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第8話 優しさに触れた指先
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アレン公爵の領地で暮らし始めてから、いつの間にか一か月が過ぎていた。
冬の名残りはまだ屋根の端に白く残っているものの、庭の雪はすっかり融け、土の匂いが日差しと一緒に広がっている。小鳥のさえずりも戻り、屋敷の中庭には、春を告げる黄色い花が咲き始めていた。
私はその小さな花に触れようとして、ふとためらう。指先が震えた。
「怖いの?」と背後から声がした。
振り返ると、アレンがいつの間にか立っていた。黒衣の外套は脱ぎ、今日は白いシャツに淡い青のベスト。
穏やかな光が彼の髪を照らし、灰の瞳が柔らかくきらめいている。
「花がですか?」
「いや、触れることが」
「……ええ。壊してしまいそうで」
彼はゆっくりと近づき、私の手を取った。驚いたのは、その指が思ったよりも温かかったこと。
「触れるとは、壊すことではないですよ」
言いながら、彼は私の手を花の茎のあたりへ導いた。
「力を抜いて。感じてください」
私は息を詰め、指先で花弁に触れた。柔らかく、かすかに震え、陽の香がした。
「……綺麗」
「ええ。生命はほんの少しの温もりで呼吸をする」
彼の声が背後から静かに響く。その距離が近く、息を吸うたびに彼の体温を感じる。
心臓が跳ねた。
「私も、冷たいままではいられないと、最近思います」
「それは良いことです」
「でも、それが怖くもあるのです。氷が溶けてしまえば、私はただの普通の女。それでは何も守れない」
「守るために凍りついていたあなたが、今、ようやく生き始めた。それは失うことではなく、取り戻すことですよ」
私はそっと彼を見上げた。
灰色の瞳――けれどその奥には春のような柔らかい光が揺らいでいる。
言葉を返そうとしたが、のどがうまく動かず、何かを飲み込んだ。
「……リディア嬢」
「はい」
「王都からの使者がまた来ています。あなたへ宛てた手紙も」
「私に?」
胸の奥がきゅっと痛んだ。過去が再び、私を見つけようとしている。
アレンは小さな封筒を差し出した。封蝋には王家の紋章。
受け取る指がかすかに震える。
「開けても?」
「ご自由に。ただ読む前に言っておきます。どんな言葉が書かれていようと、あなたの価値は変わらない」
「……ありがとう」
封を切ると、整った書体で書かれた文章が目に飛び込んだ。
《リディア=グランベル侯爵令嬢。王太子殿下は過日の断罪を悔い、あなたに謝罪の意を表したいとのこと。ついては、来月の舞踏会へ出席を願う》
信じられなかった。指先が勝手に震え、紙がかさりと音を立てた。
「謝罪……? 今さら?」
「彼にとっては、名誉の修復が必要なのだろう」
冷ややかにアレンが言う。
「王家の失策を覆うためには、あなたの赦しが都合がいい」
落胆とも怒りともつかない感情が胸の中で交錯する。
あの夜、断罪の場で私を見下ろした彼の目。人々の前で冷たく宣告したあの声。
それを思い出しただけで、手が震える。
「私が戻れば、彼らは再び私を利用するでしょう」
「戻る気があるのですか?」
「……いいえ。しかし、逃げていると思われたくないのも本音です」
アレンは少し黙り、静かに頷いた。
「正々堂々と立ち向かう。それがあなたの流儀だ」
「私は、貴族として間違いを正すための言葉を持ちたい。恐怖でも恨みでもなく、誇りとして」
「ならば、私が同行しましょう。」
「でも……これは王国の内情。隣国の公爵が同行すれば大事になります」
「構いません。あなたを再び独りで立たせる気はない」
その強い言葉に胸が揺れた。
「……すみません。私、また貴方に守られてばかり」
「守らせてほしいと思うのは、あなたのせいですよ」
その言葉に息が詰まり、思わず視線を伏せた。
彼は少し近づくと、そっと私の右手を取った。
「この震えは怖れか、それとも怒りか?」
「わかりません。ただ、心が追いつかないのです」
「なら、落ち着くまで待ちましょう」
そう言いながら、彼は私の指を包み込むように握った。
その掌は驚くほど温かくて、血の巡りが指先から戻ってくるような錯覚を覚えた。
指先が触れる。それだけで、世界が変わることを知る。
「……リディア」
初めて、敬称をつけずに彼が私の名を呼んだ。驚いて顔を上げると、その瞳に映る私は、少し笑っていた。
「はい、アレン様……いいえ、アレン」
呼んだ途端、胸の奥が柔らかく満たされた。彼は目を細め、かすかに頬を染めた。
外では、春の風が吹き抜けて、窓に吊るされたカーテンを揺らす。
その風の中、私は思う。――この人に出会わなければ、私の心は永遠に凍りついたままだった。
けれど今は、氷の奥にあった水が静かに流れ出している。
その夜、私は眠れなかった。手紙を何度も取り出しては、結局読まずに引き出しへ戻す。
アレンの顔、声、手の温もりが離れない。
そして胸の奥にひとつの決意が生まれた。
私は、過去に決着をつける。
王太子の前で、涙も恐れもなく、自らの言葉で“終わり”を告げる。
翌朝、窓の外では夜明けの光が差し込み、世界がまるで洗われたように澄んでいた。
私はその光を見つめながら、小さく呟いた。
「私は、もう“氷の令嬢”ではない」
その声は驚くほど澄んでいて、自分のものとは思えなかった。
