婚約破棄されたはずなのに、溺愛が止まりません!~断罪された令嬢は第二の人生で真実の愛を手に入れる~

sika

文字の大きさ
4 / 12

第4話 一夜の逃走と名の消失

しおりを挟む
夜の森は、息を飲むほど静かだった。  
冷たい月明かりに照らされた雪解けの道を、フード姿の女が一人歩く。  
その歩みは慎重で、しかし確固たる意思を秘めていた。  
アイリス――いや、今は“アイラ”と名乗る彼女は、辺境の村での生活を捨て、密かに森へと逃れようとしていた。

村での穏やかな日々は、夢のように儚かった。  
“癒し手の娘”という噂が、いつしか“奇跡を起こす魔女”という尾ひれをつけ、村の外へと広がっていったのだ。  
人々の憧れと好奇の眼差しが混ざり合い、やがてそれは恐れへと変わる。  
――過去と同じだ、と彼女は悟った。  
どこにいても、人は自分が理解できぬ力を恐れ、そしてそれを排除しようとするのだ。

きっかけは三日前。  
隣村で疫病が流行り、手の施しようがないと泣く母親を前に、アイリスは癒しの力を振るった。  
病の子は息を吹き返し、村人たちは歓喜に包まれた。  
だがその奇跡の翌日、濡れ衣のような噂が流れ始めた。  
「癒しの代償に命を奪う魔女がいる」「夜に闇と契約している女がいる」――。  

その噂を聞いた瞬間、アイリスの背筋に冷たいものが走った。  
まただ。全てを奪われたあの夜と、何も変わらない。  
自分が何をしても、真実は歪められ、人々の都合いい形で消費されていく。  

「もう……繰り返したくない」  
彼女は夜半、荷をまとめた。宿の老婦人にだけ短い手紙を残す。  

“世話になりました。どうか皆を幸せに。私は、もう要らぬ災いを呼びたくありません。”  

背を向けたその瞬間、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。  
本当は去りたくなかった。  
あの笑顔や声、温かな人々。  
だが、彼らが“王都からの追手”に巻き込まれる未来を、どうしても見たくなかった。  

森を歩きながら、小さく吐息をつく。  
「……まるで罪人のようね」  
その声は静寂に溶け、風に散った。  

***

同じころ、村の道を数人の騎士が駆け抜けていた。  
先頭に立つ黒髪の青年は、目つき鋭くもどこか冷静な気配を纏っている。  
辺境防衛軍の将軍、ディラン=ヴァーミリオン。  
噂の“癒しの女”の真偽を確かめるための、視察という名の任務だった。

「将軍、村人の証言によると“アイラ”という名の娘が――」  
「その娘はまだいるのか?」  
「いえ……三日前から姿を見せぬようで。宿の老婆に聞いたところ、夜明け前に消えたとか」  
ディランは無言で馬の手綱をきつく引いた。目を細め、遠くの森を見据える。  
「……足が速いな」  
その声には焦燥が滲んでいた。

彼はもともと、ただの命令で動いていたわけではない。  
村に残っていた手紙――そこには、当の娘の筆跡で「誰かをこれ以上巻き込みたくない」と記されていたのだ。  
その一文を見た瞬間、胸の奥に何か温かいものが広がった。  
彼もまた、何かから逃げ続けてきた人間だったからだ。  

「よし、俺が追う」  
「将軍、お一人で?」  
「お前たちは村に残れ。もし“王都の騎士”が動いたらすぐ知らせろ」  

命令を下すと同時に、ディランは馬を走らせた。  
夜の森を、月明かりが切り取る。  

***

その頃、アイリスは小さな川辺に辿り着いていた。  
荷物を下ろし、靴を脱いで足先を冷たい水に沈める。  
短い休息しか取れぬことはわかっていたが、疲れ切った体がそれを無視できなかった。  
小川のせせらぎに紛れて、小さな声で呟く。  

