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第5話 王都の花の下で
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春の終わりを告げる風が王都の街路を吹き抜け、城の庭園にも甘やかな花の香りを運んできた。
その朝、クロエはいつもより少し早く目を覚ました。
薄紅色に染まる空の下、窓辺から見える庭園には、淡い藤の花が垂れ下がり、露に光っていた。
朝日を受けてきらめくその光景は、まるで新しい季節が彼女を迎えてくれているように見えた。
王太子ノエルに仕える生活も、ようやく一週間が過ぎようとしていた。
最初は緊張の連続だったが、いまでは王城の空気にも少しずつ慣れてきた。
侍女として働くクロエの姿は、ほかの侍女たちのあいだでも少しずつ知られるようになっていた。
「ラーングレー伯爵令嬢」としてではなく、「王太子付きの侍女、クロエ」として。
この朝は、王太子が城下へ視察に出る予定となっていた。
同行する侍女の中に、クロエの名も含まれている。
王族の外出に同行するのは重要な役目であり、信頼を得た者しか任されない。
少しの不安と、ほんの少しの高揚感を胸に、クロエは支度を整えた。
王城の厩舎前で、すでにノエルは出発の準備を整えていた。
豪奢なわけではないが、王族らしい品のある衣をまとい、白馬に手を添えているその姿は人々の目を引いた。
「おはようございます、殿下。」
クロエが挨拶すると、ノエルは振り向き、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「おはようございます、クロエ嬢。今日の風は心地良いですね。視察というより、散歩になりそうだ。」
「それは良いことですわ。外の空気を感じることは、どんな方にとっても必要なことですから。」
「そうですね。……あなたのような人がそばにいると、空気まで柔らかくなる気がします。」
それは何気ない一言だったが、クロエの胸には温かく残る。
彼の言葉はいつも自然で、けれど心の奥に届く不思議な優しさを持っていた。
馬車に乗り込み、王都の石畳を進むと、沿道には朝市の人々が行き交い、色とりどりの花や果物が並んでいた。
「久しぶりにこの風景を見ました。」
ノエルが窓の外を眺めながら呟く。
「王族であっても、外の空気を知ることは必要です。民の暮らしを知ってこそ、国を導けますから。」
クロエの言葉に、ノエルはわずかに目を細めた。
「あなたは本当に真面目ですね。……けれど、その真面目さを笑う者もいたでしょう?」
クロエは少し口を閉ざす。
「……ええ。ですがそれも過去のこと。今では、この考え方を笑う人がいない場所にいると実感しています。」
「それは良いことです。ここでは、あなたの努力も信念も、価値を持つ。」
静かな会話の中で、クロエは気づいた。
彼が自然とそう言ってくれるたび、胸の奥の傷が確かに和らいでいく。
まるで、失われた自信を少しずつ取り戻していくように。
やがて馬車は王都郊外の花園通りに到着した。
広場では季節の花が咲き乱れ、露店では子供たちが笑顔で花飾りを売っている。
王太子の視察とはいえ、今日は見学と民との交流が目的のようで、護衛たちも控えめに周囲を固めていた。
クロエが辺りの装飾品を見ていると、小さな少女が駆け寄ってきた。
「お姉さん、これ、あげる!」
差し出されたのは赤い小花で編んだ指輪。まだ器用とは言い難い仕上がりだったが、子供らしい温もりがあった。
「まあ、ありがとう。あなたが作ったの?」
「うん! お姉さん、すごく綺麗だから。」
その無邪気な言葉にクロエの頬が緩む。
「ありがとう、大切にするわ。」
そう言って受け取ると、少女は笑顔で走り去っていった。
そんな様子を遠くから見ていたノエルが歩み寄る。
「似合っていますよ。」
「え……?」
「その花の指輪です。子供の贈り物は、純粋な心の証です。きっと幸せを呼びますよ。」
「……ふふ、そうだといいですね。」
クロエの笑顔にノエルも微かに笑い返す。
二人の間に流れる穏やかな空気が、春の柔らかな風のように心地良かった。
その後、ノエルは広場で商人や花職人たちと言葉を交わし、民の声を丁寧に聞いた。
王族でありながら、彼には威圧的な気配がない。
誰に対しても自然体で、相手の目線に下りて話す姿に、クロエは思わず見惚れていた。
――この人が王太子であることを、誰もが誇りに思うに違いない。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
昼下がり、視察が終わるとノエルはふと足を止めた。
「少し歩きましょうか。ここの並木道は王都で一番好きなんです。」
「はい。」
