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第9話 彼の望まぬ求婚
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王太子からの舞踏会招待状が届いてから数日、私の胸の中は不思議な静けさに包まれていた。
恐怖ではない。怒りでもない。
それは、長い間閉ざしていた扉の奥でようやく芽吹いた、新しい決意の静寂だった。
その日も朝早く、私は食堂に降りて朝食の準備をしているクラリスと話をしていた。
「リディアお嬢様、本当に王都に行かれるおつもりですか?」
「ええ。避けていても、過去は追ってくるだけ。ならば、私の方から終わらせに行くわ」
「でもあの方々は……。殿下や王妃様が、もう一度お嬢様を傷つけようとしたら……」
「その時は、もう泣かないわ」
そう言うと、クラリスは少しの間沈黙して、やがて小さく微笑んだ。
「……強くなられましたね。けれど、強くなりすぎて折れてしまわぬように」
「心配はいらないわ。私はもう、一人ではないもの」
その言葉に、クラリスは気づいたように頬を染め、視線を逸らした。
屋敷の外では、アレンが部下たちに指示を出していた。
近衛騎士を数人、王都への護衛として同行させる準備をしているようだった。
その背中を見つめながら、胸の奥で小さな痛みが生まれる。
まだ伝えていない思いがある――だがそれを口にすれば、何かが変わってしまう気がして。
やがて、公爵の灰の瞳がこちらを捉える。
「朝の散歩ですか?」
「いいえ、出発の準備の様子を見に」
「貴女が心配することではありません。護衛も馬車も完璧に整えてあります」
「そうでしょうね。アレン様の領では、何ひとつ欠けることがありませんから」
「完璧でも不安です。王都には、あの男がいる」
「あの男……」
その言葉の棘を彼の声が含んだ瞬間、私は静かに首を振った。
「過去を終わらせたいのです。もう怨みではなく、区切りとして」
「……分かっています」
彼の返答は短く、それでいてどこか歯切れが悪い。
正午近く、旅の支度が整った。
馬車の前でアレンが私のコートのボタンを留めてくれる。
その仕草が不器用で、思わず笑いそうになる。
「動くな。……これでいい」
「ありがとうございます。まるで兄のようですね」
「兄? それは心外です」
真顔で答えるので、今度は耐えきれず笑ってしまった。
「では、護衛の騎士でしょうか?」
「護衛以上のつもりですが」
その低い声の熱を、私は聞き逃せなかった。
胸が熱くなる。けれど、彼はすぐに表情を戻し、馬車の扉を開いた。
王都への道のりは、以前と違って見えた。
どこまでも続く緑の丘陵、白い雲、遠くに霞む塔の影。
アレンは向かいに座り、書類に目を通している。
時折馬車が揺れるたび、指先が机を叩く音が心地良く響く。
ふと、私は問いたくなった。
「アレン。……貴方は、どうして私にここまでしてくださるのですか?」
「理由を言ったところで、信じてくれますか?」
「試してみても?」
彼は静かに書類を伏せ、目を上げた。
「あなたを見たとき、放っておけないと思った。それだけでは不十分ですか」
「それは……まるで同情のようですわ」
「違います。あなたが誰にも触れられず凍えるように耐えていたのを見た。それが他人の姿だとは思えなかった」
短い沈黙。
車輪の音が遠ざかってきこえる。
「私は、あなたと同じ孤独を知っている。だからこそ助けたかった」
初めて見る表情だった。
公爵というより、一人の男の顔。
思わず息を飲む。
視線が絡まり、ほんの一瞬、心臓が凍るほどの静寂が流れる――
だが彼はすぐに視線を外し、窓の外へ目を向けた。
王都の城門が近づく頃、私の胸の鼓動は落ち着かなくなっていた。
懐かしくもあり、恐ろしくもある場所。
門が開くと、城下町のざわめきと共に、遠い記憶が押し寄せる。
馬車が止まり、舞踏会が開かれる王城の別館へ案内される。
会場は夜まで用意の真っ最中だったが、私たちは王城内の控室へ通された。
そこには、王太子の側近たちの姿があった。
