婚約破棄された令嬢は、幸せになると決めました~追放先で出会った冷徹公爵が、なぜか溺愛してくる件~

sika

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第20話 忘れられない人がいる

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翌朝、雨上がりの庭に柔らかな光が差し込んでいた。  
夜のうちに降った雨が草木を洗い、花弁に小さな雫を載せて輝いている。  
その光景はまるで、世界が新しく生まれ変わったようだった。  

グレイスはその庭を見つめながら、心の内を鎮めようとしていた。  
昨夜のことが、まだ胸の奥で熱を帯びている。  
公爵の手が頬に触れた感触。  
「離れることなど、考えていない」――あの言葉が、何度も蘇った。  

感じてはいけないと思えば思うほど、心は彼に向かってしまう。  
この想いをどうすればいいのか分からない。  
それが嬉しくて、同時に怖かった。  

「グレイス様?」  
背後から呼びかける声。  
リーナが小走りで近づいてくる。  
「お手紙が届いております。」  
「手紙?」  

差し出された封書には、見覚えのある印章が押されていた。  
それは、王都の友人――リュシアンの妹である、第二王女エレナの印だった。  

胸の奥で、古い記憶の扉が軋む音を立てた。  

***  

部屋に戻り、深呼吸をしてから封を切る。  
中には短い文面が丁寧な筆致で記されていた。  

“親愛なるアイリスへ――  
あなたが今どこにいるのか、ようやく知りました。  
兄がどれほど悔やんでいるか、私には痛いほどわかります。  
けれど、それでも私は訊きたい。  
貴方にとって兄は、今も“憎むべき人”なのでしょうか?  
もし許せる日が来るのなら、ぜひ教えてください。  
それが兄にとって、すべての救いになるはずです。  
そして、あなたが幸せでありますように。 エレナ”  

手が震えた。  
優しい言葉なのに、胸の奥が痛い。  
もう王都には未練などないと思っていた。  
なのに、あの家族の顔が脳裏に蘇る。  

リュシアンが幼い頃に見せた笑顔。  
エレナが涙を浮かべて「お姉さま」と呼んでくれた日。  
それらの思い出が、痛みと共に蘇ってきた。  

「……わたしは、もう戻らない。」  
小さく呟くが、声が震える。  

「兄を許してほしい」という彼女の願いは理解できた。  
けれど、許すことと、過去に戻ることは違う。  
あの頃の自分をもう一度呼び返すことなどできない。  

一度すべてを失って、そしてようやく拾い上げた新しい居場所。  
それを捨てるつもりはなかった。  

けれど――。  

心の奥にひっかかるのは、レオンのあの言葉だ。  
「誰と生きたいか、それがすべてだ。」  
誰かを許すことも、愛することも、結局は“生きる”ことの一部なのかもしれない。  

自分は本当に、あの過去を乗り越えられたのだろうか。  

***  

昼になり、屋敷に戻ったレオンは疲れた様子で靴の泥を払っていた。  
彼の姿を見て、グレイスはふいに微笑む。  
あれほど険しかった顔が、今は少しだけ柔らかい。  
まるで氷が溶けていくように。  

「お帰りなさいませ、公爵様。」  
「戻った。……何かあったか?」  
「王都から手紙が届きました。」  
「王都? 再び使者か?」  
「いえ、王女殿下からでした。おそらく……殿下のご意向でもあるのでしょう。」  

表情が固くなる。  
レオンは椅子に座り、黙って続きを待った。  
グレイスは悩みながらも、手紙の内容を簡潔に伝えた。  
読み終えた後、彼はしばらく何も言わなかった。  

やがて、低く呟く。  
「許す、か。」  
「はい。」  
「お前はどうしたい?」  
「……分かりません。ただ、彼女の気持ちは痛いほど伝わってきます。」  

レオンの視線が、静かに彼女を射抜いた。  
「過去を背負うのは、生きる上で避けられぬことだ。  
だが、その過去に支配されるな。もう“殿下の婚約者”ではなく、“グレイス”として生きているんだから。」  

「……はい。」  
「それでも迷うなら、手紙を書け。」  
「手紙を……?」  
「ああ。許すか許さぬかは別として、お前の言葉で終わりを告げるんだ。」  

レオンの声は静かだったが、その瞳には確かな強さがあった。  

***  

その夜、グレイスは机に向かった。  
ペンを取り、白紙を前にしばらく筆先を動かせずにいた。  
しかしやがて、震える手で文字を綴りはじめた。  

“親愛なるエレナ王女殿下へ。  
お手紙をありがとうございます。  
わたしはもう、殿下のことを恨んではおりません。  
ですが、過去を思い出すたびに、胸の奥に小さな痛みが残ります。  
たった一人の自分を信じてもらえなかった、その痛みがまだ消えません。  
けれど今は、その痛みさえも含めて自分の人生だと思えるようになりました。  
殿下には殿下の道が、わたしにはわたしの新しい道があります。  
だから、もう二度と悲しむ必要はありません。  
どうかお兄様にもお伝えください。  
“心からお幸せを祈っています”と。”  

最後の一文字を書き終えたとき、涙が零れた。  
けれどそれは悲しみではなく、穏やかな解放の涙だった。  
長い時間、心の奥に絡まっていた鎖が外れる感覚。  

翌朝、その手紙は小さな封筒に入れられ、王都行きの商隊に託された。  

***  

昼下がり。  
レオンは執務室の窓から外を眺めていた。  
庭ではグレイスが子どもたちと花を植えている。  
その表情は、まるで昨日までの迷いが嘘のように穏やかだった。  

副官が報告書を差し出す。  
しかし、レオンは微笑を浮かべながら視線を窓に戻す。  
「ようやく、過去と決着をつけたようだな。」  
「というと?」副官が首をかしげる。  
「風が変わった。この屋敷も、ようやく春を迎えたということだ。」  

夕方、グレイスが書類を持って執務室を訪ねたとき、彼は珍しく笑った。  
「どうしたのですか?」と問いかけると、レオンは静かに首を振る。  
「何でもない。ただ、お前の顔を見たらそれでいいと思った。」  
「……公爵様?」  
「忘れられない人が誰であれ、今お前の目が俺を見ている。それだけで充分だ。」  

頬が熱を帯び、息が詰まりそうになる。  
昨夜のような言葉ではない。  
けれど、その一言で彼女の心は完全に満たされた。  

「これからも、この領を……そして貴方と共に歩いていきます。」  
「その言葉、聞き届けた。」  

レオンの瞳に映る灯が、再び彼女を包む。  
そしてその夜、二人は同じ月を見ながら、  
互いの過去を赦し、新しい未来を信じる決意を胸に刻んだ。  

(第20話 忘れられない人がいる 了)
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