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第7話 黒衣の公爵
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冬の嵐が去り、ヴァルディール領にもようやく春の気配が訪れ始めていた。
それでも夜はまだ冷たい。屋敷の窓を打つ風が、遠い記憶を呼び覚ますように低く鳴っていた。
あれから幾日かが過ぎ、私は少しずつこの屋敷での暮らしに馴染み始めていた。
王都での息苦しさとはまるで違う。誰も私を“氷”と呼ばない。
求められるのは飾られた笑みではなく、ただの私自身。
それだけなのに、どこか落ち着かず、戸惑うことも多かった。
「リディアお嬢様、アレン様は夕刻にお戻りになられるそうです」
クラリスが紅茶を注ぎながら言った。
「領内の視察ですか?」
「はい。新しい港の工事をご覧になるとか。……お嬢様もお誘いしようと考えておられたみたいですけれど」
「私を?」
突然の言葉に思わず声が上ずる。
「ええ。『彼女には、外の空気を見せた方がいい』と。アレン様はそう仰っていました」
外の空気、か。
王城の中では、常に磨かれた床と香油の匂いに包まれ、季節の息吹など感じたことがなかった。
やがてやってきた午後――公爵は、黒衣の外套を翻して帰ってきた。
馬上に立つ姿は、絵画の英雄のようで、厳しい空の光を受けて瞳が銀に近い灰に輝いていた。
「ただいま戻りました」
玄関に足を踏み入れると、彼はまず私を見つけて小さく笑った。
「リディア嬢。顔色が少しよくなりましたね」
「ええ、おかげさまで。こちらで過ごす日々は穏やかで……」
「穏やかすぎて退屈でしょう?」
その言葉に思わず苦笑いがこぼれる。
「確かに少し……。ですが、王都の喧騒に比べれば、ずっと心地良い退屈です」
「ならば、明日、私とともに港まで行きましょう。空気が違います。貴女の瞳にも、新しい景色を映したい」
彼の言葉はいつも、穏やかでありながらどこか抗えない力を持っていた。
断る理由など、見つけられるはずもなかった。
翌朝、私たちは馬車で領南の港へ向かった。
雪解け水で濡れた道はまだ泥を含んでいたが、冬の沈黙がようやく破れた気配があった。
途中、彼は視線を窓へ投げながら語りかける。
「海を見たことは?」
「小さい頃に一度だけ、父と旅行で。……けれど、あのときは波の音が怖かった」
「怖い?」
「終わりがないから、です。どこまで続くのか分からない青に、呑み込まれそうで」
公爵はわずかに笑った。
「今なら、どう感じます」
「今なら――自由、かもしれません」
「そうか」
彼は嬉しそうに窓の外を見やった。
その横顔に差す光が柔らかく、私の胸の奥に温かさが広がった。
やがて港に着くと、広々とした海原が目の前に広がった。
波は陽を跳ね返し、遠くの水平線が淡く揺れている。
私は思わず息を呑んだ。
「……こんなに美しいなんて」
「ここがヴァルディールの誇りです」
公爵は海風を受けながら、髪を乱すことさえ気にせず立っていた。
その背は、冷たく輝く黒衣のままで、それなのにどこか温かかった。
私たちは埠頭を歩き、工事の職人たちに挨拶を受けた。
彼らの目は驚くほど尊敬に満ちていた。
王都では貴族が民に頭を下げることなどなかったのに――
「公爵様は、皆から信頼されていますね」
「私が偉いのではなく、皆が生き延びるために支え合っているだけですよ。
貴族と民とを隔てる壁は、戦場に出れば簡単に崩れます。血を流すと誰もが同じ色になる」
その言葉に、私は息を飲んだ。
彼がただの貴族ではないことを、その瞬間に悟った。
風が強まり、裾が舞う。
彼がふと近づき、マントの端を私の肩にかけた。
「冷えますよ」
「……ありがとうございます。けれど、これではアレン様がお寒いのでは」
「貴女が寒いのを見ている方が、よほど冷える」
さりげなく告げられたその言葉に、胸が焼けついた。
海風ではない熱が、肌に残る。
「……アレン様」
声が震えそうになる。
「はい」
「殿下のこと、まだ怒っていらっしゃるのでしょうね」
