氷の令嬢は断罪を笑う 〜婚約破棄した元婚約者が泣いて縋ってももう遅い、私は本物の愛を知ったから〜

hotate

文字の大きさ
7 / 10

第7話 黒衣の公爵

しおりを挟む
冬の嵐が去り、ヴァルディール領にもようやく春の気配が訪れ始めていた。  
それでも夜はまだ冷たい。屋敷の窓を打つ風が、遠い記憶を呼び覚ますように低く鳴っていた。  

あれから幾日かが過ぎ、私は少しずつこの屋敷での暮らしに馴染み始めていた。  
王都での息苦しさとはまるで違う。誰も私を“氷”と呼ばない。  
求められるのは飾られた笑みではなく、ただの私自身。  
それだけなのに、どこか落ち着かず、戸惑うことも多かった。  

「リディアお嬢様、アレン様は夕刻にお戻りになられるそうです」  
クラリスが紅茶を注ぎながら言った。  
「領内の視察ですか?」  
「はい。新しい港の工事をご覧になるとか。……お嬢様もお誘いしようと考えておられたみたいですけれど」  
「私を?」  
突然の言葉に思わず声が上ずる。  
「ええ。『彼女には、外の空気を見せた方がいい』と。アレン様はそう仰っていました」  

外の空気、か。  
王城の中では、常に磨かれた床と香油の匂いに包まれ、季節の息吹など感じたことがなかった。  
やがてやってきた午後――公爵は、黒衣の外套を翻して帰ってきた。  
馬上に立つ姿は、絵画の英雄のようで、厳しい空の光を受けて瞳が銀に近い灰に輝いていた。  

「ただいま戻りました」  
玄関に足を踏み入れると、彼はまず私を見つけて小さく笑った。  
「リディア嬢。顔色が少しよくなりましたね」  
「ええ、おかげさまで。こちらで過ごす日々は穏やかで……」  
「穏やかすぎて退屈でしょう?」  
その言葉に思わず苦笑いがこぼれる。  
「確かに少し……。ですが、王都の喧騒に比べれば、ずっと心地良い退屈です」  
「ならば、明日、私とともに港まで行きましょう。空気が違います。貴女の瞳にも、新しい景色を映したい」  

彼の言葉はいつも、穏やかでありながらどこか抗えない力を持っていた。  
断る理由など、見つけられるはずもなかった。

翌朝、私たちは馬車で領南の港へ向かった。  
雪解け水で濡れた道はまだ泥を含んでいたが、冬の沈黙がようやく破れた気配があった。  
途中、彼は視線を窓へ投げながら語りかける。  
「海を見たことは?」  
「小さい頃に一度だけ、父と旅行で。……けれど、あのときは波の音が怖かった」  
「怖い?」  
「終わりがないから、です。どこまで続くのか分からない青に、呑み込まれそうで」  
公爵はわずかに笑った。  
「今なら、どう感じます」  
「今なら――自由、かもしれません」  
「そうか」  
彼は嬉しそうに窓の外を見やった。  
その横顔に差す光が柔らかく、私の胸の奥に温かさが広がった。  

やがて港に着くと、広々とした海原が目の前に広がった。  
波は陽を跳ね返し、遠くの水平線が淡く揺れている。  
私は思わず息を呑んだ。  
「……こんなに美しいなんて」  
「ここがヴァルディールの誇りです」  
公爵は海風を受けながら、髪を乱すことさえ気にせず立っていた。  
その背は、冷たく輝く黒衣のままで、それなのにどこか温かかった。  

私たちは埠頭を歩き、工事の職人たちに挨拶を受けた。  
彼らの目は驚くほど尊敬に満ちていた。  
王都では貴族が民に頭を下げることなどなかったのに――  
「公爵様は、皆から信頼されていますね」  
「私が偉いのではなく、皆が生き延びるために支え合っているだけですよ。  
貴族と民とを隔てる壁は、戦場に出れば簡単に崩れます。血を流すと誰もが同じ色になる」  
その言葉に、私は息を飲んだ。  
彼がただの貴族ではないことを、その瞬間に悟った。  

風が強まり、裾が舞う。  
彼がふと近づき、マントの端を私の肩にかけた。  
「冷えますよ」  
「……ありがとうございます。けれど、これではアレン様がお寒いのでは」  
「貴女が寒いのを見ている方が、よほど冷える」  
さりげなく告げられたその言葉に、胸が焼けついた。  
海風ではない熱が、肌に残る。  