そして、胸の奥に浮かんだのは、前日アレンが私を見たときの、優しい瞳の色。
あの灰の光に包まれる夢を見ながら、私は静かに目を閉じた。
続く
冬の名残りはまだ屋根の端に白く残っているものの、庭の雪はすっかり融け、土の匂いが日差しと一緒に広がっている。小鳥のさえずりも戻り、屋敷の中庭には、春を告げる黄色い花が咲き始めていた。
私はその小さな花に触れようとして、ふとためらう。指先が震えた。
「怖いの?」と背後から声がした。
振り返ると、アレンがいつの間にか立っていた。黒衣の外套は脱ぎ、今日は白いシャツに淡い青のベスト。
穏やかな光が彼の髪を照らし、灰の瞳が柔らかくきらめいている。
「花がですか?」
「いや、触れることが」
「……ええ。壊してしまいそうで」
彼はゆっくりと近づき、私の手を取った。驚いたのは、その指が思ったよりも温かかったこと。
「触れるとは、壊すことではないですよ」
言いながら、彼は私の手を花の茎のあたりへ導いた。
「力を抜いて。感じてください」
私は息を詰め、指先で花弁に触れた。柔らかく、かすかに震え、陽の香がした。
「……綺麗」
「ええ。生命はほんの少しの温もりで呼吸をする」
彼の声が背後から静かに響く。その距離が近く、息を吸うたびに彼の体温を感じる。
心臓が跳ねた。
「私も、冷たいままではいられないと、最近思います」
「それは良いことです」
「でも、それが怖くもあるのです。氷が溶けてしまえば、私はただの普通の女。それでは何も守れない」
「守るために凍りついていたあなたが、今、ようやく生き始めた。それは失うことではなく、取り戻すことですよ」
私はそっと彼を見上げた。
灰色の瞳――けれどその奥には春のような柔らかい光が揺らいでいる。
言葉を返そうとしたが、のどがうまく動かず、何かを飲み込んだ。
「……リディア嬢」
「はい」
「王都からの使者がまた来ています。あなたへ宛てた手紙も」
「私に?」
胸の奥がきゅっと痛んだ。過去が再び、私を見つけようとしている。
アレンは小さな封筒を差し出した。封蝋には王家の紋章。
受け取る指がかすかに震える。
「開けても?」
「ご自由に。ただ読む前に言っておきます。どんな言葉が書かれていようと、あなたの価値は変わらない」
「……ありがとう」
封を切ると、整った書体で書かれた文章が目に飛び込んだ。
《リディア=グランベル侯爵令嬢。王太子殿下は過日の断罪を悔い、あなたに謝罪の意を表したいとのこと。ついては、来月の舞踏会へ出席を願う》
信じられなかった。指先が勝手に震え、紙がかさりと音を立てた。
「謝罪……? 今さら?」
「彼にとっては、名誉の修復が必要なのだろう」
冷ややかにアレンが言う。
「王家の失策を覆うためには、あなたの赦しが都合がいい」
落胆とも怒りともつかない感情が胸の中で交錯する。
あの夜、断罪の場で私を見下ろした彼の目。人々の前で冷たく宣告したあの声。
それを思い出しただけで、手が震える。
「私が戻れば、彼らは再び私を利用するでしょう」
「戻る気があるのですか?」
「……いいえ。しかし、逃げていると思われたくないのも本音です」
アレンは少し黙り、静かに頷いた。
「正々堂々と立ち向かう。それがあなたの流儀だ」
「私は、貴族として間違いを正すための言葉を持ちたい。恐怖でも恨みでもなく、誇りとして」
「ならば、私が同行しましょう。」
「でも……これは王国の内情。隣国の公爵が同行すれば大事になります」
「構いません。あなたを再び独りで立たせる気はない」
その強い言葉に胸が揺れた。
「……すみません。私、また貴方に守られてばかり」
「守らせてほしいと思うのは、あなたのせいですよ」
その言葉に息が詰まり、思わず視線を伏せた。
彼は少し近づくと、そっと私の右手を取った。
「この震えは怖れか、それとも怒りか?」
「わかりません。ただ、心が追いつかないのです」
「なら、落ち着くまで待ちましょう」
そう言いながら、彼は私の指を包み込むように握った。
その掌は驚くほど温かくて、血の巡りが指先から戻ってくるような錯覚を覚えた。
指先が触れる。それだけで、世界が変わることを知る。
「……リディア」
初めて、敬称をつけずに彼が私の名を呼んだ。驚いて顔を上げると、その瞳に映る私は、少し笑っていた。
「はい、アレン様……いいえ、アレン」
呼んだ途端、胸の奥が柔らかく満たされた。彼は目を細め、かすかに頬を染めた。
外では、春の風が吹き抜けて、窓に吊るされたカーテンを揺らす。
その風の中、私は思う。――この人に出会わなければ、私の心は永遠に凍りついたままだった。
けれど今は、氷の奥にあった水が静かに流れ出している。
その夜、私は眠れなかった。手紙を何度も取り出しては、結局読まずに引き出しへ戻す。
アレンの顔、声、手の温もりが離れない。
そして胸の奥にひとつの決意が生まれた。
私は、過去に決着をつける。
王太子の前で、涙も恐れもなく、自らの言葉で“終わり”を告げる。
翌朝、窓の外では夜明けの光が差し込み、世界がまるで洗われたように澄んでいた。
私はその光を見つめながら、小さく呟いた。
「私は、もう“氷の令嬢”ではない」
その声は驚くほど澄んでいて、自分のものとは思えなかった。
そして、胸の奥に浮かんだのは、前日アレンが私を見たときの、優しい瞳の色。
あの灰の光に包まれる夢を見ながら、私は静かに目を閉じた。
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