には穏やかな空気が戻った。
文官たちも笑い、子どもたちが温室で花の世話をしている。
グレイスはその中心に立ち、作業を指導していた。
幼い少女が云った。
「グレイス様、きょうは顔が明るいね!」
「そう見えるかしら?」
「うん! 昨日まで、ちょっとだけ難しい顔してた!」
その言葉に思わず笑ってしまう。
「そうね、もう大丈夫。これからは笑っていられると思うの。」
その笑顔は、自分でも驚くほど自然だった。
いつから自分がこんな風に笑えなくなっていたのだろう。
頬に触れる風がやわらかく、光がまぶしい。
リーナが嬉しそうに言った。
「グレイス様の笑顔、久しぶりに見ました。前よりずっと美しいです。」
「ふふ、そう言われると照れるわ。」
その光景を、遠くから静かに見ている影があった。
レオン公爵だった。
彼は屋敷の廊下からその様子を眺め、微かに口元を緩めた。
「……ようやく笑ったな。」
執務室に戻ると、いつもより書類をめくる手が軽く感じる。
彼女の笑い声が屋敷に響くたびに、この場所が本物の“家”のように思えた。
副官の老人がぽつりと呟く。
「閣下、春は良いものですな。」
「ああ、少なくとも、悪くはない。」
そんな些細なやり取りに、自分でも驚く。
かつて戦場を渡り歩いた自分が、今はこの穏やかな時間を守りたいと思っている。
彼女がもたらした変化は、確実にこの屋敷の在り方を変えていた。
***
数日後の午前、グレイスはレオンの執務室を訪ねた。
ノックをすると、すぐに「入れ」という声。
彼の机の上には新しい報告書が山積みになっていた。
「公爵様、新しい収支記録が届きましたので確認に参りました。」
「ここに置け。……ああ、その前に。」
レオンは手を止め、ゆっくりと立ち上がる。
「グレイス、お前に見せたいものがある。」
訝しむような視線を受けながら、彼は棚の奥から一枚の表紙を取り出した。
それは革張りの分厚い帳簿のようなもの――しかし、中央に刻まれていた文字を見た瞬間、息が止まる。
“アルドレッド領 統制記録書 第1年版
補佐官 アイリス・グレイス監修”
「これ……」
「正式に印を押した。お前の名を領の歴史に刻む。」
「そ、そんな、わたしはただの――」
「ただ、ではない。お前だからこそ成し得たことだ。」
彼の声に、胸がいっぱいになる。
これまでの努力、過去の痛み、すべてが報われた気がした。
気づけば涙がこぼれ、慌てて目を押さえる。
「……また泣くのか。」
「もう、止めようと思っても止められなくて……」
レオンが一歩近づき、手を伸ばす。
その親指が頬の涙を拭った。
「お前は泣いても美しい。
だが、今日の笑顔はそれよりもずっと価値がある。
だから、笑え。」
言葉の奥の優しさに、微笑むしかなかった。
心から、何も隠さずに。
「……はい、公爵様。」
夕方、陽が傾きはじめるころ、彼女は温室の扉を開ける。
見上げれば、空は茜に染まり、淡い風が花々を撫でていた。
かつて閉ざしていた世界が、今は色づいている。
そのすべてをこの場所で感じながら、彼の言葉が胸に残っていた。
――笑え。
それは命令ではなく、ひとつの願い。
そして、彼女にとっての新たな約束だった。
(第14話 初めての笑顔 了)
夜の雨が上がり、草葉に水滴が輝いている。
そんな中、アイリス――いや、“グレイス”はいつもより早く目を覚ました。
王都からの使者が到着したと報せを受けたのは、昨夜のことだった。
もう逃げはしないと決めた。
それでも胸の奥で小さな不安の種がじりじりと芽を出していた。
リーナが心配そうに覗き込む。
「グレイス様、本当にお一人で向かわれるのですか? 公爵様にお任せしても……」
「いいえ。もう誰かに守ってもらうばかりの自分ではいたくないの。今度こそ、ちゃんと会話をして終わらせたいの。」
その声には迷いがなかった。
彼女は微笑むと、支度を終えて屋敷を出る。
外は透き通るような空気。雨で洗われた大地がかすかに光っていた。
***
執務室の前に立つと、扉の向こうから話し声が聞こえた。
「……彼女に直接会いたい、と?」
低い声はレオンのものだ。
それに続いて、使者の静かな声が応える。
「はい。王太子殿下よりの伝言です。どうか一言でも構いません。元婚約者として伝わる言葉をお預かりしたいと。」
沈黙。
しばらく経って、レオンがゆっくりと息を吐く音がした。
「それを、本人が聞く義務はない。」
「それでも、お言葉だけでも――」
その瞬間、アイリスは扉を開いた。
「必要ありません。」
部屋中の視線がこちらに向かう。
驚きを隠せない王都の使者の顔。