二人で歩く並木道は、花の香りと鳥のさえずりに満ちていた。
木漏れ日がクロエの髪に落ち、淡く光を宿している。
その横顔を見つめながら、ノエルは穏やかな声で言う。
「クロエ嬢、あなたは本当に変わった。」
「変わった……?」
「最初に会った夜のあなたは、悲しみで自分を責めていた。でも今は、まるで花のように力強く咲いている。」
「……殿下のおかげです。あの夜、声をかけていただけなかったら、私はきっと立ち上がれませんでした。」
「それは違います。あなたが立ち上がったのは自分の意志です。私はただ、少し背中を押しただけですよ。」
クロエはその言葉に、胸の奥が熱くなる。
どこかで“助けられた”と思っていた。けれど、ノエルは決して彼女を弱い存在として扱わない。
彼にとってクロエは、自分の力で立つひとりの人間なのだ。
そのことが何よりも嬉しかった。
「ありがとうございます、殿下。」
ゆっくり頭を下げると、ノエルは目を細め、空を見上げた。
「この王都が、あなたのような人ばかりで満たされたら、きっと優しい国になるでしょうね。」
「……それは、殿下のお導きがあるからこそです。」
「そうかな。私はまだ、誰かの力を借りなければ何もできません。」
そう言って微笑む彼の眼差しには、王太子という立場ではなく、一人の青年としての素顔があった。
風が静かに吹き抜け、花びらが舞う。
クロエはその中に小さな祈りを込めるように、一輪の花を手に取った。
「この花のように、いつかこの国も穏やかに咲き続けますように。」
「ええ、きっとそうなります。君がいれば。」
一瞬、言葉が止まる。
ノエルも自分の口にした言葉に気づいたのか、軽く微笑を浮かべて誤魔化した。
「……君、というのは不適切でしたね。侍女に向かって。」
「いえ……嫌ではありませんでした。」
思わず少しだけ小さく答えてしまい、頬が熱を帯びる。
彼女の反応に、ノエルは目を見開き、それから柔らかく笑った。
「そう言ってもらえるなら、嬉しいです。」
夕日が街を黄金色に染めていく。
馬車に乗り込み城へ戻る頃、クロエの胸の奥には静かな確信があった。
――この出会いは偶然ではなかった。
昨日までの涙と孤独が、いまでは未来への道に変わっている。
王城という檻のような場所で、新しい芽が息づきはじめていた。
揺れる馬車の窓から差す光を受けながら、クロエはそっと小花の指輪を見つめた。
まだ解けかけの細い輪――けれど壊れてはいない。
彼女はその小さな輪に、これから咲かせる自分の未来を重ねて微笑んだ。
続く
その朝、クロエはいつもより少し早く目を覚ました。
薄紅色に染まる空の下、窓辺から見える庭園には、淡い藤の花が垂れ下がり、露に光っていた。
朝日を受けてきらめくその光景は、まるで新しい季節が彼女を迎えてくれているように見えた。
王太子ノエルに仕える生活も、ようやく一週間が過ぎようとしていた。
最初は緊張の連続だったが、いまでは王城の空気にも少しずつ慣れてきた。
侍女として働くクロエの姿は、ほかの侍女たちのあいだでも少しずつ知られるようになっていた。
「ラーングレー伯爵令嬢」としてではなく、「王太子付きの侍女、クロエ」として。
この朝は、王太子が城下へ視察に出る予定となっていた。
同行する侍女の中に、クロエの名も含まれている。
王族の外出に同行するのは重要な役目であり、信頼を得た者しか任されない。
少しの不安と、ほんの少しの高揚感を胸に、クロエは支度を整えた。
王城の厩舎前で、すでにノエルは出発の準備を整えていた。
豪奢なわけではないが、王族らしい品のある衣をまとい、白馬に手を添えているその姿は人々の目を引いた。
「おはようございます、殿下。」
クロエが挨拶すると、ノエルは振り向き、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「おはようございます、クロエ嬢。今日の風は心地良いですね。視察というより、散歩になりそうだ。」
「それは良いことですわ。外の空気を感じることは、どんな方にとっても必要なことですから。」
「そうですね。……あなたのような人がそばにいると、空気まで柔らかくなる気がします。」
それは何気ない一言だったが、クロエの胸には温かく残る。
彼の言葉はいつも自然で、けれど心の奥に届く不思議な優しさを持っていた。
馬車に乗り込み、王都の石畳を進むと、沿道には朝市の人々が行き交い、色とりどりの花や果物が並んでいた。
「久しぶりにこの風景を見ました。」
ノエルが窓の外を眺めながら呟く。
「王族であっても、外の空気を知ることは必要です。民の暮らしを知ってこそ、国を導けますから。」
クロエの言葉に、ノエルはわずかに目を細めた。
「あなたは本当に真面目ですね。……けれど、その真面目さを笑う者もいたでしょう?」
