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第3話 婚約破棄の宣告
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雪の森を抜ける街道は、白銀の世界そのものだった。
馬車の車輪がきしむたびに、凍った枝葉が音を立てて落ちる。
冷たい空気が頬を刺すが、それでも心の内の痛みに比べれば、小さな刺激にすぎない。
王城を離れて三日。
私とクラリスはグランベル家の辺境別邸を目指していた。
父の配慮で、騒ぎが落ち着くまで王都を離れることになったが、内心では安堵の方が勝っていた。
あの場所には、もう私の居場所はない。
すべてを終えたという実感が、ようやく少しずつ形を持ちはじめていた。
「お嬢様、どうか少しお休みください」
「大丈夫よ、クラリス。あと半日もすれば着くわ」
「でも……」
クラリスは困ったように眉を寄せる。
長旅の中、彼女の忠義は変わらなかった。
誰よりも私を案じてくれているのが伝わる。
馬車の外を見やると、雪の向こうに小さな村の屋根が見えてきた。
白と灰に包まれた、その静かな村。
王都では決して見られなかった、素朴で穏やかな光景だった。
「クラリス、少しだけ休憩しましょう。この辺り、安全かしら?」
「はい、村の名前は……アルディナ村というそうです。旅人も立ち寄る場所だと馬丁が」
「そう、なら良いわ」
馬車が停まり、私たちは雪の舞う広場に降り立った。
吐く息が白くなる。
遠くで子どもたちが雪を投げ合い、陽の光が反射して眩しい。
その何気ない風景が、どこか胸に沁みた。
「ここが……世の人が生きる現実なのね」
「え?」
「いいえ、なんでもないわ。王都の煌びやかさよりも、この方がずっと温かく見えるの」
「お嬢様……」
クラリスが寂しげに笑った瞬間、馬車の陰から声がした。
「旅のご婦人方、随分と遠くから来られたようですね」
振り返ると、一人の男が立っていた。
黒い外套、雪の上に溶け込むような灰の瞳。――あの夜、私を見つめた男。
驚く間もなく、彼は帽子を取って軽く頭を下げた。
「初対面ではござるが……いや、正確には初対面ではないかもしれませんね。王都の舞踏会でお見かけしました」
「あなた……あのときの……」
「名乗りが遅れました。アレン・ヴァルディール。隣国ヴァルディール公爵家の者です」
その名を聞いた瞬間、見えない糸が胸の奥を弾いた。
ヴァルディール公爵――王太子が唯一、外交上頭を下げる相手として知られる人物。
冷静沈着、戦で数々の功績を立てた名将。一方で、その素性はほとんど明かされていない。
私のような貴族令嬢が直接会うなど、本来ならありえない相手だ。
「なぜ、貴方が……」
「偶然ですよ。使節団として王都に滞在していました。夜の広場で貴女を見たとき、何かに惹かれまして」
「……惹かれた?」
「氷の中に閉じこもったような瞳をしておられた。なのに、痛みに耐えるように微笑んでいた」
私の胸の奥がきゅ、と縮む。
殿下でさえ見抜けなかった部分を、この人は一瞬で言い当てた。
知らぬ誰かに見透かされたような感覚――でも、嫌ではなかった。
「お嬢様、こちらでお話をなさるのは……」
クラリスが心配そうに目を向ける。
「決して怪しい者ではありません。この村の外に、私の宿がございます。暖炉もある。雪の中で立ち話をする方が危険だ」
その言葉に、私は逡巡した。
本来なら、貴族令嬢として知らぬ男性の誘いに乗るなどありえない。
だが、不思議と拒絶する気にはなれなかった。
むしろこの人の言葉の温度が、凍りついた心にわずかな熱をもたらしているのを感じていた。
「……少しだけなら」
「ありがとうございます」
村はずれの宿は、木造の古い建物だったが、暖炉の火がやさしく揺れていた。
外套を預け、椅子に座る。
アレン公爵はグラスに温かい葡萄酒を注ぎ、静かに差し出した。
「旅の途中でしょう。冷えた体には少しの熱が必要です」
「ありがとうございます」
琥珀の液体を口に含むと、甘い香りが鼻を抜けた。
身体の奥まで温かくなっていく。
沈黙が流れた。薪のはぜる音だけが響く。
「……婚約破棄の噂を耳にしました」
「噂が届くのが早いのですね」
「王都中が話題にしています。王太子が公の場で断罪を行った、と」
「そう。滑稽なものですわ。感情的な理由を“正義”と称して、すべてを晒すなんて」
言葉に棘が混じってしまうのを自覚する。でも、それを止められなかった。
