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第6話 凍てつく夜の出会い
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雪の夜は、世界をすっかり沈黙させる。
風の音さえ吸い込んでしまうような静寂の中、私は暖炉の前でひとり、揺らぐ炎を見つめていた。
その光が、過去と未来を隔てる境界線のように、ゆらゆらと行方を定めずに燃え続けている。
この三日間、アレン公爵は公務のために隣領へ出向いていた。
屋敷には彼の姿こそなかったが、どこか彼の気配が漂っていた。
――言葉ではなく、存在そのものが空気に染みついているのだと感じる。
彼がいないのに、安心できるのは不思議なことだった。
クラリスは早々に休み、屋敷中が静まり返った頃。
私は窓の外へ目をやった。雪の帳が分厚く垂れ込め、森の奥は白の向こうに沈んでいる。
そんな中、灯火がひとつ、遠くの街道を揺らめきながら進んでくるのが見えた。
「……今夜、誰かが?」
こんな天候の中を旅する者など珍しい。
その小さな光はゆっくりと近づいてきて、やがて門番の松明に気づき、止まる。
警備兵の声が短く交わされ、門が開かれる様子が見えた。
私は胸の奥がざわめくのを感じた。灯火の主は、どこか既視感を伴っていたのだ。
と、廊下の奥で足音がした。
「リディア嬢、まだお休みになられていませんでしたか」
振り向くと、侍従長の老執事が立っていた。
「今しがた、公爵様が戻られました」
「え……? この雪の中を?」
「ええ。領境で予想外の報せがあったそうで、予定を切り上げて戻ってこられたのです」
胸の中に不思議な安堵が広がった。
会いたいわけではなかった――そう言いかけて、私はその言葉を呑み込んだ。
会いたい。
そう心の奥で声が響いたのだから。
私はコートを羽織り、急ぎ玄関へ向かった。
扉が開くと、吹き込む風に雪片が舞い込む。
その中に立っていたのは、灰の瞳をわずかに光らせる男。
「……夜にお出迎えなど、貴女らしくない」
「こんな夜にお戻りになられるのは、もっとらしくありません」
顔を合わせた瞬間、微笑がこぼれた。
彼もまた、疲れを隠すように唇の端をわずかに上げる。
「凍えるような道中でした。けれど、ここに灯りが見えたとき、不思議と温かさを感じた」
「この屋敷の灯りではなく?」
「違います。あなたのために戻ってきた灯りです」
その言葉に、胸が早鐘のように高鳴った。
心が揺れたのは、その響きが本心のように感じられたからだ。
まるで言葉の裏に熱がある――そんな感覚。
「……中へどうぞ。凍えたままでは、お身体に障ります」
侍従が外套を受け取りながら言う間に、私は控えの間に火を足した。
彼が暖炉の前に立ったとき、雪解けの雫が一筋、髪から肩へ落ちた。
その様が、なぜか目を離せないほど美しかった。
「旅の途中、古い文書を見つけてね」
彼は鞄から一枚の羊皮紙を取り出した。
「王国とヴァルディールの最初の条約だ。……そこに興味深いことが書かれていた」
「興味深いこと?」
「“王が民を守らぬとき、公爵はその民に代わって王を正す義を負う”」
「……つまり、貴方には、王にも意見できる権利があるのですね」
「そういうことになります」
彼が紙を指で弾きながら微笑む。
「この条約を王都に送り返した。王太子は、あの釈明会を計画している最中だそうだが――あまり無茶はできなくなるだろう」
「アレン様が……抑えてくださったのですね」
「貴女を蔑ろにした者たちを、同じ場で笑わせることはもうさせない」
私は胸の奥で、知らず息を詰めていた。
怒りや憎しみではなく、その優しさが痛い。
守られているという実感を、こんなにも望んでいたのか。
「ありがとうございます……でも、本当にそんなことをしてくださって、よろしかったのですか」
「私はただ、自分の流儀を貫いただけだ。約束は守る。それが貴族の矜持だ」
「……そうですね」
彼の言葉が、遠い昔、自分が抱いていた“理想”を思い出させた。
かつて私も、誇りある者でありたいと願っていたのに。
「それに」
彼がもう一歩、距離を詰める。
「私はあなたに、笑ってほしい」
「え……?」