彼らの表情は、懐かしさよりも困惑と緊張に満ちている。
「リディア殿下、いえ、リディア様。王太子殿下がすぐにお越しになります」
「殿下と呼ばれなくて結構ですわ」
そう告げると、使用人が一瞬目を見張った。
そこへ――アーヴィン殿下が姿を現した。
金の髪、端整な顔。そのすべてが、かつて私が誇らしく思っていた男。
けれど、見た瞬間、胸の奥は冷えていた。
彼の微笑みはかつてと変わらず華やかで、だがどこまでも薄かった。
「リディア……久しいね」
「ええ。まさか、またお目にかかる日が来るとは思いませんでした」
「……その節は、本当に悪かった。私は若く、愚かだった」
「赦しを求めておられるのですか?」
「そうだ。あの日のことをなかったことにしたいわけではない。だが、もう一度、君の信頼を取り戻したい」
「……それで舞踏会に招いたのですね」
アレンが傍らで押し黙っている。
殿下の瞳が、その存在に気づき、わずかに曇った。
「貴殿がヴァルディールの公爵か。貴族たちの間でも噂になっている。隣国の英雄殿がなぜ、彼女と共に?」
「彼女に正式な護衛を申し出ただけです」
アレンの声は低く、冷たく響いた。
「まさか……それ以上の関係ではないだろうな」
殿下の目が誰のものとも違う色を見せたとき、私の中で何かが決壊した。
「アーヴィン殿下。貴方はいまだに、誰かの“所有”でなければ愛を語れないのですね」
その言葉に、彼の顔から余裕が消えた。
「違う、私は――」
「私はもう、貴方の許で泣いた令嬢ではありません。
氷の令嬢と呼ばれた時の私を笑った貴方は、いまや過去の幻です」
殿下が言葉を失い、沈黙が落ちる。
その時、アレンの手がそっと私の背に触れた。
支えているのでも、慰めるのでもない。
まるで、“隣にいる”という無言の証のように。
私の唇が静かに動いた。
「貴方が望む赦しは、もうこの世界には存在しません。――さようなら、殿下」
振り返らずに扉を出ると、夜の空気が頬に当たった。
胸の奥が軽い。何か大切なものをようやく下ろしたような感覚があった。
アレンが追いつき、そっと囁いた。
「よく立ち向かいましたね」
「貴方がいたから。あの日の私なら、何も言えなかったでしょう」
「これからどうしたいですか」
「少しだけ、……自分の心に正直でいたい。そう思います」
アレンは柔らかく笑った。
「ならば、一つ言わせてください。私も、少しだけ正直でいたい」
そして、彼はその場に膝をついた。
「――リディア。私は貴女に求婚します」
夜風がざわめき、遠くで鐘が鳴る。
その音を聞きながら、私はただ立ち尽くした。
アレンの灰の瞳は、何の計算もなく、まっすぐに私だけを映していた。
「……なぜ、今なのです」
「責任ではありません。保護でもない。私はもう、望まぬ孤独を抱えたまま貴女を見ていられない」
「……そんな、急に言われても……」
「時間なら、いくらでも待ちます。ただ、これが私の本心だと知っていてほしい」
私は唇を噛み、そして静かに頷いた。
「……ありがとうございます。でも、答えはもう少し、考えさせてください」
「もちろん」
彼は立ち上がり、静かに手を差し出した。
その手を取った瞬間、遠い夜空の星が瞬き、春の暖かな風が肌を撫でた。
二人で並んで馬車へ戻る道。
街の明かりが、まるで祝福のようにゆらめいていた。
続く
恐怖ではない。怒りでもない。
それは、長い間閉ざしていた扉の奥でようやく芽吹いた、新しい決意の静寂だった。
その日も朝早く、私は食堂に降りて朝食の準備をしているクラリスと話をしていた。
「リディアお嬢様、本当に王都に行かれるおつもりですか?」
「ええ。避けていても、過去は追ってくるだけ。ならば、私の方から終わらせに行くわ」
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「その時は、もう泣かないわ」
そう言うと、クラリスは少しの間沈黙して、やがて小さく微笑んだ。
「……強くなられましたね。けれど、強くなりすぎて折れてしまわぬように」
「心配はいらないわ。私はもう、一人ではないもの」
その言葉に、クラリスは気づいたように頬を染め、視線を逸らした。
