8 / 10
第8話 優しさに触れた指先
しおりを挟む
アレン公爵の領地で暮らし始めてから、いつの間にか一か月が過ぎていた。
冬の名残りはまだ屋根の端に白く残っているものの、庭の雪はすっかり融け、土の匂いが日差しと一緒に広がっている。小鳥のさえずりも戻り、屋敷の中庭には、春を告げる黄色い花が咲き始めていた。
私はその小さな花に触れようとして、ふとためらう。指先が震えた。
「怖いの?」と背後から声がした。
振り返ると、アレンがいつの間にか立っていた。黒衣の外套は脱ぎ、今日は白いシャツに淡い青のベスト。
穏やかな光が彼の髪を照らし、灰の瞳が柔らかくきらめいている。
「花がですか?」
「いや、触れることが」
「……ええ。壊してしまいそうで」
彼はゆっくりと近づき、私の手を取った。驚いたのは、その指が思ったよりも温かかったこと。
「触れるとは、壊すことではないですよ」
言いながら、彼は私の手を花の茎のあたりへ導いた。
「力を抜いて。感じてください」
私は息を詰め、指先で花弁に触れた。柔らかく、かすかに震え、陽の香がした。
「……綺麗」
「ええ。生命はほんの少しの温もりで呼吸をする」
彼の声が背後から静かに響く。その距離が近く、息を吸うたびに彼の体温を感じる。
心臓が跳ねた。
「私も、冷たいままではいられないと、最近思います」
「それは良いことです」
「でも、それが怖くもあるのです。氷が溶けてしまえば、私はただの普通の女。それでは何も守れない」
「守るために凍りついていたあなたが、今、ようやく生き始めた。それは失うことではなく、取り戻すことですよ」
私はそっと彼を見上げた。
灰色の瞳――けれどその奥には春のような柔らかい光が揺らいでいる。
言葉を返そうとしたが、のどがうまく動かず、何かを飲み込んだ。
「……リディア嬢」
「はい」
「王都からの使者がまた来ています。あなたへ宛てた手紙も」
「私に?」
胸の奥がきゅっと痛んだ。過去が再び、私を見つけようとしている。
アレンは小さな封筒を差し出した。封蝋には王家の紋章。
受け取る指がかすかに震える。
「開けても?」
「ご自由に。ただ読む前に言っておきます。どんな言葉が書かれていようと、あなたの価値は変わらない」
「……ありがとう」
封を切ると、整った書体で書かれた文章が目に飛び込んだ。
《リディア=グランベル侯爵令嬢。王太子殿下は過日の断罪を悔い、あなたに謝罪の意を表したいとのこと。ついては、来月の舞踏会へ出席を願う》
信じられなかった。指先が勝手に震え、紙がかさりと音を立てた。
「謝罪……? 今さら?」
「彼にとっては、名誉の修復が必要なのだろう」
冷ややかにアレンが言う。
「王家の失策を覆うためには、あなたの赦しが都合がいい」
落胆とも怒りともつかない感情が胸の中で交錯する。
あの夜、断罪の場で私を見下ろした彼の目。人々の前で冷たく宣告したあの声。
それを思い出しただけで、手が震える。
「私が戻れば、彼らは再び私を利用するでしょう」
「戻る気があるのですか?」
「……いいえ。しかし、逃げていると思われたくないのも本音です」
アレンは少し黙り、静かに頷いた。
「正々堂々と立ち向かう。それがあなたの流儀だ」
「私は、貴族として間違いを正すための言葉を持ちたい。恐怖でも恨みでもなく、誇りとして」
「ならば、私が同行しましょう。」
「でも……これは王国の内情。隣国の公爵が同行すれば大事になります」
「構いません。あなたを再び独りで立たせる気はない」
その強い言葉に胸が揺れた。
「……すみません。私、また貴方に守られてばかり」
「守らせてほしいと思うのは、あなたのせいですよ」
その言葉に息が詰まり、思わず視線を伏せた。
彼は少し近づくと、そっと私の右手を取った。
「この震えは怖れか、それとも怒りか?」
「わかりません。ただ、心が追いつかないのです」
「なら、落ち着くまで待ちましょう」
そう言いながら、彼は私の指を包み込むように握った。
その掌は驚くほど温かくて、血の巡りが指先から戻ってくるような錯覚を覚えた。
指先が触れる。それだけで、世界が変わることを知る。
「……リディア」
初めて、敬称をつけずに彼が私の名を呼んだ。驚いて顔を上げると、その瞳に映る私は、少し笑っていた。
「はい、アレン様……いいえ、アレン」
呼んだ途端、胸の奥が柔らかく満たされた。彼は目を細め、かすかに頬を染めた。
外では、春の風が吹き抜けて、窓に吊るされたカーテンを揺らす。
その風の中、私は思う。――この人に出会わなければ、私の心は永遠に凍りついたままだった。
けれど今は、氷の奥にあった水が静かに流れ出している。
その夜、私は眠れなかった。手紙を何度も取り出しては、結局読まずに引き出しへ戻す。
