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第3話 差し伸べられた手
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翌朝、雨が降った。
まるで夜の涙を洗い流すように、静かな雨音が屋敷の屋根を叩いている。
クロエは窓辺に立ち、湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
昨日まで胸を締めつけていた痛みが、雨に溶けて少しずつ軽くなっていく気がした。
しとしとと降る雨の向こう、庭の薔薇たちは花弁を濡らしながらも、揺らめく葉の下でしっかりと根を張っていた。
それを見て、クロエはふと思う。
――私も、もう一度、根を張らなくては。
扉をノックする音がした。
侍女のリディアが顔を覗かせる。
「お嬢様、本日はお加減いかがですか? 食事をお持ちいたしました。」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう。」
「よかった……。実は、伯爵様からお話がございます。書斎へお越しくださいとのことでした。」
クロエは一瞬だけ戸惑った。
このタイミングで父に呼ばれる理由……それはたぶん、今後のこと。
婚約破棄の後、家としてどう立ち回るべきか。
心のどこかで覚悟していた話だ。
軽く頬を整え、グレーのドレスに身を包んで書斎へ向かう。
そこには父のラーングレー伯爵と、母エリサ夫人が並んで座っていた。
二人の顔には、疲労と、それでも娘を案じる優しさがにじんでいた。
「クロエ」
伯爵は重々しく口を開く。
「この数日で、婚約破棄の噂はかなり広まりつつある。社交界は残酷だ。君のことを好奇の目で見下ろす者もいるだろう。」
「承知しておりますわ。」
「だが、我々としてはこのまま君を閉じ込めておくことはできない。君の努力と品位は誰よりも確かなものだ。だからこそ、これからは君自身の力で新たな居場所を探してほしい。」
新たな居場所――その言葉が静かに胸に落ちた。
伯爵はさらに続ける。
「王太子殿下の宮廷で、侍女を新たに募っていると聞いた。政治や礼法に通じた人物が求められている。君なら十分に務まるだろう。」
「王太子殿下の……侍女、ですか?」
「そうだ。貴族令嬢であれば制限はあるが、婚約破棄によって社交の場を離れた君なら受け入れられるはずだ。もちろん、無理にとは言わない。」
母のエリサがそっとクロエの手を握った。
「あなたがまた笑って過ごせる場所を、見つけてほしいの。家も、私たちもあなたを誇りに思っているわ。」
クロエはしばらく黙って雨音を聞いていた。
そして小さく息を吸い、静かに微笑んだ。
「……行かせてください。私、自分の力で立ちたいんです。」
「そうか。」
父は短く頷き、娘の決意を受け止めたように目を細めた。
準備はすぐに整えられた。
翌朝には王都の王城へ出向く手筈が整い、クロエは侍女としての正式な登用試験を受けることとなった。
彼女は自室に戻り、立ち並ぶ本棚を眺めた。そこには、これまでの努力と勉学の証――礼法、政治学、詩、舞踏、歴史。幼い頃からの積み重ねが詰まっている。
婚約破棄によってすべてを否定されたように感じていたが、違う。
それらは、彼女自身の誇りであり、生きる武器でもあった。
「努力が、私を苦しめたのではない……。努力を愛してくれない人を選んでいた、それだけのこと。」
鏡に映る自分にそう言ってみると、不思議と胸がすっと軽くなった。
日が沈むころ、小雨が上がり、王都の空に虹がかかった。
明日への不安とわずかな期待を抱きながら、クロエは旅支度を整えた。
翌朝、馬車に揺られながら王城の門前に着くと、荘厳な建物が目の前に立ち上がっていた。
今まで社交界の舞踏会で見たことは何度もあったが、侍女として訪れるのは初めてだ。
貴族の娘ではなく、ひとりの“働く令嬢”として足を踏み入れる――その緊張が胸を打つ。
侍女長エリーヌに挨拶を済ませ、書類の確認や所作の試験を受けた。
厳しくも理知的な彼女の指導の下、クロエはひとつひとつを丁寧にこなしていく。
積み重ねてきた礼法が、ここで生かされる。
午後、最終の試験――王太子の側近との質疑応答が行われる予定だった。
「緊張している?」と隣で声をかけてきたのは、試験を受ける他の志願者――明るい瞳の令嬢、マリアンヌだ。
「ええ、少しだけ。でも頑張ります。」
「わたしも! でも貴女なら大丈夫そう。すごく落ち着いているもの。」
マリアンヌの無邪気な笑顔に、クロエもつい微笑んでしまう。
