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第4話 嘲笑と沈黙の中で
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旅立ちの日の朝、辺境への準備が整うと同時に、私はふと現実の重みを感じた。
仮の宿を発ってから数日。アレン公爵の使者から、正式な護衛と馬車が用意されていると知らされたとき、ほんの少し胸の奥に複雑な思いがよぎった。
もはや王都に戻ることはない――その事実が、あらためて心に刻まれたからだ。
「お嬢様、本当にアレン様の領地へ行かれるのですか?」
クラリスが尋ねる声は、迷いと不安を含んでいた。
彼女にとっても、私にとっても見知らぬ地。
王族の保護も、家の威光も、副うものはもう何もない。
けれど――それでも私は、この提案を断る理由が見つからなかった。
「ええ。父上も文で許可してくださいました。彼もアレン公爵を信頼しているようです」
「でも……もしかすると、殿下の耳にも届くかもしれません」
「構いません。彼が私の行方を知っても、何も変わらないでしょう」
その言葉を口にすると、なぜか胸がすっと軽くなった。
もう、過去に引き戻される必要はないのだと、ようやく理解できたのかもしれない。
雪の中を走る馬車の車輪がきしむ。
外では、冬の森が静かに広がっていた。
大木の間には細い霧が立ちこめ、陽光がそこに溶けて消えていく。
その幻想的な風景を眺めながら、私は目を閉じた。
思えば、あの王都で過ごした年月は、息を潜めて耐える時間だった。
誰かに優しくされることを望まず、愛されることも恐れていた。
それは、幼い頃から染みついた習慣のようなものだったのだろう。
——王太子妃たる者は、常に品位を持ち、感情に流されてはならぬ。
——涙は弱さを示す。誇りを失えば、周囲に付け入られる。
幼い日の父の言葉が、まだ胸に残っている。
私はそれを忠実に守り続けた。
結果、彼は私に誇りを見出し、王家は私を選んだ。
だが、その“理想の姿”が、殿下にとっては冷たく、遠い壁にしか見えなかったのだ。
忠実であったがゆえに愛されず、誇りを重んじたがゆえに孤独になった。
人生の皮肉とは、常に正しさの裏に潜むものだ。
馬車が一瞬、大きく揺れた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
クラリスの声で我に返る。
外の道がぬかるみ、車輪が沈んで止まっていた。
御者が慌てて馬をなだめるが、雪と泥に車が取られているらしい。
「ここで少し待ちましょう。危険ではないわ」
「そうですね……ですが、森の中は獣も出ますから、油断はできません」
クラリスが不安そうに辺りを見回す。そのときだった。
「困っているようですね」
見慣れた低い声に振り向くと、そこにはアレン公爵が立っていた。
黒い外套の裾を翻し、灰の瞳が淡く輝いている。
まるで風のように現れる男だ、と私は思った。
いつも唐突なのに、不思議と不安を感じさせない。
「アレン様……どうしてこちらに?」
「あなた方が通る道は、私の領地に入る山道に続いている。途中まで迎えに行こうと思っていた」
「わざわざ……恐縮です」
「謝る必要はありません。貴女を迎えるのは、約束したことですから」
言われてみると、彼の声には一切の義務感がなかった。
その自然な響きに、私は少しだけ心の防壁を緩めた。
彼が部下に指示を出すと、馬車は短時間で再び動き出した。
アレン公爵が乗り込み、対面に座る。
近づいた彼の姿を、あらためて見つめた。
整った顔立ちだが、どこか傷に似た影がある。戦場帰りの男特有の、静かな強さ。
彼の存在が、室内の空気をわずかに熱く変えた。
「辺境の空気は王都とは違います。寒さが厳しいですが、静かな土地ですよ」
「静けさなら、好ましいです」
「そうだろうと思いました。――リディア嬢、貴女はよく耐えてきた」
「……耐えるのは得意なんです。誰も褒めてはくれませんけれど」
ふと彼がまなざしを落とした。
沈黙の中に、火の灯のような温度を感じる。
聞こえるのは馬の足音と、風の音だけ。
そして、彼の声が再び響いた。
「ここでは、誰も貴女を裁かない。失敗や噂に怯えることもない。望むなら、ただ心を休めてほしい」