公爵の表情が僅かに引き締まった。
「怒り、というよりも……理不尽が許せないのです。貴女を辱めた以上、彼はその代償を支払わねばならない」
「復讐をお考えですか?」
「貴女がそれを望むのなら、そうしましょう」
「……私は、もう望みません」
自分でも驚くほど穏やかに声が出た。
風に乗って、波が砂をなでる音が耳を掠める。
「私は、あの日の私を置いてきたのです。恨みも憎しみも、冬の底に」
公爵は静かに目を細め、やがて小さく頷いた。
「それでいい。けれど、貴女が傷つけられたことは消えません。
それでも前に進むというのなら、私は全力でその道を整える」
彼の言葉に、私の胸が熱くなる。
「貴方がいれば、私はもう恐れません」
「そう言ってもらえるなら、これほどの報酬はない」
ふと視線が重なった。
その刹那、風が止まったように感じた。
言葉も忘れて、ただ彼の瞳の奥に自分の姿を見る。
灰色のその瞳は、氷とは違う。深く、穏やかで、触れれば温もりを返す。
どれほどの時間が流れたのか分からない。
やがて職人が遠くで声を上げ、我に返った。
私は頬に紅が差していることに気づき、慌てて視線を逸らした。
帰路の馬車の中で、沈黙が続いた。
けれど、それは気まずい沈黙ではなかった。
心地よい静けさの中で、外の景色が流れていく。
林を抜けるたび、雪どけの水がきらきらと輝く。
公爵の横顔にあたる光が、まるで春の約束を誓うかのように柔らかかった。
屋敷へ戻ると、クラリスが梅茶を用意していた。
「お嬢様、お顔が赤いですよ。もしかして風邪を?」
「たぶん……春のせいね」
そう言って笑うと、クラリスは怪訝そうに首を傾げた。
私は笑みを抑えきれず、胸の奥で何かが解けていくのを感じた。
夜、眠りにつく前に、ふと窓を開けた。
凍えるはずの空気がどこか柔らかい。
遠くで狼の遠吠えが響き、森の奥に灯りがひとつ、静かに行き交って消えた。
あれは夜警の篝火だろう。そしてその中に彼もいるのかもしれない――黒衣の公爵。
「……ありがとう、アレン様」
呟きながら、私はカーテンを閉じた。
心の奥の氷は、もはや砕け落ちていた。
続く
それでも夜はまだ冷たい。屋敷の窓を打つ風が、遠い記憶を呼び覚ますように低く鳴っていた。
あれから幾日かが過ぎ、私は少しずつこの屋敷での暮らしに馴染み始めていた。
王都での息苦しさとはまるで違う。誰も私を“氷”と呼ばない。
求められるのは飾られた笑みではなく、ただの私自身。
それだけなのに、どこか落ち着かず、戸惑うことも多かった。
「リディアお嬢様、アレン様は夕刻にお戻りになられるそうです」
クラリスが紅茶を注ぎながら言った。
「領内の視察ですか?」
「はい。新しい港の工事をご覧になるとか。……お嬢様もお誘いしようと考えておられたみたいですけれど」
「私を?」
突然の言葉に思わず声が上ずる。
「ええ。『彼女には、外の空気を見せた方がいい』と。アレン様はそう仰っていました」
外の空気、か。
王城の中では、常に磨かれた床と香油の匂いに包まれ、季節の息吹など感じたことがなかった。
やがてやってきた午後――公爵は、黒衣の外套を翻して帰ってきた。
馬上に立つ姿は、絵画の英雄のようで、厳しい空の光を受けて瞳が銀に近い灰に輝いていた。
「ただいま戻りました」
玄関に足を踏み入れると、彼はまず私を見つけて小さく笑った。
「リディア嬢。顔色が少しよくなりましたね」
「ええ、おかげさまで。こちらで過ごす日々は穏やかで……」
「穏やかすぎて退屈でしょう?」
その言葉に思わず苦笑いがこぼれる。
「確かに少し……。ですが、王都の喧騒に比べれば、ずっと心地良い退屈です」
「ならば、明日、私とともに港まで行きましょう。空気が違います。貴女の瞳にも、新しい景色を映したい」
彼の言葉はいつも、穏やかでありながらどこか抗えない力を持っていた。
断る理由など、見つけられるはずもなかった。
翌朝、私たちは馬車で領南の港へ向かった。
雪解け水で濡れた道はまだ泥を含んでいたが、冬の沈黙がようやく破れた気配があった。
