元婚約者に冷たく捨てられた伯爵令嬢、努力が実って王太子の恋人に。今さら跪かれても遅いですわ!

sika

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第10話 今さら何を

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王都の空がどこまでも澄み渡っていた。  
遠くで鳴る鐘の音が、昼下がりの風に溶けていく。  
けれどクロエの胸の中には、重たいものが浮かんでいた。  
あの日、再び現れたルシアンの姿。そして交わした言葉の残響が、何度も脳裏を巡る。  

「今さら謝るくらいなら、なぜあの時――」  
そう口にした自分の声が、まだ耳に残っていた。  
彼の表情は確かに後悔を滲ませていた。だがそれで何になるというのだろう。  
彼が投げ捨てた日々は、彼女が努力で積み上げたものを否定した過去だ。  
もう一度信じるには、あまりに遠い昔のこと。  

今のクロエには、支えるべき王がいる。  
優しさで包み、真っ直ぐに向き合ってくれる人がいる。  
それだけで十分だった。  

その夜、王太子ノエルの執務室では書簡の煙が立ち上っていた。  
近隣諸国との会談の報告書、宰相からの提案議案、そして城の財管理報告。  
机いっぱいに広がる書類の中で、ノエルの指が一枚の封筒の前で止まる。  

差出人、フェルナンド公爵家。  
淡い封蝋を溶かし、中を取り出すとわずかに眉が寄る。  
「……彼が動いたか。」  
小さく呟いた声に、控えていた宰相補佐官が応じる。  
「殿下、件の公爵家から“王太子付き侍女の素性について再確認を求む”という書類が来ております。」  
ノエルは静かに書状を読み、そして筆を取った。  
さらさらと紙の上に描かれていく文字。  
“クロエ・ラングレーは、我が王太子直属の侍女であり、王家に相応しい忠誠を示す者である。彼女に一切の疑念を抱くことは、王太子への冒涜と見なす。”  

彼はその文を封じ、補佐官に渡した。  
「宰相府に正式に通達として出してください。」  
「……殿下、もしや公爵家は侍女殿と関係のあった――」  
「口を慎みなさい。」  
ノエルの声は柔らかかったが、底に氷のような冷たさが混じっていた。  

補佐官は背筋を伸ばし、深く頭を下げて部屋を出た。  
扉が静かに閉じると同時に、ノエルは息を吐いた。  
「……クロエ、どれほどのことを背負ってここまで来たのだろう。」  
彼は書類を閉じ、窓の外を見やった。  
夜の王城は静まり返り、灯りの海のような王都が遠くに輝いている。  

その頃、クロエは王妃の私室にいた。  
王妃セレーネが柔らかい声で言う。  
「クロエ、今日は随分と顔色が優れませんね。」  
「申し訳ありません、少し考え事をしておりまして。」  
王妃は微笑みながら紅茶を差し出した。  
「誰かが心を乱すとき、人は沈黙を選ぶのです。けれど、沈黙は痛みを深くするばかり。」  
「……陛下。」  
「ノエルとよく話をなさい。あの子は人の心を受け入れる力を持っているわ。」  

部屋を辞して回廊へ出ると、夜風が髪を掠めた。  
月が高く、二つの影を照らす。  
ひとりはクロエ。もうひとりは、すでにそこに立っていたノエルだった。  

「殿下……お疲れ様です。」  
「君もだ。」  
彼の顔には淡い疲れが浮かんでいた。それでも微笑は崩れない。  
「君に少し話がある。……あの男、ルシアン・フェルナンドのことだ。」  
クロエの表情が硬くなる。  
「殿下の耳にも入ってしまいましたか。」  
「ええ。王妃の茶会以降、彼はしつこく王家に接近しようとしている。どうやら、過去のことをある形で償いたいなどと言っているらしい。」  
「償い……?」  
「愚かですね。既に失ったものは、形を変えても戻らないのに。」  
ノエルの声の端に鋭い怒りが混じる。  

クロエは少し俯いた。  
「私にとっては、もうどうでもよいことです。あの方が何を考えていようとも、届くところに私はいません。」  
「それでも、彼は“届くかもしれない”と思っているようだ。」  
「……今さら何を。」  
その言葉が、静かに夜の回廊に落ちた。  

クロエは顔を上げ、凛とした声で続けた。  
「本当に大切なものは、失って初めて気づくという人もいます。でも、失って気づくような愛など、最初から本物ではなかったのです。」  
ノエルはしばし黙った。  
そしてゆっくりと彼女の方に歩み寄る。  
「君の言う通りだ。君は前を向いている。その強さが、僕には眩しい。」  
「殿下……」  
「僕は、自分の隣に立てる人を信じたい。過去ではなく、“今”を生きる人を。」  

月明かりが二人の間に落ちる。風が薔薇の香りを運ぶ。  
クロエは一歩下がり、深く礼をした。  
「私は、殿下に仕えられることを誇りに思います。」  
「仕えるではなく、共に歩む。君はそういう人だと思っています。」  
その優しい言葉に胸が熱くなり、ほんの瞬きの間、世界が温かく滲んだ。  

夜空には近衛塔の明かりが灯っていた。  
その下を一人の男が歩いていた。  
ルシアン・フェルナンド。  
昼間に見たクロエの瞳が脳裏に焼き付いて離れない。  
完璧で淡々としていた彼女が、今はもう自分の届かぬ人になっていた。  

「君がこんなにも遠く感じるとはな……。」  
呟く声は虚ろに消える。  
だが彼の表情には、ただの後悔だけではなく、奇妙な執着の色があった。  

歩みを止めた彼の後ろから、誰かが静かに近づく。  
「フェルナンド様。」  
振り向くと宰相派の使者が立っていた。  
「王太子殿下の侍女、クロエ・ラングレー。彼女に関して、少々興味深い報告がございます。」  
「……何?」  
「殿下が彼女を“特別に重用している”との噂。それが民の中にも広がり始めています。」  
ルシアンの瞳がわずかに揺れた。  
「まさか……そんなはずは。」  
「もしそうなら、彼女の存在は――王家の足をすくう“隙”にもなりえる。」  
声が闇に溶けていく。ルシアンは沈黙したまま拳を握りしめた。  
しばらくの後、低く呟く。  
「……彼女は誰にも奪わせない。」  

風が吹き、灯がひとつ揺らいだ。  
彼の瞳には冷ややかな光が宿る。  
後悔はいつしか、手に入れ損ねたものへの渇望へ変わっていく。  

その夜、クロエは深く眠りながら、奇妙な胸騒ぎで目を覚ました。  
誰かに見られているような、不穏な気配。  
窓の外には冷たい月の光。  
王城を包む静寂の中で、確かに何かが動き出していた。  

続く
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