そして、彼がいる。
静かな眼差しでこちらを見ているのはレオンだった。
「グレイス……」
「わたしに伝えることがあるなら、今ここで伺います。」
毅然とした声でそう告げると、使者が小さく頷いた。
「殿下のお言葉を、そのままお伝えします。――“幸せであることを願っている。それだけは、信じてほしい”」
それだけを残して、使者は頭を下げた。
沈黙が落ちる。
胸の奥で、かつての痛みがふっと溶けていくのを感じた。
怒りも悲しみもなく、ただ遠い昔の出来事として胸の奥に沈んでいく。
「ありがとう。」
アイリスは静かに言葉を落とす。
「殿下にも、同じようにお伝えください。――“どうか、貴方もお幸せに”と。」
使者は息を飲み、深く頭を下げて去って行った。
ドアが閉まる音が聞こえた瞬間、足から力が抜ける。
けれど倒れはしなかった。
温かい腕が、しっかりと支えてくれていた。
「……無理をするな。」
「公爵様……」
「見事だった。お前にしか言えぬ言葉だった。」
その言葉が胸を包み、ようやく緊張がほどけた。
ほんの僅かに、頬に涙がこぼれた。
レオンは無言でそれを指先で拭い、低く囁いた。
「泣くな、グレイス。お前の涙に意味を与えるのは俺だけでいい。」
その声音の優しさに、胸が高鳴る。
言葉もなくただ、頷くことしかできなかった。
***
翌日。
久しぶりに屋敷には穏やかな空気が戻った。
文官たちも笑い、子どもたちが温室で花の世話をしている。
グレイスはその中心に立ち、作業を指導していた。
幼い少女が云った。
「グレイス様、きょうは顔が明るいね!」
「そう見えるかしら?」
「うん! 昨日まで、ちょっとだけ難しい顔してた!」
その言葉に思わず笑ってしまう。
「そうね、もう大丈夫。これからは笑っていられると思うの。」
その笑顔は、自分でも驚くほど自然だった。
いつから自分がこんな風に笑えなくなっていたのだろう。
頬に触れる風がやわらかく、光がまぶしい。
リーナが嬉しそうに言った。
「グレイス様の笑顔、久しぶりに見ました。前よりずっと美しいです。」
「ふふ、そう言われると照れるわ。」
その光景を、遠くから静かに見ている影があった。
レオン公爵だった。
彼は屋敷の廊下からその様子を眺め、微かに口元を緩めた。
「……ようやく笑ったな。」
執務室に戻ると、いつもより書類をめくる手が軽く感じる。
彼女の笑い声が屋敷に響くたびに、この場所が本物の“家”のように思えた。
副官の老人がぽつりと呟く。
「閣下、春は良いものですな。」
「ああ、少なくとも、悪くはない。」
そんな些細なやり取りに、自分でも驚く。
かつて戦場を渡り歩いた自分が、今はこの穏やかな時間を守りたいと思っている。
彼女がもたらした変化は、確実にこの屋敷の在り方を変えていた。
***
数日後の午前、グレイスはレオンの執務室を訪ねた。
ノックをすると、すぐに「入れ」という声。
彼の机の上には新しい報告書が山積みになっていた。
「公爵様、新しい収支記録が届きましたので確認に参りました。」
「ここに置け。……ああ、その前に。」
レオンは手を止め、ゆっくりと立ち上がる。
「グレイス、お前に見せたいものがある。」
訝しむような視線を受けながら、彼は棚の奥から一枚の表紙を取り出した。
それは革張りの分厚い帳簿のようなもの――しかし、中央に刻まれていた文字を見た瞬間、息が止まる。
“アルドレッド領 統制記録書 第1年版
補佐官 アイリス・グレイス監修”
「これ……」
「正式に印を押した。お前の名を領の歴史に刻む。」
「そ、そんな、わたしはただの――」
「ただ、ではない。お前だからこそ成し得たことだ。」
彼の声に、胸がいっぱいになる。
これまでの努力、過去の痛み、すべてが報われた気がした。
気づけば涙がこぼれ、慌てて目を押さえる。
「……また泣くのか。」
「もう、止めようと思っても止められなくて……」
レオンが一歩近づき、手を伸ばす。
その親指が頬の涙を拭った。
「お前は泣いても美しい。
だが、今日の笑顔はそれよりもずっと価値がある。
だから、笑え。」
言葉の奥の優しさに、微笑むしかなかった。
心から、何も隠さずに。
「……はい、公爵様。」
夕方、陽が傾きはじめるころ、彼女は温室の扉を開ける。
見上げれば、空は茜に染まり、淡い風が花々を撫でていた。
かつて閉ざしていた世界が、今は色づいている。
そのすべてをこの場所で感じながら、彼の言葉が胸に残っていた。
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