「お父様……お母様……」  
そこまで言いかけて、唇を噛む。  
もうどこにいるのかも、無事なのかもわからない。  
ただ王都の知らせを聞いた日からずっと、胸を締めつける痛みだけが消えない。  

あの時、止めなかった。  
真実を叫ぶことも、抗うことも、なにひとつ。  
それが誇り高いと信じていたけれど――今となっては、ただの弱さだったのかもしれない。  

「……私は、何を望んでいるのかしら」  

復讐でも、赦しでもない。  
ただ、まっとうに生きたいだけだ。  
誰かを癒して、静かに日を重ねたい。  
それだけのことなのに、どうしてこんなにも遠いのだろう。  

その願いを握りしめた時、背後で小枝が折れる音がした。  
瞬間、アイリスは立ち上がる。  
「誰ですか!」  
返事はない。風が木々を撫でる音だけが、かすかに響く。  
身構えたまま後ずさりしたその時――影が、月光の中に浮かび上がった。  

長身の男。肩には黒い外套。  
灰銀の髪が風に揺れる。  

「……っ!」  

その男は、剣を抜かなかった。  
ただ両手を広げるようにして、静かに彼女を見つめる。  

「怖がらせるつもりはない。俺は敵じゃない」  
低く、落ち着いた声。だが、どこか懐かしい響きがあった。  

「名前を聞かせてくれるか? 娘さん」  
「……ただの旅人です」  
「なら、俺もただの軍人だ。行き倒れを助けには来るけどな」  
微笑したその顔に、彼女は少しだけ心を緩ませる。  
見れば、彼の手には松明ではなく灯石の明かり。照らされた顔には誠実な影が落ちていた。  

「……旅の途中で森に入るなんて、無謀だな」  
「仕方ありません。ここに留まるわけにもいきませんから」  

彼は少し首を傾げた。その視線が、まるで人の心を見透かすようだった。  
「追われているのか」  
「……違います。ただ、逃げているだけです」  
「誰から?」  
「……過去から」  

言葉の意味を測るように、ディランはしばらく黙った。  
そして静かに息を吐き、手を差し出した。  
「それならなおさら、此処で少し休むといい。北の風は容赦ない。凍えて死ぬよりは、俺の天幕で暖を取れ」  

しばし悩んだ末、アイリスはその手を受け取った。  
本当に久しぶりに、誰かの体温を感じた気がした。  
それは恐ろしいほど優しく、胸の奥で小さく火を灯す。  

「……ありがとうございます」  
「礼はいらない。明日になったら、それから考えよう」  

二人は小さな焚き火のそばに腰を下ろした。  
沈黙の間、薪のはぜる音だけが響く。  
やがて、ディランがぽつりと訊ねた。  

「名を、聞いてもいいか」  
少し迷い、彼女は答える。  
「……アイラ。旅医です」  
「アイラ、か」  

男は小さくその名を繰り返し、頷いた。  
「奇遇だな。辺境では“癒し手のアイラ”の噂を耳にした。まさか当人とは」  
「……そんな大層なものではありません。ただの村娘です」  
「いや、その手で誰かを救ったなら、それで十分だ」  

その言葉に胸が締めつけられる。  
誰にも信じてもらえなかった力を、否定せずに受け止める人がいる――その事実が、涙が出るほど嬉しかった。  

焚き火の熱で頬を赤くしながら、アイリスは目を伏せた。  
「あなたは……どうしてそんなに優しいのですか」  
「優しい?」  
ディランは短く笑う。  
「優しくなんてないさ。ただ俺も、昔一度だけ逃げたことがある」  
アイリスは顔を上げる。  
男の目には、深い海のような哀しみと強さが混ざっていた。  