「……まるで、夢のようなお言葉ですね」
「夢で終わらせたくはありません」
その一言に、胸の奥で氷がひときわ大きく軋んだ気がした。
信じてはいけない。そう思う。
けれど、その優しさを拒むだけの力が、今の私にはなかった。
やがて馬車は小さな丘を越え、視界の先に広がる屋敷へと近づいていく。
瓦屋根に雪を被った白亜の建物――ヴァルディール公爵邸。
王都の宮殿のような華やかさはないが、どこか落ち着いた荘厳さがあった。
「到着です。ようこそ、ヴァルディール領へ」
公爵の言葉に、私は小さく息を呑んだ。
屋敷の玄関先には数人の使用人が整列し、中年の執事が恭しく頭を下げる。
「お出迎え申し上げます、公爵様。そして……お客様をお連れくださったのですね」
「そうだ。今日からこちらに滞在していただく。丁重にもてなすように」
「かしこまりました」
屋敷に入ると、暖炉の香と温かな空気が包み込んだ。
ほっと息をつくと、緊張が一気に溶ける。
まるで長い冬の旅を終えて、やっと避難所にたどり着いた気分だった。
案内された客室は広く、柔らかな絨毯が敷かれていた。
窓からは雪原が見え、夜になると月光が白く反射するのだという。
クラリスが手早く荷をほどきながら、「まるで夢のようですね」とつぶやいた。
私は微笑んで頷いた。
「ええ、本当に……けれど、これは夢であってほしくないの」
その夜、ひとり部屋に残った後、私は窓辺に立った。
月が冴え冴えと輝いている。
思えば、婚約破棄された夜も同じ月を見た。
けれど今は、あのときと違って孤独ではなかった。
遠くの廊下からは、微かに人の気配がする。
あのアレン公爵が同じ屋敷にいるという事実が、なぜか心を落ち着かせた。
机の上には、公爵の書き置きが一枚。
「ここでは、誰も貴女を嘲らない。沈黙の中でも貴女が呼吸できるように」
それを読んだ途端、胸の奥に込み上げてきた何かがあった。
涙ではなかった。ただ、胸の奥があたたかくなる。
私はそっと椅子に腰を下ろし、両手を胸の上に重ねた。
――不思議ね。誰かの優しさがこんなに静かで、強いものだなんて。
窓の外では、雪が新しい夜を描き続けていた。
白い闇の中で、次の朝が来るのを穏やかに待ちながら、私はそっと目を閉じた。
続く
仮の宿を発ってから数日。アレン公爵の使者から、正式な護衛と馬車が用意されていると知らされたとき、ほんの少し胸の奥に複雑な思いがよぎった。
もはや王都に戻ることはない――その事実が、あらためて心に刻まれたからだ。
「お嬢様、本当にアレン様の領地へ行かれるのですか?」
クラリスが尋ねる声は、迷いと不安を含んでいた。
彼女にとっても、私にとっても見知らぬ地。
王族の保護も、家の威光も、副うものはもう何もない。
けれど――それでも私は、この提案を断る理由が見つからなかった。
「ええ。父上も文で許可してくださいました。彼もアレン公爵を信頼しているようです」
「でも……もしかすると、殿下の耳にも届くかもしれません」
「構いません。彼が私の行方を知っても、何も変わらないでしょう」
その言葉を口にすると、なぜか胸がすっと軽くなった。
もう、過去に引き戻される必要はないのだと、ようやく理解できたのかもしれない。
雪の中を走る馬車の車輪がきしむ。
外では、冬の森が静かに広がっていた。
大木の間には細い霧が立ちこめ、陽光がそこに溶けて消えていく。
その幻想的な風景を眺めながら、私は目を閉じた。
思えば、あの王都で過ごした年月は、息を潜めて耐える時間だった。
誰かに優しくされることを望まず、愛されることも恐れていた。
それは、幼い頃から染みついた習慣のようなものだったのだろう。
——王太子妃たる者は、常に品位を持ち、感情に流されてはならぬ。
——涙は弱さを示す。誇りを失えば、周囲に付け入られる。
幼い日の父の言葉が、まだ胸に残っている。
私はそれを忠実に守り続けた。
結果、彼は私に誇りを見出し、王家は私を選んだ。
だが、その“理想の姿”が、殿下にとっては冷たく、遠い壁にしか見えなかったのだ。
忠実であったがゆえに愛されず、誇りを重んじたがゆえに孤独になった。
人生の皮肉とは、常に正しさの裏に潜むものだ。
馬車が一瞬、大きく揺れた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