「初めて会った夜、あなたは笑っていたでしょう。あの微笑みを、もう一度見たい」
一瞬の沈黙。
炎がはぜ、薪の匂いが広がる。
言葉が出せないまま、私は彼を見上げた。
近すぎる距離に、息が触れ合いそうになる。
「笑うなんて、簡単では――」
「ええ、そうでしょう。でも、貴女はもう氷ではない」
その言葉が、胸の奥のどこか柔らかい部分に触れた。
ぐらりと、心の奥の何かが動く。
彼のまっすぐな灰色の瞳に見つめられて、私は気づいた。
その瞳の奥には、戦の記憶ではなく、私を映す今の光がある。
「……アレン様」
「はい」
「ありがとうございます。貴方がいなければ、私はまだ壊れかけのままでした」
「私はただ、隣で火を灯しただけです」
笑みがこぼれた。
自然な笑み。
それだけで彼が、少し安堵したように微笑んだ。
それから少しして、クラリスが寝ぼけまなこで顔を出すと、暖炉の前に座る私たちを見て目を丸くした。
「お、お嬢様!? こんな時間まで……!」
「心配いらないよ、クラリス。少し話をしていただけ」
「す、少しって……!」
慌てる彼女を見て、アレンが穏やかに笑う。
「君の主は、もう氷の令嬢ではないようだ」
その言葉に、クラリスが顔を赤らめてうつむいた。
やがて再び沈黙が戻った。
外では雪がまだ降り続けている。
けれど、暖炉の炎の音が心地よく響き、胸の内も穏やかに満たされていた。
それでも――夜が深まるほどに、心の奥底では小さな不安が目を覚ます。
幸せの予感と同時に、過去の影が忍び寄るような予感。
城を追われた日の記憶、殿下の蔑む瞳。
そのすべてが、再び私の名を貶めようとしている。
アレンはその揺らぎを見抜いたように、声を落とした。
「リディア、迷うときは遠慮なく言ってくれ」
「迷い……ですか」
「恐れでも構わない。貴女が沈黙の中に閉じこもるなら、私は何度でも声をかける」
「……本当に、そんなことを」
「約束します」
彼の声が、夜の静寂を優しく破る。
遠くの雪が、まるでその言葉に応えるようにまた舞い散った。
その光景を見つめながら、私は小さく頷く。
今はただ、この灯りの中で、生きていたかった。
長い冬の終わりは、きっとすぐそこにある。
そう信じられるくらいには、私はもう凍てついてはいない。
続く
風の音さえ吸い込んでしまうような静寂の中、私は暖炉の前でひとり、揺らぐ炎を見つめていた。
その光が、過去と未来を隔てる境界線のように、ゆらゆらと行方を定めずに燃え続けている。
この三日間、アレン公爵は公務のために隣領へ出向いていた。
屋敷には彼の姿こそなかったが、どこか彼の気配が漂っていた。
――言葉ではなく、存在そのものが空気に染みついているのだと感じる。
彼がいないのに、安心できるのは不思議なことだった。
クラリスは早々に休み、屋敷中が静まり返った頃。
私は窓の外へ目をやった。雪の帳が分厚く垂れ込め、森の奥は白の向こうに沈んでいる。
そんな中、灯火がひとつ、遠くの街道を揺らめきながら進んでくるのが見えた。
「……今夜、誰かが?」
こんな天候の中を旅する者など珍しい。
その小さな光はゆっくりと近づいてきて、やがて門番の松明に気づき、止まる。
警備兵の声が短く交わされ、門が開かれる様子が見えた。
私は胸の奥がざわめくのを感じた。灯火の主は、どこか既視感を伴っていたのだ。
と、廊下の奥で足音がした。
「リディア嬢、まだお休みになられていませんでしたか」
振り向くと、侍従長の老執事が立っていた。
「今しがた、公爵様が戻られました」
「え……? この雪の中を?」
「ええ。領境で予想外の報せがあったそうで、予定を切り上げて戻ってこられたのです」
胸の中に不思議な安堵が広がった。
会いたいわけではなかった――そう言いかけて、私はその言葉を呑み込んだ。
会いたい。
そう心の奥で声が響いたのだから。
私はコートを羽織り、急ぎ玄関へ向かった。
扉が開くと、吹き込む風に雪片が舞い込む。
その中に立っていたのは、灰の瞳をわずかに光らせる男。
「……夜にお出迎えなど、貴女らしくない」
「こんな夜にお戻りになられるのは、もっとらしくありません」
顔を合わせた瞬間、微笑がこぼれた。
彼もまた、疲れを隠すように唇の端をわずかに上げる。
「凍えるような道中でした。けれど、ここに灯りが見えたとき、不思議と温かさを感じた」