「……アレン様」  
声が震えそうになる。  
「はい」  
「殿下のこと、まだ怒っていらっしゃるのでしょうね」  
公爵の表情が僅かに引き締まった。  
「怒り、というよりも……理不尽が許せないのです。貴女を辱めた以上、彼はその代償を支払わねばならない」  
「復讐をお考えですか?」  
「貴女がそれを望むのなら、そうしましょう」  
「……私は、もう望みません」  
自分でも驚くほど穏やかに声が出た。  
風に乗って、波が砂をなでる音が耳を掠める。  
「私は、あの日の私を置いてきたのです。恨みも憎しみも、冬の底に」  

公爵は静かに目を細め、やがて小さく頷いた。  
「それでいい。けれど、貴女が傷つけられたことは消えません。  
それでも前に進むというのなら、私は全力でその道を整える」  
彼の言葉に、私の胸が熱くなる。  
「貴方がいれば、私はもう恐れません」  
「そう言ってもらえるなら、これほどの報酬はない」  

ふと視線が重なった。  
その刹那、風が止まったように感じた。  
言葉も忘れて、ただ彼の瞳の奥に自分の姿を見る。  
灰色のその瞳は、氷とは違う。深く、穏やかで、触れれば温もりを返す。  

どれほどの時間が流れたのか分からない。  
やがて職人が遠くで声を上げ、我に返った。  
私は頬に紅が差していることに気づき、慌てて視線を逸らした。  

帰路の馬車の中で、沈黙が続いた。  
けれど、それは気まずい沈黙ではなかった。  
心地よい静けさの中で、外の景色が流れていく。  
林を抜けるたび、雪どけの水がきらきらと輝く。  
公爵の横顔にあたる光が、まるで春の約束を誓うかのように柔らかかった。  

屋敷へ戻ると、クラリスが梅茶を用意していた。  
「お嬢様、お顔が赤いですよ。もしかして風邪を?」  
「たぶん……春のせいね」  
そう言って笑うと、クラリスは怪訝そうに首を傾げた。  
私は笑みを抑えきれず、胸の奥で何かが解けていくのを感じた。  

夜、眠りにつく前に、ふと窓を開けた。  
凍えるはずの空気がどこか柔らかい。  
遠くで狼の遠吠えが響き、森の奥に灯りがひとつ、静かに行き交って消えた。  
あれは夜警の篝火だろう。そしてその中に彼もいるのかもしれない――黒衣の公爵。  

「……ありがとう、アレン様」  
呟きながら、私はカーテンを閉じた。  
心の奥の氷は、もはや砕け落ちていた。  

続く
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

結婚十年目の夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。彼は「送り間違えた」というけれど、それはそれで問題なのでは?

ぽんた
恋愛
レミ・マカリスター侯爵夫人は、夫と政略結婚をして十周年。侯爵夫人として、義父母の介護や領地経営その他もろもろを完ぺきにこなしている。そんなある日、王都に住む夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。義弟を通じ、夫を追求するも夫は「送り間違えた。ほんとうは金を送れというメモを送りたかった」という。レミは、心から思った。「それはそれで問題なのでは?」、と。そして、彼女の夫にたいするざまぁがはじまる。 ※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った

五珠 izumi
恋愛
「明日、婚約破棄するから」 8年もの婚約者、マリス王子にそう言われた私は泣き出しそうになるのを堪えてその場を後にした。

婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい

神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。  嘘でしょう。  その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。  そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。 「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」  もう誰かが護ってくれるなんて思わない。  ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。  だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。 「ぜひ辺境へ来て欲しい」  ※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m  総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ  ありがとうございます<(_ _)>

殿下が恋をしたいと言うのでさせてみる事にしました。婚約者候補からは外れますね

さこの
恋愛
恋がしたい。 ウィルフレッド殿下が言った… それではどうぞ、美しい恋をしてください。 婚約者候補から外れるようにと同じく婚約者候補のマドレーヌ様が話をつけてくださりました! 話の視点が回毎に変わることがあります。 緩い設定です。二十話程です。 本編+番外編の別視点

彼女の離縁とその波紋

豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。

あなたなんて大嫌い

みおな
恋愛
 私の婚約者の侯爵子息は、義妹のことばかり優先して、私はいつも我慢ばかり強いられていました。  そんなある日、彼が幼馴染だと言い張る伯爵令嬢を抱きしめて愛を囁いているのを聞いてしまいます。  そうですか。 私の婚約者は、私以外の人ばかりが大切なのですね。  私はあなたのお財布ではありません。 あなたなんて大嫌い。

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

処理中です...