公爵は静かに頷いた。
「貴女は、恥じてはいませんね」
「ええ。愛など、義務の上では飾りですもの。……そう思っていたのです」
「では今は?」
彼の穏やかな声に、私は少し考えた。
「今は……わかりません。何を信じればよいのかも」
そう答えると、公爵はしばらく沈黙し、グラスを揺らした。
「信じる必要などない。信じることより、応えることが大切なときもある」
「応える?」
「貴女のように、誰かの期待に応え続けてきた人ほど、自分の声を聞き逃す。だからこそ、人の温もりに触れると戸惑う。……そう見える」
その言葉に、胸の奥が熱を帯びた。
彼の瞳は、冷たく見えて、その奥に確かな優しさがあった。
氷を割らずに、ただそっと手のひらを添えるような人。
「アレン様」
「はい」
「なぜ、私にそんなことを……」
「貴女が助けを求めているように見えたからです。私も、似たような立場にいたことがある」
そう言って彼は窓の外を見た。
白い雪が、静かに降っている。
「私は若い頃、仲間に裏切られた。名誉のために全てを失い、孤独だけが残った。でも、そのとき救ってくれたのは、一人の女性の言葉だった。『心を閉じれば、何も変えられない』とね」
「……だから、私にも心を閉じるなと?」
「その通りです」
私は知らぬ間に、拳を握りしめていた。
怒りでも悲しみでもない。ただ、どうしようもなく何かが動き出すような感覚。
「リディア嬢、もしよければ……私の領地へ来ませんか?」
「領地へ……?」
「治療と休息を。貴女の家が望むなら、正式な保護の名目でも良い」
驚いて言葉を失う。
王族でもない他国の公爵が、断罪された令嬢を保護するなど――前代未聞だ。
けれどその瞳は、一片の打算を含んでいなかった。
「私はもう、誰の傀儡にもなりません。それなのに、なぜ……」
「それでいい。だからこそ貴女を迎えたい」
彼の声は静かで、それでいて不思議な力を持っていた。
逃げ場のない冬の空のように澄んでいて、温もりを孕んでいた。
私は気づけば、頷いていた。
もしかしたらこの選択が、人生の分岐点になるのかもしれない。
けれど――少なくとも、過去よりはましだと思えた。
再び外へ出ると、雪は止み、遠くにかすかな光が差していた。
夜空の向こう、曇天の切れ間に見える小さな星が、まるで道を示すように瞬いている。
私はその光を見つめ、胸の中で静かに呟いた。
「私……もう、氷のままではいられないのかもしれない」
クラリスが驚いたように私を見る。
けれど、私はもう前だけを見ていた。
冷たい風の中に、わずかな春の匂いを感じながら。
続く
馬車の車輪がきしむたびに、凍った枝葉が音を立てて落ちる。
冷たい空気が頬を刺すが、それでも心の内の痛みに比べれば、小さな刺激にすぎない。
王城を離れて三日。
私とクラリスはグランベル家の辺境別邸を目指していた。
父の配慮で、騒ぎが落ち着くまで王都を離れることになったが、内心では安堵の方が勝っていた。
あの場所には、もう私の居場所はない。
すべてを終えたという実感が、ようやく少しずつ形を持ちはじめていた。
「お嬢様、どうか少しお休みください」
「大丈夫よ、クラリス。あと半日もすれば着くわ」
「でも……」
クラリスは困ったように眉を寄せる。
長旅の中、彼女の忠義は変わらなかった。
誰よりも私を案じてくれているのが伝わる。
馬車の外を見やると、雪の向こうに小さな村の屋根が見えてきた。
白と灰に包まれた、その静かな村。
王都では決して見られなかった、素朴で穏やかな光景だった。
「クラリス、少しだけ休憩しましょう。この辺り、安全かしら?」
「はい、村の名前は……アルディナ村というそうです。旅人も立ち寄る場所だと馬丁が」
「そう、なら良いわ」
馬車が停まり、私たちは雪の舞う広場に降り立った。
吐く息が白くなる。
遠くで子どもたちが雪を投げ合い、陽の光が反射して眩しい。
その何気ない風景が、どこか胸に沁みた。
「ここが……世の人が生きる現実なのね」
「え?」
「いいえ、なんでもないわ。王都の煌びやかさよりも、この方がずっと温かく見えるの」
「お嬢様……」
クラリスが寂しげに笑った瞬間、馬車の陰から声がした。
「旅のご婦人方、随分と遠くから来られたようですね」
振り返ると、一人の男が立っていた。
黒い外套、雪の上に溶け込むような灰の瞳。――あの夜、私を見つめた男。
驚く間もなく、彼は帽子を取って軽く頭を下げた。
「初対面ではござるが……いや、正確には初対面ではないかもしれませんね。王都の舞踏会でお見かけしました」
「あなた……あのときの……」
「名乗りが遅れました。アレン・ヴァルディール。隣国ヴァルディール公爵家の者です」
その名を聞いた瞬間、見えない糸が胸の奥を弾いた。
ヴァルディール公爵――王太子が唯一、外交上頭を下げる相手として知られる人物。
冷静沈着、戦で数々の功績を立てた名将。一方で、その素性はほとんど明かされていない。
私のような貴族令嬢が直接会うなど、本来ならありえない相手だ。
「なぜ、貴方が……」
「偶然ですよ。使節団として王都に滞在していました。夜の広場で貴女を見たとき、何かに惹かれまして」
「……惹かれた?」
「氷の中に閉じこもったような瞳をしておられた。なのに、痛みに耐えるように微笑んでいた」
私の胸の奥がきゅ、と縮む。
殿下でさえ見抜けなかった部分を、この人は一瞬で言い当てた。
知らぬ誰かに見透かされたような感覚――でも、嫌ではなかった。
「お嬢様、こちらでお話をなさるのは……」
クラリスが心配そうに目を向ける。
「決して怪しい者ではありません。この村の外に、私の宿がございます。暖炉もある。雪の中で立ち話をする方が危険だ」
その言葉に、私は逡巡した。
本来なら、貴族令嬢として知らぬ男性の誘いに乗るなどありえない。
だが、不思議と拒絶する気にはなれなかった。
むしろこの人の言葉の温度が、凍りついた心にわずかな熱をもたらしているのを感じていた。
「……少しだけなら」
「ありがとうございます」
村はずれの宿は、木造の古い建物だったが、暖炉の火がやさしく揺れていた。
外套を預け、椅子に座る。
アレン公爵はグラスに温かい葡萄酒を注ぎ、静かに差し出した。
「旅の途中でしょう。冷えた体には少しの熱が必要です」
「ありがとうございます」
琥珀の液体を口に含むと、甘い香りが鼻を抜けた。
身体の奥まで温かくなっていく。
沈黙が流れた。薪のはぜる音だけが響く。
「……婚約破棄の噂を耳にしました」
「噂が届くのが早いのですね」
「王都中が話題にしています。王太子が公の場で断罪を行った、と」
「そう。滑稽なものですわ。感情的な理由を“正義”と称して、すべてを晒すなんて」
言葉に棘が混じってしまうのを自覚する。でも、それを止められなかった。
公爵は静かに頷いた。
「貴女は、恥じてはいませんね」
「ええ。愛など、義務の上では飾りですもの。……そう思っていたのです」
「では今は?」
彼の穏やかな声に、私は少し考えた。
「今は……わかりません。何を信じればよいのかも」
そう答えると、公爵はしばらく沈黙し、グラスを揺らした。
「信じる必要などない。信じることより、応えることが大切なときもある」
「応える?」
「貴女のように、誰かの期待に応え続けてきた人ほど、自分の声を聞き逃す。だからこそ、人の温もりに触れると戸惑う。……そう見える」
その言葉に、胸の奥が熱を帯びた。
彼の瞳は、冷たく見えて、その奥に確かな優しさがあった。
氷を割らずに、ただそっと手のひらを添えるような人。
「アレン様」
「はい」
「なぜ、私にそんなことを……」
「貴女が助けを求めているように見えたからです。私も、似たような立場にいたことがある」
そう言って彼は窓の外を見た。
白い雪が、静かに降っている。
「私は若い頃、仲間に裏切られた。名誉のために全てを失い、孤独だけが残った。でも、そのとき救ってくれたのは、一人の女性の言葉だった。『心を閉じれば、何も変えられない』とね」
「……だから、私にも心を閉じるなと?」
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「それでいい。だからこそ貴女を迎えたい」
彼の声は静かで、それでいて不思議な力を持っていた。
逃げ場のない冬の空のように澄んでいて、温もりを孕んでいた。
私は気づけば、頷いていた。
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けれど――少なくとも、過去よりはましだと思えた。
再び外へ出ると、雪は止み、遠くにかすかな光が差していた。
夜空の向こう、曇天の切れ間に見える小さな星が、まるで道を示すように瞬いている。
私はその光を見つめ、胸の中で静かに呟いた。
「私……もう、氷のままではいられないのかもしれない」
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