アレンの顔、声、手の温もりが離れない。
そして胸の奥にひとつの決意が生まれた。
私は、過去に決着をつける。
王太子の前で、涙も恐れもなく、自らの言葉で“終わり”を告げる。
翌朝、窓の外では夜明けの光が差し込み、世界がまるで洗われたように澄んでいた。
私はその光を見つめながら、小さく呟いた。
「私は、もう“氷の令嬢”ではない」
その声は驚くほど澄んでいて、自分のものとは思えなかった。
そして、胸の奥に浮かんだのは、前日アレンが私を見たときの、優しい瞳の色。
あの灰の光に包まれる夢を見ながら、私は静かに目を閉じた。
続く
冬の名残りはまだ屋根の端に白く残っているものの、庭の雪はすっかり融け、土の匂いが日差しと一緒に広がっている。小鳥のさえずりも戻り、屋敷の中庭には、春を告げる黄色い花が咲き始めていた。
私はその小さな花に触れようとして、ふとためらう。指先が震えた。
「怖いの?」と背後から声がした。
振り返ると、アレンがいつの間にか立っていた。黒衣の外套は脱ぎ、今日は白いシャツに淡い青のベスト。
穏やかな光が彼の髪を照らし、灰の瞳が柔らかくきらめいている。
「花がですか?」
「いや、触れることが」
「……ええ。壊してしまいそうで」
彼はゆっくりと近づき、私の手を取った。驚いたのは、その指が思ったよりも温かかったこと。
「触れるとは、壊すことではないですよ」
言いながら、彼は私の手を花の茎のあたりへ導いた。
「力を抜いて。感じてください」
私は息を詰め、指先で花弁に触れた。柔らかく、かすかに震え、陽の香がした。
「……綺麗」
「ええ。生命はほんの少しの温もりで呼吸をする」
彼の声が背後から静かに響く。その距離が近く、息を吸うたびに彼の体温を感じる。
心臓が跳ねた。
「私も、冷たいままではいられないと、最近思います」
「それは良いことです」
「でも、それが怖くもあるのです。氷が溶けてしまえば、私はただの普通の女。それでは何も守れない」
「守るために凍りついていたあなたが、今、ようやく生き始めた。それは失うことではなく、取り戻すことですよ」
私はそっと彼を見上げた。
灰色の瞳――けれどその奥には春のような柔らかい光が揺らいでいる。
言葉を返そうとしたが、のどがうまく動かず、何かを飲み込んだ。
「……リディア嬢」
「はい」
「王都からの使者がまた来ています。あなたへ宛てた手紙も」
「私に?」
胸の奥がきゅっと痛んだ。過去が再び、私を見つけようとしている。
アレンは小さな封筒を差し出した。封蝋には王家の紋章。
受け取る指がかすかに震える。
「開けても?」
「ご自由に。ただ読む前に言っておきます。どんな言葉が書かれていようと、あなたの価値は変わらない」
「……ありがとう」
封を切ると、整った書体で書かれた文章が目に飛び込んだ。
《リディア=グランベル侯爵令嬢。王太子殿下は過日の断罪を悔い、あなたに謝罪の意を表したいとのこと。ついては、来月の舞踏会へ出席を願う》
信じられなかった。指先が勝手に震え、紙がかさりと音を立てた。
「謝罪……? 今さら?」
「彼にとっては、名誉の修復が必要なのだろう」
冷ややかにアレンが言う。
「王家の失策を覆うためには、あなたの赦しが都合がいい」
落胆とも怒りともつかない感情が胸の中で交錯する。
あの夜、断罪の場で私を見下ろした彼の目。人々の前で冷たく宣告したあの声。
それを思い出しただけで、手が震える。
「私が戻れば、彼らは再び私を利用するでしょう」
「戻る気があるのですか?」
「……いいえ。しかし、逃げていると思われたくないのも本音です」
アレンは少し黙り、静かに頷いた。
「正々堂々と立ち向かう。それがあなたの流儀だ」
「私は、貴族として間違いを正すための言葉を持ちたい。恐怖でも恨みでもなく、誇りとして」
「ならば、私が同行しましょう。」
「でも……これは王国の内情。隣国の公爵が同行すれば大事になります」
「構いません。あなたを再び独りで立たせる気はない」
その強い言葉に胸が揺れた。
「……すみません。私、また貴方に守られてばかり」
「守らせてほしいと思うのは、あなたのせいですよ」
その言葉に息が詰まり、思わず視線を伏せた。
彼は少し近づくと、そっと私の右手を取った。
「この震えは怖れか、それとも怒りか?」
「わかりません。ただ、心が追いつかないのです」
「なら、落ち着くまで待ちましょう」
そう言いながら、彼は私の指を包み込むように握った。
その掌は驚くほど温かくて、血の巡りが指先から戻ってくるような錯覚を覚えた。
指先が触れる。それだけで、世界が変わることを知る。
「……リディア」
初めて、敬称をつけずに彼が私の名を呼んだ。驚いて顔を上げると、その瞳に映る私は、少し笑っていた。
「はい、アレン様……いいえ、アレン」
