元婚約者に冷たく捨てられた伯爵令嬢、努力が実って王太子の恋人に。今さら跪かれても遅いですわ!

sika

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第6話 隠された身分の真実

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王都視察の翌日。城内ではその余韻がしばらく残っていた。  
民と親しく言葉を交わす王太子ノエルの姿は、貴族たちの間でも話題になり、彼の人柄に対する評価はより一層高まった。  
その行事に同行した侍女――クロエ・ラングレーの名前も、王城の中で静かに囁かれるようになっていた。  

「殿下のそばに新しい侍女がついたらしい」「元伯爵令嬢だとか」「以前は婚約破棄されたとか」  
廊下の陰や食堂の片隅で、そんな噂がひそやかに飛び交っている。  
クロエ自身もその視線に気づいていたが、いちいち気にすることはなかった。  
彼女にとって必要なのは、過去を引きずることではなく、今を積み重ねることだった。  

その朝、クロエは侍女長エリーヌの指示で、王太子の執務用の書簡整理を任されていた。  
本棚を整理し、書状の封を確認しながら、クロエはふと一枚の封筒に目を留める。  
淡い金の封蝋に、見覚えのある紋章。  
――フェルナンド公爵家。  
息が止まりそうになった。彼女を捨てた元婚約者、ルシアンの実家の紋章。  
まさか王太子に直接書状を送っているとは。

「……殿下宛の公文書?」  
そう呟いた瞬間、背後から声が響いた。  
「どうかされましたか、クロエ嬢。」  
振り返ると、そこにノエルが立っていた。柔らかな笑みを浮かべているが、その眼はどこか探るような光を帯びていた。  

クロエはすぐに姿勢を正し、恭しく礼を取る。  
「おはようございます、殿下。公文書の整理をしておりました。」  
「ご苦労さま。……それは?」  
ノエルの視線が封書へ向かう。クロエは一瞬ためらったが、すぐに差し出した。  
「こちら、フェルナンド公爵家からの書状のようですわ。」  
「なるほど。」  
ノエルは封書を受け取り、封蝋を軽く指で弾いた。その瞬間、溶けるように蝋が消える――まるで魔術のように。  
クロエは息を呑む。殿下が封印解除の術式を使えるとは知らなかった。  

「殿下……そのようなことまで……。」  
「これも王族の務めです。公文の中には、他人任せにできない類のものもありますから。」  
ノエルは手紙を開き、静かに目を走らせる。表情は変わらないが、読み終えると小さくため息をついた。  
「……予想通り、ろくな内容ではありませんね。」  
「もしや、私のことが……?」  
クロエの胸が痛んだ。嫌な予感が確信に変わる。  
ノエルは一瞬だけ迷うような沈黙を置いたが、隠すような真似をせずに告げた。  
「あなたの名前が出ています。公爵家はあなたの“行動を監視している”との報告を寄せているようです。」  
「監視……!?」  
「彼らは、“伯爵令嬢クロエが王城で地位を得ようとしている”と吹聴している。裏では、あなたを利用して宮中で影響を及ぼそうとしている者もいるようです。」  

クロエは青ざめ、拳を握りしめた。  
婚約破棄だけでなく、彼らは彼女を貶めるために噂を流しているというのか。  
「ひどい……彼らはまだ私を許さないつもりなのですね。」  
「あなたは何も悪くない。だが、“善い者が傷つけられる”のがこの宮廷の現実です。」  
ノエルの声は静かだったが、その奥に強い怒りが隠れていた。  

「殿下は、どうなさるおつもりですか?」  
「簡単です。“本当に監視されているなら、監視させておけばいい”。真実を示すのは行いです。あなたが誠実に働く姿を見れば、いずれ宮廷中がその評価を変える。」  
「……殿下。」  
「それに、もしもの時は私が守ります。王太子としてだけでなく、一人の人間として。」

胸の奥が熱くなり、言葉が出なかった。  
守る――そのひと言が、あの婚約破棄の冷たい記憶を優しく包み込んでいく。  
彼は地位や義務でなく、純粋な心からそう言ってくれる。  
誰かを信じるという感情を、クロエは久しく忘れていた。  