心を張り詰めていたのが、わずかにほどけた。
一方そのころ、王太子ノエルは城内の一室で報告を受けていた。
「殿下、本日の侍女登用試験、とくに推薦のあったラーングレー伯爵令嬢が参加しております。」
「ラーングレー……クロエ・ラングレーか。」
ノエルはわずかに目を細めた。
あの夜橋で出会った女性。まさか王城で再会することになるとは想像もしなかった。
心の中でふっと笑みが漏れる。
彼女のあの真っ直ぐな瞳が、強く印象に残っていた。
試験室にクロエが入ると、前に三人の面接官がいた。
その中央に座っていた若い男性の横顔を見た瞬間、クロエの足が止まった。
「……ノエル、様?」
声が小さく漏れる。彼は薄く笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「お久しぶりですね、クロエ嬢。まさかこんな形で再会できるとは。」
今度のノエルの服装は、旅人ではなく、明らかに王族のそれだった。
高貴な紋を金糸で縫い取った黒の制服、肩には王家の紋章を示す記章。
驚きで息が詰まる。まさか昨夜、あの穏やかで優しかった青年が王太子だったなんて――。
「……殿下でいらっしゃいましたのね。」
「はい。そして、あなたがこの試験を受けに来るとは驚きました。」
場にいた他の面接官が一瞬視線を交わすが、ノエルはそれを気にせず和やかに続けた。
「どうぞ、座ってください。質問を始めましょう。」
面接は淡々と進んだ。
侍女としての適性、礼儀、危機時の対応――どれもクロエは落ち着いて答えた。
ときどきノエルが目を細めて頷く。その穏やかな肯定に、胸の奥が温かくなる。
たぶん、あの夜の言葉が彼女に勇気をくれたのだ。
試験が終わり、部屋を出ようとしたとき、ノエルの声が追いかけてきた。
「クロエ嬢。」
彼女が振り向くと、彼は一歩前に進み、ほんの少し真剣な眼差しを見せた。
「あなたは、自分を縛るものから解き放たれようとしている。その強さを、私は誇りに思います。」
「……殿下。」
「もし、困ったことがあったらいつでも頼りなさい。あなたの努力を正しく見てくれる人間は、きっとここにもいる。」
その言葉が胸に染み、クロエは深く一礼した。
「ありがとうございます。私、王城で恥じぬよう努めます。」
「ええ、期待しています。」
柔らかな笑みとともにノエルが頷く。
その瞬間、クロエははっきりと感じた。
“わたしを見てくれる人がいる”と。
夕暮れ、結果はすぐに伝えられた。
クロエ・ラングレー、王太子付き侍女として正式採用――。
書面の文字を見つめながら、胸に熱いものが込み上げた。
父と母に報告すれば、きっと安心してくれるだろう。
だが今はそれよりも、この新しい一歩の重さを噛みしめたかった。
あの夜の涙の跡はもうない。
努力を笑う者の代わりに、努力を認めてくれる人がいる。
その事実は何よりも彼女を強くした。
「ありがとう、ノエル様……いえ、殿下。」
窓の外に滲む夕陽に向かって、クロエは小さく呟いた。
過去の痛みの代わりに、胸の奥に新しい光が灯る。
それは、誰にも壊せない自分の誇り。
そして、これから始まる物語の確かな鼓動だった。
続く
まるで夜の涙を洗い流すように、静かな雨音が屋敷の屋根を叩いている。
クロエは窓辺に立ち、湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
昨日まで胸を締めつけていた痛みが、雨に溶けて少しずつ軽くなっていく気がした。
しとしとと降る雨の向こう、庭の薔薇たちは花弁を濡らしながらも、揺らめく葉の下でしっかりと根を張っていた。
それを見て、クロエはふと思う。
――私も、もう一度、根を張らなくては。
扉をノックする音がした。
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「ええ、大丈夫よ。ありがとう。」
「よかった……。実は、伯爵様からお話がございます。書斎へお越しくださいとのことでした。」
クロエは一瞬だけ戸惑った。
このタイミングで父に呼ばれる理由……それはたぶん、今後のこと。
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心のどこかで覚悟していた話だ。
軽く頬を整え、グレーのドレスに身を包んで書斎へ向かう。
そこには父のラーングレー伯爵と、母エリサ夫人が並んで座っていた。
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「クロエ」
伯爵は重々しく口を開く。