屋敷の外では、アレンが部下たちに指示を出していた。
近衛騎士を数人、王都への護衛として同行させる準備をしているようだった。
その背中を見つめながら、胸の奥で小さな痛みが生まれる。
まだ伝えていない思いがある――だがそれを口にすれば、何かが変わってしまう気がして。
やがて、公爵の灰の瞳がこちらを捉える。
「朝の散歩ですか?」
「いいえ、出発の準備の様子を見に」
「貴女が心配することではありません。護衛も馬車も完璧に整えてあります」
「そうでしょうね。アレン様の領では、何ひとつ欠けることがありませんから」
「完璧でも不安です。王都には、あの男がいる」
「あの男……」
その言葉の棘を彼の声が含んだ瞬間、私は静かに首を振った。
「過去を終わらせたいのです。もう怨みではなく、区切りとして」
「……分かっています」
彼の返答は短く、それでいてどこか歯切れが悪い。
正午近く、旅の支度が整った。
馬車の前でアレンが私のコートのボタンを留めてくれる。
その仕草が不器用で、思わず笑いそうになる。
「動くな。……これでいい」
「ありがとうございます。まるで兄のようですね」
「兄? それは心外です」
真顔で答えるので、今度は耐えきれず笑ってしまった。
「では、護衛の騎士でしょうか?」
「護衛以上のつもりですが」
その低い声の熱を、私は聞き逃せなかった。
胸が熱くなる。けれど、彼はすぐに表情を戻し、馬車の扉を開いた。
王都への道のりは、以前と違って見えた。
どこまでも続く緑の丘陵、白い雲、遠くに霞む塔の影。
アレンは向かいに座り、書類に目を通している。
時折馬車が揺れるたび、指先が机を叩く音が心地良く響く。
ふと、私は問いたくなった。
「アレン。……貴方は、どうして私にここまでしてくださるのですか?」
「理由を言ったところで、信じてくれますか?」
「試してみても?」
彼は静かに書類を伏せ、目を上げた。
「あなたを見たとき、放っておけないと思った。それだけでは不十分ですか」
「それは……まるで同情のようですわ」
「違います。あなたが誰にも触れられず凍えるように耐えていたのを見た。それが他人の姿だとは思えなかった」
短い沈黙。
車輪の音が遠ざかってきこえる。
「私は、あなたと同じ孤独を知っている。だからこそ助けたかった」
初めて見る表情だった。
公爵というより、一人の男の顔。
思わず息を飲む。
視線が絡まり、ほんの一瞬、心臓が凍るほどの静寂が流れる――
だが彼はすぐに視線を外し、窓の外へ目を向けた。
王都の城門が近づく頃、私の胸の鼓動は落ち着かなくなっていた。
懐かしくもあり、恐ろしくもある場所。
門が開くと、城下町のざわめきと共に、遠い記憶が押し寄せる。
馬車が止まり、舞踏会が開かれる王城の別館へ案内される。
会場は夜まで用意の真っ最中だったが、私たちは王城内の控室へ通された。
そこには、王太子の側近たちの姿があった。
彼らの表情は、懐かしさよりも困惑と緊張に満ちている。
「リディア殿下、いえ、リディア様。王太子殿下がすぐにお越しになります」
「殿下と呼ばれなくて結構ですわ」
そう告げると、使用人が一瞬目を見張った。
そこへ――アーヴィン殿下が姿を現した。
金の髪、端整な顔。そのすべてが、かつて私が誇らしく思っていた男。
けれど、見た瞬間、胸の奥は冷えていた。
彼の微笑みはかつてと変わらず華やかで、だがどこまでも薄かった。
「リディア……久しいね」
「ええ。まさか、またお目にかかる日が来るとは思いませんでした」
「……その節は、本当に悪かった。私は若く、愚かだった」
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「もちろん」
彼は立ち上がり、静かに手を差し出した。
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二人で並んで馬車へ戻る道。
街の明かりが、まるで祝福のようにゆらめいていた。
続く
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