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第7話 憧れと芽生える心
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ノエルの侍女として城に上がってから半月が経った。
朝が訪れるたび、クロエは前日の自分よりも少しだけ強くなっている気がした。
彼女の日々は忙しく、けれど充実していた。
書状の整理、侍女たちとの調整、公務資料の写しの準備――そのどれもに緊張と責任が伴う。
最初の頃、周囲の誰もが「元伯爵令嬢が、どこまで続くだろう」と噂したが、今では彼女の仕事ぶりが評判となり、他の侍女たちも一目置くようになっていた。
「クロエ様が入ってから、殿下のお部屋、いつにも増して整ってるわ」「ほんと、あの几帳面さ、見習いたいくらい」
そんな声が、廊下の影で微かに聞こえる。
それでもクロエ自身は、誉め言葉よりも慎重さを失わぬよう努めていた。
――侍女は“影”でなければならない。
目立ってしまえば、陥れようとする者が現れる。それは表の世界で痛いほど学んだことだった。
だが、その慎ましい努力を見逃す人が、ひとりだけいた。
「また夜更けまで働いていたのですか?」
穏やかな声と共に現れたのはノエルだった。
まだ机に灯をともしたまま書簡を整理していたクロエは、慌てて立ち上がる。
「失礼いたしました、殿下。ご覧に入れるにはまだ整理が終わっておりませんでしたので……」
「もう十分ですよ。あなた、今日で三日目ですよね、ほとんど休みなしで。」
苦笑を滲ませながら、ノエルは机の片側に歩み寄って腰掛けた。
「人の努力を止めるのは筋違いかもしれませんが、体も心も壊しては本末転倒です。」
柔らかな声でそう言われ、クロエは肩の力を抜く。
「……努力していると、心が落ち着くのです。」
「落ち着く?」
「はい。動いていないと、不安になる時があって。何かを成している間だけは、“私はまだ大丈夫”と思えるんです。」
ノエルの瞳が穏やかに揺れる。
「君らしい答えですね。」
その“君”という呼びかけに、胸の鼓動がわずかに大きく跳ねた。
「誰かに、そう見てもらえただけでも救われます。」
言葉を選びながら微笑むクロエに、ノエルはため息まじりに小さく笑う。
「君は本当に、不器用なぐらい真面目です。」
一瞬、彼の瞳が柔らかく光り、そこに何か遠い憧れが見えた気がした。
ふと、ノエルは立ち上がってカーテンを引いた。
部屋を包んでいたランプの光が外気に混じり、夜の風がそっと流れ込む。
「夜の庭園を歩きませんか。思うより静かで、心が休まります。」
「……よろしいのですか?」
「侍女としてではなく、一人の女性として誘っています。」
思いもよらぬ言葉に、胸がぎゅっと高鳴る。
彼の中で、自分がひとりの“女性”として見られているという実感。その事実は、怖さよりも甘い熱として心に広がった。
庭園の小道に出ると、夜露に濡れた花々が月の光を受けて輝いていた。
風が花弁を揺らし、淡い香りを漂わせる。
クロエは言葉もなく空を仰いだ。
「綺麗ですね……昼間よりも輝いて見えます。」
ノエルが頷く。
「昼の花は誇り高く咲き、夜の花は誰にも見えぬ美しさを持つ。君はどちらに似ていると思います?」
「え……私は……」
言葉に詰まり、思わず視線を落とす。
「きっと後者です。誰にも見えなくても、まっすぐに咲く。そんな強さを、君は持っている。」
その言葉に、心の奥が震えた。
とっくに忘れたと思っていた“誰かに認められる喜び”が、胸いっぱいに広がる。
クロエはそっと、夜風を受けながら息を整えた。
「殿下は……どうしてそんなふうに、人の心を見抜けるのですか?」
「僕も人の心に救われたことがあるからでしょう。」
「救われた?」
「ええ。昔、旅人のふりをしていた頃に、ある町で出会った老女が教えてくれたんです。人の心は見えぬものほど大切にすべきだと。」
ノエルの声は穏やかだったが、その奥には深い過去の影があった。
クロエはその横顔を見つめ、胸に切なさが走る。
彼もまた孤独を知る人――そう感じた。
「殿下……私はまだ、自分が強いとは思えません。」
「それでも立っている。それが何より強い証拠ですよ。」
「……励ましの言葉が、なぜこんなに胸に沁みるのでしょう。」
「たぶん、嘘を言っていないからです。」
ノエルが静かに言う。その瞳が月明かりを映すたび、クロエは言葉を失った。
しばらくの沈黙。
やがてノエルが口を開く。
「クロエ、君は無理に笑う必要はありません。泣いても努力は消えない。君が君である限り、その努力は“君のもの”です。」
頬を伝うものがあった。涙――だが、それは悲しみではなかった。
「……殿下は、ずるい方です。そう言われると、心がほどけてしまいます。」
「それなら、素直にほどけてください。」
ノエルの手が、そっと肩に触れた。
そのぬくもりに、クロエは抗えなかった。
その瞬間、過去の自分が重なった。
かつての婚約者ルシアンの冷たい言葉――“努力は重い”と言われたあの日。
だが今、努力を認め、優しく包んでくれる手がある。
その違いが、あまりにも大きく、心が震える。
ノエルが小さな声で囁いた。
「君の努力が、僕を惹きつける。」
鼓動が跳ね上がる。
けれど、クロエは必死に平静を装い、そっと身を離した。
「……申し訳ございません、殿下。私はまだ、自分を信じることに必死です。」
「謝ることではありません。」
彼の声は変わらず優しかった。
「焦らなくていいですよ。花が咲くのに時間がいるように、人の心もゆっくり育てばいい。」
クロエは小さく笑みをこぼした。
「はい。……きっと、いつか。」
「いつか?」
「私がまた、誰かを信じることを恐れなくなる日が来たら。――そのときに、ちゃんとお返しします。今の、この想いを。」
ノエルは何も言わなかった。
ただゆっくり頷き、夜空を仰いだ。
二人の間を春風が抜けていく。藤の花の香りが、まるで約束の証のように漂った。
その夜、クロエは自室で机に手紙を書いた。
宛名は母、エリサ夫人。
けれど書いている途中で、筆が止まった。伝えたいことが多すぎて、どこから書けばよいか分からない。
“私は今、王太子殿下に仕えております。とても優しいお方です。けれど、少し怖いのです。心が動くことが。”
そうたった一行だけ書いて、便箋を閉じた。
胸に手を当てると、繰り返す鼓動が確かにそこにある。
それは、かつて失くしたはずの感情の音。
憧れは恋ではない。けれど恋の始まりがいつも憧れであることを、クロエはまだ知らなかった。
窓の外で月が満ちていた。
優しい光が彼女を包む。
そして風に揺れた花の香りが、今夜も静かに部屋を満たしていく。
続く
朝が訪れるたび、クロエは前日の自分よりも少しだけ強くなっている気がした。
彼女の日々は忙しく、けれど充実していた。
書状の整理、侍女たちとの調整、公務資料の写しの準備――そのどれもに緊張と責任が伴う。
最初の頃、周囲の誰もが「元伯爵令嬢が、どこまで続くだろう」と噂したが、今では彼女の仕事ぶりが評判となり、他の侍女たちも一目置くようになっていた。
「クロエ様が入ってから、殿下のお部屋、いつにも増して整ってるわ」「ほんと、あの几帳面さ、見習いたいくらい」
そんな声が、廊下の影で微かに聞こえる。
それでもクロエ自身は、誉め言葉よりも慎重さを失わぬよう努めていた。
――侍女は“影”でなければならない。
目立ってしまえば、陥れようとする者が現れる。それは表の世界で痛いほど学んだことだった。
だが、その慎ましい努力を見逃す人が、ひとりだけいた。
「また夜更けまで働いていたのですか?」
穏やかな声と共に現れたのはノエルだった。
まだ机に灯をともしたまま書簡を整理していたクロエは、慌てて立ち上がる。
「失礼いたしました、殿下。ご覧に入れるにはまだ整理が終わっておりませんでしたので……」
「もう十分ですよ。あなた、今日で三日目ですよね、ほとんど休みなしで。」
苦笑を滲ませながら、ノエルは机の片側に歩み寄って腰掛けた。
「人の努力を止めるのは筋違いかもしれませんが、体も心も壊しては本末転倒です。」
柔らかな声でそう言われ、クロエは肩の力を抜く。
「……努力していると、心が落ち着くのです。」
「落ち着く?」
「はい。動いていないと、不安になる時があって。何かを成している間だけは、“私はまだ大丈夫”と思えるんです。」
ノエルの瞳が穏やかに揺れる。
「君らしい答えですね。」
その“君”という呼びかけに、胸の鼓動がわずかに大きく跳ねた。
「誰かに、そう見てもらえただけでも救われます。」
言葉を選びながら微笑むクロエに、ノエルはため息まじりに小さく笑う。
「君は本当に、不器用なぐらい真面目です。」
一瞬、彼の瞳が柔らかく光り、そこに何か遠い憧れが見えた気がした。
ふと、ノエルは立ち上がってカーテンを引いた。
部屋を包んでいたランプの光が外気に混じり、夜の風がそっと流れ込む。
「夜の庭園を歩きませんか。思うより静かで、心が休まります。」
「……よろしいのですか?」
「侍女としてではなく、一人の女性として誘っています。」
思いもよらぬ言葉に、胸がぎゅっと高鳴る。
彼の中で、自分がひとりの“女性”として見られているという実感。その事実は、怖さよりも甘い熱として心に広がった。
庭園の小道に出ると、夜露に濡れた花々が月の光を受けて輝いていた。
風が花弁を揺らし、淡い香りを漂わせる。
クロエは言葉もなく空を仰いだ。
「綺麗ですね……昼間よりも輝いて見えます。」
ノエルが頷く。
「昼の花は誇り高く咲き、夜の花は誰にも見えぬ美しさを持つ。君はどちらに似ていると思います?」
「え……私は……」
言葉に詰まり、思わず視線を落とす。
「きっと後者です。誰にも見えなくても、まっすぐに咲く。そんな強さを、君は持っている。」
その言葉に、心の奥が震えた。
とっくに忘れたと思っていた“誰かに認められる喜び”が、胸いっぱいに広がる。
クロエはそっと、夜風を受けながら息を整えた。
「殿下は……どうしてそんなふうに、人の心を見抜けるのですか?」
「僕も人の心に救われたことがあるからでしょう。」
「救われた?」
「ええ。昔、旅人のふりをしていた頃に、ある町で出会った老女が教えてくれたんです。人の心は見えぬものほど大切にすべきだと。」
ノエルの声は穏やかだったが、その奥には深い過去の影があった。
クロエはその横顔を見つめ、胸に切なさが走る。
彼もまた孤独を知る人――そう感じた。
「殿下……私はまだ、自分が強いとは思えません。」
「それでも立っている。それが何より強い証拠ですよ。」
「……励ましの言葉が、なぜこんなに胸に沁みるのでしょう。」
「たぶん、嘘を言っていないからです。」
ノエルが静かに言う。その瞳が月明かりを映すたび、クロエは言葉を失った。
しばらくの沈黙。
やがてノエルが口を開く。
「クロエ、君は無理に笑う必要はありません。泣いても努力は消えない。君が君である限り、その努力は“君のもの”です。」
頬を伝うものがあった。涙――だが、それは悲しみではなかった。
「……殿下は、ずるい方です。そう言われると、心がほどけてしまいます。」
「それなら、素直にほどけてください。」
ノエルの手が、そっと肩に触れた。
そのぬくもりに、クロエは抗えなかった。
その瞬間、過去の自分が重なった。
かつての婚約者ルシアンの冷たい言葉――“努力は重い”と言われたあの日。
だが今、努力を認め、優しく包んでくれる手がある。
その違いが、あまりにも大きく、心が震える。
ノエルが小さな声で囁いた。
「君の努力が、僕を惹きつける。」
鼓動が跳ね上がる。
けれど、クロエは必死に平静を装い、そっと身を離した。
「……申し訳ございません、殿下。私はまだ、自分を信じることに必死です。」
「謝ることではありません。」
彼の声は変わらず優しかった。
「焦らなくていいですよ。花が咲くのに時間がいるように、人の心もゆっくり育てばいい。」
クロエは小さく笑みをこぼした。
「はい。……きっと、いつか。」
「いつか?」
「私がまた、誰かを信じることを恐れなくなる日が来たら。――そのときに、ちゃんとお返しします。今の、この想いを。」
ノエルは何も言わなかった。
ただゆっくり頷き、夜空を仰いだ。
二人の間を春風が抜けていく。藤の花の香りが、まるで約束の証のように漂った。
その夜、クロエは自室で机に手紙を書いた。
宛名は母、エリサ夫人。
けれど書いている途中で、筆が止まった。伝えたいことが多すぎて、どこから書けばよいか分からない。
“私は今、王太子殿下に仕えております。とても優しいお方です。けれど、少し怖いのです。心が動くことが。”
そうたった一行だけ書いて、便箋を閉じた。
胸に手を当てると、繰り返す鼓動が確かにそこにある。
それは、かつて失くしたはずの感情の音。
憧れは恋ではない。けれど恋の始まりがいつも憧れであることを、クロエはまだ知らなかった。
窓の外で月が満ちていた。
優しい光が彼女を包む。
そして風に揺れた花の香りが、今夜も静かに部屋を満たしていく。
続く
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