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「承知しておりますわ。」
「だが、我々としてはこのまま君を閉じ込めておくことはできない。君の努力と品位は誰よりも確かなものだ。だからこそ、これからは君自身の力で新たな居場所を探してほしい。」
新たな居場所――その言葉が静かに胸に落ちた。
伯爵はさらに続ける。
「王太子殿下の宮廷で、侍女を新たに募っていると聞いた。政治や礼法に通じた人物が求められている。君なら十分に務まるだろう。」
「王太子殿下の……侍女、ですか?」
「そうだ。貴族令嬢であれば制限はあるが、婚約破棄によって社交の場を離れた君なら受け入れられるはずだ。もちろん、無理にとは言わない。」
母のエリサがそっとクロエの手を握った。
「あなたがまた笑って過ごせる場所を、見つけてほしいの。家も、私たちもあなたを誇りに思っているわ。」
クロエはしばらく黙って雨音を聞いていた。
そして小さく息を吸い、静かに微笑んだ。
「……行かせてください。私、自分の力で立ちたいんです。」
「そうか。」
父は短く頷き、娘の決意を受け止めたように目を細めた。
準備はすぐに整えられた。
翌朝には王都の王城へ出向く手筈が整い、クロエは侍女としての正式な登用試験を受けることとなった。
彼女は自室に戻り、立ち並ぶ本棚を眺めた。そこには、これまでの努力と勉学の証――礼法、政治学、詩、舞踏、歴史。幼い頃からの積み重ねが詰まっている。
婚約破棄によってすべてを否定されたように感じていたが、違う。
それらは、彼女自身の誇りであり、生きる武器でもあった。
「努力が、私を苦しめたのではない……。努力を愛してくれない人を選んでいた、それだけのこと。」
鏡に映る自分にそう言ってみると、不思議と胸がすっと軽くなった。
日が沈むころ、小雨が上がり、王都の空に虹がかかった。
明日への不安とわずかな期待を抱きながら、クロエは旅支度を整えた。
翌朝、馬車に揺られながら王城の門前に着くと、荘厳な建物が目の前に立ち上がっていた。
今まで社交界の舞踏会で見たことは何度もあったが、侍女として訪れるのは初めてだ。
貴族の娘ではなく、ひとりの“働く令嬢”として足を踏み入れる――その緊張が胸を打つ。
侍女長エリーヌに挨拶を済ませ、書類の確認や所作の試験を受けた。
厳しくも理知的な彼女の指導の下、クロエはひとつひとつを丁寧にこなしていく。
積み重ねてきた礼法が、ここで生かされる。
午後、最終の試験――王太子の側近との質疑応答が行われる予定だった。
「緊張している?」と隣で声をかけてきたのは、試験を受ける他の志願者――明るい瞳の令嬢、マリアンヌだ。
「ええ、少しだけ。でも頑張ります。」
「わたしも! でも貴女なら大丈夫そう。すごく落ち着いているもの。」
マリアンヌの無邪気な笑顔に、クロエもつい微笑んでしまう。
心を張り詰めていたのが、わずかにほどけた。
一方そのころ、王太子ノエルは城内の一室で報告を受けていた。
「殿下、本日の侍女登用試験、とくに推薦のあったラーングレー伯爵令嬢が参加しております。」
「ラーングレー……クロエ・ラングレーか。」
ノエルはわずかに目を細めた。
あの夜橋で出会った女性。まさか王城で再会することになるとは想像もしなかった。
心の中でふっと笑みが漏れる。
彼女のあの真っ直ぐな瞳が、強く印象に残っていた。
試験室にクロエが入ると、前に三人の面接官がいた。
その中央に座っていた若い男性の横顔を見た瞬間、クロエの足が止まった。
「……ノエル、様?」
声が小さく漏れる。彼は薄く笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「お久しぶりですね、クロエ嬢。まさかこんな形で再会できるとは。」
今度のノエルの服装は、旅人ではなく、明らかに王族のそれだった。
高貴な紋を金糸で縫い取った黒の制服、肩には王家の紋章を示す記章。
驚きで息が詰まる。まさか昨夜、あの穏やかで優しかった青年が王太子だったなんて――。
「……殿下でいらっしゃいましたのね。」
「はい。そして、あなたがこの試験を受けに来るとは驚きました。」
場にいた他の面接官が一瞬視線を交わすが、ノエルはそれを気にせず和やかに続けた。
「どうぞ、座ってください。質問を始めましょう。」
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あの夜の涙の跡はもうない。
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