クロエは少し口を閉ざす。
「……ええ。ですがそれも過去のこと。今では、この考え方を笑う人がいない場所にいると実感しています。」
「それは良いことです。ここでは、あなたの努力も信念も、価値を持つ。」
静かな会話の中で、クロエは気づいた。
彼が自然とそう言ってくれるたび、胸の奥の傷が確かに和らいでいく。
まるで、失われた自信を少しずつ取り戻していくように。
やがて馬車は王都郊外の花園通りに到着した。
広場では季節の花が咲き乱れ、露店では子供たちが笑顔で花飾りを売っている。
王太子の視察とはいえ、今日は見学と民との交流が目的のようで、護衛たちも控えめに周囲を固めていた。
クロエが辺りの装飾品を見ていると、小さな少女が駆け寄ってきた。
「お姉さん、これ、あげる!」
差し出されたのは赤い小花で編んだ指輪。まだ器用とは言い難い仕上がりだったが、子供らしい温もりがあった。
「まあ、ありがとう。あなたが作ったの?」
「うん! お姉さん、すごく綺麗だから。」
その無邪気な言葉にクロエの頬が緩む。
「ありがとう、大切にするわ。」
そう言って受け取ると、少女は笑顔で走り去っていった。
そんな様子を遠くから見ていたノエルが歩み寄る。
「似合っていますよ。」
「え……?」
「その花の指輪です。子供の贈り物は、純粋な心の証です。きっと幸せを呼びますよ。」
「……ふふ、そうだといいですね。」
クロエの笑顔にノエルも微かに笑い返す。
二人の間に流れる穏やかな空気が、春の柔らかな風のように心地良かった。
その後、ノエルは広場で商人や花職人たちと言葉を交わし、民の声を丁寧に聞いた。
王族でありながら、彼には威圧的な気配がない。
誰に対しても自然体で、相手の目線に下りて話す姿に、クロエは思わず見惚れていた。
――この人が王太子であることを、誰もが誇りに思うに違いない。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
昼下がり、視察が終わるとノエルはふと足を止めた。
「少し歩きましょうか。ここの並木道は王都で一番好きなんです。」
「はい。」
二人で歩く並木道は、花の香りと鳥のさえずりに満ちていた。
木漏れ日がクロエの髪に落ち、淡く光を宿している。
その横顔を見つめながら、ノエルは穏やかな声で言う。
「クロエ嬢、あなたは本当に変わった。」
「変わった……?」
「最初に会った夜のあなたは、悲しみで自分を責めていた。でも今は、まるで花のように力強く咲いている。」
「……殿下のおかげです。あの夜、声をかけていただけなかったら、私はきっと立ち上がれませんでした。」
「それは違います。あなたが立ち上がったのは自分の意志です。私はただ、少し背中を押しただけですよ。」
クロエはその言葉に、胸の奥が熱くなる。
どこかで“助けられた”と思っていた。けれど、ノエルは決して彼女を弱い存在として扱わない。
彼にとってクロエは、自分の力で立つひとりの人間なのだ。
そのことが何よりも嬉しかった。
「ありがとうございます、殿下。」
ゆっくり頭を下げると、ノエルは目を細め、空を見上げた。
「この王都が、あなたのような人ばかりで満たされたら、きっと優しい国になるでしょうね。」
「……それは、殿下のお導きがあるからこそです。」
「そうかな。私はまだ、誰かの力を借りなければ何もできません。」
そう言って微笑む彼の眼差しには、王太子という立場ではなく、一人の青年としての素顔があった。
風が静かに吹き抜け、花びらが舞う。
クロエはその中に小さな祈りを込めるように、一輪の花を手に取った。
「この花のように、いつかこの国も穏やかに咲き続けますように。」
「ええ、きっとそうなります。君がいれば。」
一瞬、言葉が止まる。
ノエルも自分の口にした言葉に気づいたのか、軽く微笑を浮かべて誤魔化した。
「……君、というのは不適切でしたね。侍女に向かって。」
「いえ……嫌ではありませんでした。」
思わず少しだけ小さく答えてしまい、頬が熱を帯びる。
彼女の反応に、ノエルは目を見開き、それから柔らかく笑った。
「そう言ってもらえるなら、嬉しいです。」
夕日が街を黄金色に染めていく。
馬車に乗り込み城へ戻る頃、クロエの胸の奥には静かな確信があった。
――この出会いは偶然ではなかった。
昨日までの涙と孤独が、いまでは未来への道に変わっている。
王城という檻のような場所で、新しい芽が息づきはじめていた。
揺れる馬車の窓から差す光を受けながら、クロエはそっと小花の指輪を見つめた。
まだ解けかけの細い輪――けれど壊れてはいない。
彼女はその小さな輪に、これから咲かせる自分の未来を重ねて微笑んだ。
続く
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