呼んだ途端、胸の奥が柔らかく満たされた。彼は目を細め、かすかに頬を染めた。
外では、春の風が吹き抜けて、窓に吊るされたカーテンを揺らす。
その風の中、私は思う。――この人に出会わなければ、私の心は永遠に凍りついたままだった。
けれど今は、氷の奥にあった水が静かに流れ出している。
その夜、私は眠れなかった。手紙を何度も取り出しては、結局読まずに引き出しへ戻す。
アレンの顔、声、手の温もりが離れない。
そして胸の奥にひとつの決意が生まれた。
私は、過去に決着をつける。
王太子の前で、涙も恐れもなく、自らの言葉で“終わり”を告げる。
翌朝、窓の外では夜明けの光が差し込み、世界がまるで洗われたように澄んでいた。
私はその光を見つめながら、小さく呟いた。
「私は、もう“氷の令嬢”ではない」
その声は驚くほど澄んでいて、自分のものとは思えなかった。
そして、胸の奥に浮かんだのは、前日アレンが私を見たときの、優しい瞳の色。
あの灰の光に包まれる夢を見ながら、私は静かに目を閉じた。
続く
0
あなたにおすすめの小説
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
結婚十年目の夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。彼は「送り間違えた」というけれど、それはそれで問題なのでは?
ぽんた
恋愛
レミ・マカリスター侯爵夫人は、夫と政略結婚をして十周年。侯爵夫人として、義父母の介護や領地経営その他もろもろを完ぺきにこなしている。そんなある日、王都に住む夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。義弟を通じ、夫を追求するも夫は「送り間違えた。ほんとうは金を送れというメモを送りたかった」という。レミは、心から思った。「それはそれで問題なのでは?」、と。そして、彼女の夫にたいするざまぁがはじまる。
※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った
五珠 izumi
恋愛
「明日、婚約破棄するから」
8年もの婚約者、マリス王子にそう言われた私は泣き出しそうになるのを堪えてその場を後にした。
婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい
神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。
嘘でしょう。
その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。
そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。
「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」
もう誰かが護ってくれるなんて思わない。
ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。
だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。
「ぜひ辺境へ来て欲しい」
※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m
総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ ありがとうございます<(_ _)>
殿下が恋をしたいと言うのでさせてみる事にしました。婚約者候補からは外れますね
さこの
恋愛
恋がしたい。
ウィルフレッド殿下が言った…
それではどうぞ、美しい恋をしてください。
婚約者候補から外れるようにと同じく婚約者候補のマドレーヌ様が話をつけてくださりました!
話の視点が回毎に変わることがあります。
緩い設定です。二十話程です。
本編+番外編の別視点
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
あなたなんて大嫌い
みおな
恋愛
私の婚約者の侯爵子息は、義妹のことばかり優先して、私はいつも我慢ばかり強いられていました。
そんなある日、彼が幼馴染だと言い張る伯爵令嬢を抱きしめて愛を囁いているのを聞いてしまいます。
そうですか。
私の婚約者は、私以外の人ばかりが大切なのですね。
私はあなたのお財布ではありません。
あなたなんて大嫌い。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる