元婚約者に冷たく捨てられた伯爵令嬢、努力が実って王太子の恋人に。今さら跪かれても遅いですわ!

sika

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第9話 再会──氷の視線

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茶会から数日が経った。  
あの日の光景――元婚約者ルシアンの顔、そして彼と言葉を交わした瞬間の空気――が、今もクロエの胸の片隅に残っていた。  
過去は過去のはずなのに、彼と視線を交わしたとき、心の奥で何かがひやりと揺れた。  
もう傷つかないつもりでいたのに、何かが確かに疼いていた。  
けれど、それでも彼女は笑ってみせた。  
誰かの記憶に縛られるような自分ではいたくなかった。  

王妃セレーネからの評価も高く、クロエは引き続き王室の行事補佐を任されるようになっていた。  
一方でノエルとの距離も、少しずつ近づいているように感じる。  
彼はいつも穏やかに彼女を気にかけ、時折茶会後の報告を共に確認する。  
「殿下、先日の件、王妃陛下より特にお褒めの言葉をいただきました。」  
「そうか……それは君の功績だ。僕ではなく、君が場を支えてくれた。」  
「恐れ入ります。」  
「それにしても――」とノエルは少し目を細めた。「あの場で君があれほど落ち着いていたとは思わなかった。」  

ノエルは、ルシアンとクロエの過去を知っている。  
王太子としての立場を通じて、宮廷で流れる噂のほとんどを耳にしていた。  
だが彼はそのことを一切詮索せず、ただ見守るように微笑んでいた。  
「殿下、まるで私の心を見透かしていらっしゃるようです。」  
「見えているのではなく、知っているんです。……人は皆、過去の痛みを一つは抱えているものですよ。」  
「では、殿下にも?」  
ノエルは一瞬だけ黙り、そして微笑んだ。  
「僕の話はまたいつか、君が笑顔で聞けるようになった時にしましょう。」  

その笑みを見て、クロエはそれ以上は尋ねなかった。  
彼の中にも、過去と呼べる何かがあるのだろうと感じた。  

その午後。  
クロエは王城の中庭で王妃の手紙を届けるために歩いていた。  
春の名残と夏の気配が入り混じる風が頬を撫でる。  
花壇の手入れをしている庭師たちの姿を横目に、回廊へ差しかかったその時だった。  

「……やあ、クロエ。」  
背後から声が降ってくる。その声を聞いた瞬間、足が止まった。  
どうしても忘れられない声。振り返ると、そこにルシアンが立っていた。  

「ルシアン様……。」  
「まさか、こんなところでまた会えるとは。今日はお仕事中かな?」  
彼の柔らかな笑みは、以前と何も変わっていないように見えた。  
だが、クロエは思わず半歩下がる。  
まるで、身体が心より先に反応したかのように。  

「はい、お仕事中です。王妃陛下への届け物がございますので失礼いたします。」  
そう言って立ち去ろうとするが、ルシアンが行く手を遮るように一歩進んだ。  
「待ってくれ。少しだけ時間をもらえないか? 話したいことがある。」  
「話……?」  
「謝りたいんだ。あの時のことを。」  

クロエはまばたきを一度だけして、静かに彼を見た。  
「今さら謝って、何を変えたいのですか?」  
「君にひどいことを言った。逃げたのは僕だ。あの時は自分でもどうかしていたんだ。」  
ルシアンの声は必死だった。  
けれどその必死さが、クロエの心には届かなかった。  
「貴方がどう思おうと、私の人生はもう別の道を歩いています。あの時の私は死んだのです。」  

ルシアンの目がわずかに見開かれた。  
「……死んだ?」  
「ええ。貴方に“努力は重い”と切り捨てられた日、私の中の“令嬢クロエ”は終わりました。けれど今、私は侍女として誇りを持って生きています。」  
「誇り……侍女に、誇り?」  
思わず漏らした彼の言葉に、クロエの表情が静かに揺らぐ。  
「侍女を見下すのですか?」  
「違う! そういう意味じゃない……ただ、君ほどの生まれの人が――」  
「身分が何になろうと、私は今の立場で幸せです。それを軽んじるような方とは、同じ空気も吸いたくありません。」  

その冷たい声に、ルシアンは言葉を失った。  
そして、ようやく気づいた。  
目の前にいるのは、もはや自分が知っていた“完璧な令嬢”ではなく、自分を捨てた男の言葉など必要としない、強い女性。  
その変化に、彼は小さく息を呑む。  

「……君、変わったね。」  
「そうでしょうか。ただ、ようやく偽りの笑顔ではなく、本当の自分で笑えるようになっただけです。」  

クロエはそのまま通り過ぎた。  
何も振り返らない。  
けれど背中に、去りがたい視線を感じた。  
その視線が胸の奥を少しだけ痛ませたのも事実だった。  

回廊を抜けた先、階段を上ったところで、誰かが彼女を待っていた。  
ノエルだった。  

「すれ違ったのを見ました。」  
「殿下……。」  
「大丈夫ですか?」  
静かな問いに、クロエは一瞬だけ口を結ぶ。その優しい眼差しを見て、ふっと心が緩んだ。  
「……少しだけ、寒い風にあたったような気がしました。けれど、もう大丈夫です。」  
ノエルは一歩近づき、視線を彼女の背越しに向ける。  
遠く離れた回廊の端で、ルシアンがこちらを見ていた。  
二人が視線を交わしたその一瞬、ノエルの瞳に氷のような光が走った。  

王太子としての品位を崩さぬまま、彼は静かに言う。  
「クロエ嬢。あの男が再び貴女を傷つけることがあれば、私は君臨する王としてそれを許さない。」  
その声は、いつもの穏やかさではなかった。  
それは、王族としての威厳と怒りが混じった音だった。  

クロエは思わず息を呑む。  
「殿下……?」  
ノエルは彼女の方へ振り向きなおすと、わずかに微笑んだ。  
「失礼、つい感情的になりました。……けれど、貴女が涙を流す姿は二度と見たくないんです。」  
その言葉に、胸がじんと痛む。優しさという名の鋭い刃が、かえって心を震わせる。  

「ありがとうございます、殿下。でも私はもう大丈夫です。私の涙は、自分のためにしか流しませんから。」  
「それがいい。」  
ノエルは頷き、階段の上で立ち止まった。  
「人は皆、過去から目を逸らす時に弱くなる。貴女はそれを見据えた。だから、もう怖がる必要はありません。」  

沈黙の中で、遠く鐘の音が響いた。  
午後の祈りを告げる穏やかな音色。  
クロエはその音を聞きながら、胸に手を当てる。  
冷たく感じた心が、今では温もりに変わっているのを確かに感じた。  

「殿下。」  
「なんでしょう。」  
「貴方のような方に出会えたのは、きっと神のいたずらですわ。」  
その言葉に、ノエルは柔らかく笑った。  
「もし神が本当にそうしたのなら、そのいたずらに感謝しましょう。」  

二人の笑い声が微かに混じり、やがて廊下に消えていった。  
その後ろ姿を、陰からひそかに見つめる瞳があったことに、誰も気づいていなかった。  
それは宰相派の密偵。彼は小さく記録用の魔石を握りしめ、何かに満足げな笑みを浮かべた。  

王城の穏やかな午後の光の裏で、静かな陰がゆっくりと動き出していた。  
クロエの再会は、一つの終わりではなく、新たな波乱の幕開けでしかなかった。  

続く
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