「この屋敷の灯りではなく?」
「違います。あなたのために戻ってきた灯りです」
その言葉に、胸が早鐘のように高鳴った。
心が揺れたのは、その響きが本心のように感じられたからだ。
まるで言葉の裏に熱がある――そんな感覚。
「……中へどうぞ。凍えたままでは、お身体に障ります」
侍従が外套を受け取りながら言う間に、私は控えの間に火を足した。
彼が暖炉の前に立ったとき、雪解けの雫が一筋、髪から肩へ落ちた。
その様が、なぜか目を離せないほど美しかった。
「旅の途中、古い文書を見つけてね」
彼は鞄から一枚の羊皮紙を取り出した。
「王国とヴァルディールの最初の条約だ。……そこに興味深いことが書かれていた」
「興味深いこと?」
「“王が民を守らぬとき、公爵はその民に代わって王を正す義を負う”」
「……つまり、貴方には、王にも意見できる権利があるのですね」
「そういうことになります」
彼が紙を指で弾きながら微笑む。
「この条約を王都に送り返した。王太子は、あの釈明会を計画している最中だそうだが――あまり無茶はできなくなるだろう」
「アレン様が……抑えてくださったのですね」
「貴女を蔑ろにした者たちを、同じ場で笑わせることはもうさせない」
私は胸の奥で、知らず息を詰めていた。
怒りや憎しみではなく、その優しさが痛い。
守られているという実感を、こんなにも望んでいたのか。
「ありがとうございます……でも、本当にそんなことをしてくださって、よろしかったのですか」
「私はただ、自分の流儀を貫いただけだ。約束は守る。それが貴族の矜持だ」
「……そうですね」
彼の言葉が、遠い昔、自分が抱いていた“理想”を思い出させた。
かつて私も、誇りある者でありたいと願っていたのに。
「それに」
彼がもう一歩、距離を詰める。
「私はあなたに、笑ってほしい」
「え……?」
「初めて会った夜、あなたは笑っていたでしょう。あの微笑みを、もう一度見たい」
一瞬の沈黙。
炎がはぜ、薪の匂いが広がる。
言葉が出せないまま、私は彼を見上げた。
近すぎる距離に、息が触れ合いそうになる。
「笑うなんて、簡単では――」
「ええ、そうでしょう。でも、貴女はもう氷ではない」
その言葉が、胸の奥のどこか柔らかい部分に触れた。
ぐらりと、心の奥の何かが動く。
彼のまっすぐな灰色の瞳に見つめられて、私は気づいた。
その瞳の奥には、戦の記憶ではなく、私を映す今の光がある。
「……アレン様」
「はい」
「ありがとうございます。貴方がいなければ、私はまだ壊れかけのままでした」
「私はただ、隣で火を灯しただけです」
笑みがこぼれた。
自然な笑み。
それだけで彼が、少し安堵したように微笑んだ。
それから少しして、クラリスが寝ぼけまなこで顔を出すと、暖炉の前に座る私たちを見て目を丸くした。
「お、お嬢様!? こんな時間まで……!」
「心配いらないよ、クラリス。少し話をしていただけ」
「す、少しって……!」
慌てる彼女を見て、アレンが穏やかに笑う。
「君の主は、もう氷の令嬢ではないようだ」
その言葉に、クラリスが顔を赤らめてうつむいた。
やがて再び沈黙が戻った。
外では雪がまだ降り続けている。
けれど、暖炉の炎の音が心地よく響き、胸の内も穏やかに満たされていた。
それでも――夜が深まるほどに、心の奥底では小さな不安が目を覚ます。
幸せの予感と同時に、過去の影が忍び寄るような予感。
城を追われた日の記憶、殿下の蔑む瞳。
そのすべてが、再び私の名を貶めようとしている。
アレンはその揺らぎを見抜いたように、声を落とした。
「リディア、迷うときは遠慮なく言ってくれ」
「迷い……ですか」
「恐れでも構わない。貴女が沈黙の中に閉じこもるなら、私は何度でも声をかける」
「……本当に、そんなことを」
「約束します」
彼の声が、夜の静寂を優しく破る。
遠くの雪が、まるでその言葉に応えるようにまた舞い散った。
その光景を見つめながら、私は小さく頷く。
今はただ、この灯りの中で、生きていたかった。
長い冬の終わりは、きっとすぐそこにある。
そう信じられるくらいには、私はもう凍てついてはいない。
続く
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