クラリスの声で我に返る。
外の道がぬかるみ、車輪が沈んで止まっていた。
御者が慌てて馬をなだめるが、雪と泥に車が取られているらしい。
「ここで少し待ちましょう。危険ではないわ」
「そうですね……ですが、森の中は獣も出ますから、油断はできません」
クラリスが不安そうに辺りを見回す。そのときだった。
「困っているようですね」
見慣れた低い声に振り向くと、そこにはアレン公爵が立っていた。
黒い外套の裾を翻し、灰の瞳が淡く輝いている。
まるで風のように現れる男だ、と私は思った。
いつも唐突なのに、不思議と不安を感じさせない。
「アレン様……どうしてこちらに?」
「あなた方が通る道は、私の領地に入る山道に続いている。途中まで迎えに行こうと思っていた」
「わざわざ……恐縮です」
「謝る必要はありません。貴女を迎えるのは、約束したことですから」
言われてみると、彼の声には一切の義務感がなかった。
その自然な響きに、私は少しだけ心の防壁を緩めた。
彼が部下に指示を出すと、馬車は短時間で再び動き出した。
アレン公爵が乗り込み、対面に座る。
近づいた彼の姿を、あらためて見つめた。
整った顔立ちだが、どこか傷に似た影がある。戦場帰りの男特有の、静かな強さ。
彼の存在が、室内の空気をわずかに熱く変えた。
「辺境の空気は王都とは違います。寒さが厳しいですが、静かな土地ですよ」
「静けさなら、好ましいです」
「そうだろうと思いました。――リディア嬢、貴女はよく耐えてきた」
「……耐えるのは得意なんです。誰も褒めてはくれませんけれど」
ふと彼がまなざしを落とした。
沈黙の中に、火の灯のような温度を感じる。
聞こえるのは馬の足音と、風の音だけ。
そして、彼の声が再び響いた。
「ここでは、誰も貴女を裁かない。失敗や噂に怯えることもない。望むなら、ただ心を休めてほしい」
「……まるで、夢のようなお言葉ですね」
「夢で終わらせたくはありません」
その一言に、胸の奥で氷がひときわ大きく軋んだ気がした。
信じてはいけない。そう思う。
けれど、その優しさを拒むだけの力が、今の私にはなかった。
やがて馬車は小さな丘を越え、視界の先に広がる屋敷へと近づいていく。
瓦屋根に雪を被った白亜の建物――ヴァルディール公爵邸。
王都の宮殿のような華やかさはないが、どこか落ち着いた荘厳さがあった。
「到着です。ようこそ、ヴァルディール領へ」
公爵の言葉に、私は小さく息を呑んだ。
屋敷の玄関先には数人の使用人が整列し、中年の執事が恭しく頭を下げる。
「お出迎え申し上げます、公爵様。そして……お客様をお連れくださったのですね」
「そうだ。今日からこちらに滞在していただく。丁重にもてなすように」
「かしこまりました」
屋敷に入ると、暖炉の香と温かな空気が包み込んだ。
ほっと息をつくと、緊張が一気に溶ける。
まるで長い冬の旅を終えて、やっと避難所にたどり着いた気分だった。
案内された客室は広く、柔らかな絨毯が敷かれていた。
窓からは雪原が見え、夜になると月光が白く反射するのだという。
クラリスが手早く荷をほどきながら、「まるで夢のようですね」とつぶやいた。
私は微笑んで頷いた。
「ええ、本当に……けれど、これは夢であってほしくないの」
その夜、ひとり部屋に残った後、私は窓辺に立った。
月が冴え冴えと輝いている。
思えば、婚約破棄された夜も同じ月を見た。
けれど今は、あのときと違って孤独ではなかった。
遠くの廊下からは、微かに人の気配がする。
あのアレン公爵が同じ屋敷にいるという事実が、なぜか心を落ち着かせた。
机の上には、公爵の書き置きが一枚。
「ここでは、誰も貴女を嘲らない。沈黙の中でも貴女が呼吸できるように」
それを読んだ途端、胸の奥に込み上げてきた何かがあった。
涙ではなかった。ただ、胸の奥があたたかくなる。
私はそっと椅子に腰を下ろし、両手を胸の上に重ねた。
――不思議ね。誰かの優しさがこんなに静かで、強いものだなんて。
窓の外では、雪が新しい夜を描き続けていた。
白い闇の中で、次の朝が来るのを穏やかに待ちながら、私はそっと目を閉じた。
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