途中、彼は視線を窓へ投げながら語りかける。
「海を見たことは?」
「小さい頃に一度だけ、父と旅行で。……けれど、あのときは波の音が怖かった」
「怖い?」
「終わりがないから、です。どこまで続くのか分からない青に、呑み込まれそうで」
公爵はわずかに笑った。
「今なら、どう感じます」
「今なら――自由、かもしれません」
「そうか」
彼は嬉しそうに窓の外を見やった。
その横顔に差す光が柔らかく、私の胸の奥に温かさが広がった。
やがて港に着くと、広々とした海原が目の前に広がった。
波は陽を跳ね返し、遠くの水平線が淡く揺れている。
私は思わず息を呑んだ。
「……こんなに美しいなんて」
「ここがヴァルディールの誇りです」
公爵は海風を受けながら、髪を乱すことさえ気にせず立っていた。
その背は、冷たく輝く黒衣のままで、それなのにどこか温かかった。
私たちは埠頭を歩き、工事の職人たちに挨拶を受けた。
彼らの目は驚くほど尊敬に満ちていた。
王都では貴族が民に頭を下げることなどなかったのに――
「公爵様は、皆から信頼されていますね」
「私が偉いのではなく、皆が生き延びるために支え合っているだけですよ。
貴族と民とを隔てる壁は、戦場に出れば簡単に崩れます。血を流すと誰もが同じ色になる」
その言葉に、私は息を飲んだ。
彼がただの貴族ではないことを、その瞬間に悟った。
風が強まり、裾が舞う。
彼がふと近づき、マントの端を私の肩にかけた。
「冷えますよ」
「……ありがとうございます。けれど、これではアレン様がお寒いのでは」
「貴女が寒いのを見ている方が、よほど冷える」
さりげなく告げられたその言葉に、胸が焼けついた。
海風ではない熱が、肌に残る。
「……アレン様」
声が震えそうになる。
「はい」
「殿下のこと、まだ怒っていらっしゃるのでしょうね」
公爵の表情が僅かに引き締まった。
「怒り、というよりも……理不尽が許せないのです。貴女を辱めた以上、彼はその代償を支払わねばならない」
「復讐をお考えですか?」
「貴女がそれを望むのなら、そうしましょう」
「……私は、もう望みません」
自分でも驚くほど穏やかに声が出た。
風に乗って、波が砂をなでる音が耳を掠める。
「私は、あの日の私を置いてきたのです。恨みも憎しみも、冬の底に」
公爵は静かに目を細め、やがて小さく頷いた。
「それでいい。けれど、貴女が傷つけられたことは消えません。
それでも前に進むというのなら、私は全力でその道を整える」
彼の言葉に、私の胸が熱くなる。
「貴方がいれば、私はもう恐れません」
「そう言ってもらえるなら、これほどの報酬はない」
ふと視線が重なった。
その刹那、風が止まったように感じた。
言葉も忘れて、ただ彼の瞳の奥に自分の姿を見る。
灰色のその瞳は、氷とは違う。深く、穏やかで、触れれば温もりを返す。
どれほどの時間が流れたのか分からない。
やがて職人が遠くで声を上げ、我に返った。
私は頬に紅が差していることに気づき、慌てて視線を逸らした。
帰路の馬車の中で、沈黙が続いた。
けれど、それは気まずい沈黙ではなかった。
心地よい静けさの中で、外の景色が流れていく。
林を抜けるたび、雪どけの水がきらきらと輝く。
公爵の横顔にあたる光が、まるで春の約束を誓うかのように柔らかかった。
屋敷へ戻ると、クラリスが梅茶を用意していた。
「お嬢様、お顔が赤いですよ。もしかして風邪を?」
「たぶん……春のせいね」
そう言って笑うと、クラリスは怪訝そうに首を傾げた。
私は笑みを抑えきれず、胸の奥で何かが解けていくのを感じた。
夜、眠りにつく前に、ふと窓を開けた。
凍えるはずの空気がどこか柔らかい。
遠くで狼の遠吠えが響き、森の奥に灯りがひとつ、静かに行き交って消えた。
あれは夜警の篝火だろう。そしてその中に彼もいるのかもしれない――黒衣の公爵。
「……ありがとう、アレン様」
呟きながら、私はカーテンを閉じた。
心の奥の氷は、もはや砕け落ちていた。
続く
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