「ありがとうございます、殿下。私……負けません。二度と誰かの言葉に怯えたりはしません。」  
「その意気です。」  
ノエルは微笑み、机の上の花瓶の水を替えたクロエの手元に視線を移した。  
「あなたの仕草は本当に丁寧ですね。まるで指先で空気さえ整えるようだ。」  
「ふふ……それは褒めすぎです。」  
「本心ですよ。」  

その穏やかな時間の中に、不意にノックの音が響く。  
「殿下、宰相閣下がお見えです。」  
ノエルは一瞬だけ表情を引き締めた。  
「分かりました。――クロエ嬢、少しの間、あの棚の記録を整理しておいてください。」  
「承知いたしました。」  

彼が部屋を出て行くと、静寂が広がる。  
クロエは残された文書を片付けながら、ふと机の片隅に小さな書冊を見つけた。  
それは、見覚えのない黒革の手帳だった。開いてはいけないとわかっていながら、ほんの一瞬の好奇心が指を動かす。  
――最初の頁に、見覚えのある紋章が刻まれていた。  
十年前、王国が北方戦に巻き込まれた際に使われた軍の符号。その下には王太子の署名。  
「……これは……」  

読み進めるにつれ、クロエの顔色が変わる。  
そこには、ノエルが王太子として公式に発表される以前、身分を隠して“他国との秘密会談”を行っていた記録が記されていた。  
彼は幼少期から国境近くの寄宿地で“ノエル・フェイ”という名を名乗り、民と生活しながら民の声を調べていた。  
――つまり、先の“旅人ノエル”の姿は偶然ではなかったのだ。  
あの夜、雨の橋で出会ったとき、彼は本当に自らの身分を隠していたのだ。  

「殿下は……ずっと、真実を隠しておられたのね。」  
驚愕と同時に、胸の奥に妙な納得が広がる。  
あのときの彼の優しさも、言葉の重みも、民を見てきた人間だからこそのものだった。  

だが、それは同時に危うい秘密だった。  
その記録が外部に漏れれば、王族としての立場を揺るがすほどの内容だ。  
クロエは迷いながらも手帳を閉じ、元の位置に戻した。  
――知らなかったことにする。  

だが、そのわずかな動作を、開いた扉の隙間から見られていたとは知らなかった。  
扉の向こうで目を光らせていたのは、ノエルではなく、別の影――宰相付きの役人だった。  
男は唇に薄い笑みを浮かべ、静かに去っていく。  

夕刻。  
ノエルが公務から戻ると、クロエはいつも通り穏やかに笑顔で迎えた。  
けれど彼女の心の奥では、ある決意が固まりつつあった。  
――殿下の秘密は、私が守る。  
それは忠義でも義務でもなかった。  
ただひとりの人間として、彼を傷つけさせないために。

ノエルはクロエの表情に少しの違和感を覚えた。  
「どうかしましたか? 少し顔色が優れないようですが。」  
「いえ、少し風に当たりすぎたのかもしれません。」  
「無理はしないでくださいね。あなたが倒れたら困ります。」  
彼の言葉に、クロエは小さく微笑んだ。  
「……ありがとうございます。殿下は本当に優しいお方ですね。」  
「優しいといわれると、少しくすぐったいですね。」  
「ふふ、いいことではありませんか。」  

二人の笑みが重なったそのとき、外では夕焼けが城壁を照らし、光が紅色に滲んでいた。  
穏やかな時間が流れる一方で、クロエは知らぬ間に宮廷の策略へと足を踏み入れていた。  

フェルナンド家の影、そして殿下の秘密――それらが静かに重なり、運命の歯車を回し始めていた。  
胸の奥で、何かがひそやかに警鐘を鳴らす。  

それでも彼女は、隣にいるノエルの声を聞くと心が安らぐのを感じた。  
たとえどんな嵐が待っていようとも、この温もりがある限り、自分は折れない――。

続く
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