「大切なものを失って、後悔して、それでも前を向こうとした。その時、手を差し伸べてくれた人がいた。今度は俺の番だと思っている、それだけだ」  

その夜、彼女は久しぶりに安らかに眠りについた。  
夜風が木々を揺らし、焚き火の光が二人の影を柔らかく包む。  
遠くで狼が鳴いた。だが、不思議と恐ろしくなかった。  

夢の中で、アイリスは初めて王都の姿が霞んでいくのを見た。  
それは痛みではなく、“別れ”という名の静かな解放だった。  

そして、夜明け前。  
薄明の空に一筋の光が差し込み、ディランが静かに呟く。  

「……名前を捨てても、心までは失うなよ」  

アイリスの耳には届かなかった。  
彼女は穏やかな寝息を立てていた。  

続く
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「妹より醜い」と言われていた私、今から龍の神様と結婚します。〜ウズメの末裔令嬢の結婚〜

麻麻(あさあさ)
恋愛
妹より醜いと呼ばれていた双子の姉私、深子(みこ)と美しい妹の舞華(まいか)2人は天鈿女命の末裔だったが舞の踊り手は妹だった。 蔑まれる中、雷龍(らいりゅう)と言う雷を操る龍が言い伝え通りに生贄同然で結婚の話を聞かされる。 「だったらお姉様がお嫁にいけばいいじゃない」 と言われる中、雷龍がいる場所に生贄のつもりで行くが彼は優しく深子に接してくる。 毎日21時公開! プロローグから3話までは一気に、4話からは1話ずつ毎日公開します。 今作はカクヨムに載せていたものを改題した作品です。

学園では婚約者に冷遇されていますが、有能なので全く気になりません。〜学園でお山の大将されてても、王宮では私の方が有能ですから〜

織り子
恋愛
王都カラディナにある国立魔術学園では、満十六歳の生徒たちの社交界デビューを兼ねた盛大なパーティーが開かれていた。 侯爵令嬢タレイア・オルトランは、婚約者である第二王子アスラン・オグセリアの迎えを待つも、結局ひとりで会場へ向かうことになる。 学園では身分の差がないとはいえ、アスランが公然とタレイアを侮辱し続けてきたことで、彼女は生徒たちから冷笑と蔑視の的となっていた。しかしタレイアは、王城で政務を担ってきた聡明さと矜持を失わず、毅然と振る舞う。

初対面の婚約者に『ブス』と言われた令嬢です。

甘寧
恋愛
「お前は抱けるブスだな」 「はぁぁぁぁ!!??」 親の決めた婚約者と初めての顔合わせで第一声で言われた言葉。 そうですかそうですか、私は抱けるブスなんですね…… って!!こんな奴が婚約者なんて冗談じゃない!! お父様!!こいつと結婚しろと言うならば私は家を出ます!! え?結納金貰っちゃった? それじゃあ、仕方ありません。あちらから婚約を破棄したいと言わせましょう。 ※4時間ほどで書き上げたものなので、頭空っぽにして読んでください。

婚約破棄された令嬢、気づけば王族総出で奪い合われています

ゆっこ
恋愛
 「――よって、リリアーナ・セレスト嬢との婚約は破棄する!」  王城の大広間に王太子アレクシスの声が響いた瞬間、私は静かにスカートをつまみ上げて一礼した。  「かしこまりました、殿下。どうか末永くお幸せに」  本心ではない。けれど、こう言うしかなかった。  王太子は私を見下ろし、勝ち誇ったように笑った。  「お前のような地味で役に立たない女より、フローラの方が相応しい。彼女は聖女として覚醒したのだ!」

右見ても左見てもクズ男とチャラ男!愛され迷惑!

有沢真尋
恋愛
「予算が足りない」 会計監査室の室長である美青年が、騎士団からの申請に渋い顔をする。 新人事務員であるルイスは、室長と騎士の会話にドキドキしながら耳を傾けていた。 騎士団には、ルイスの血の繋がらない兄が所属している。義兄さまの危機……? と危ぶむルイスの前で、騎士はとんでもないことを言い出した。 「最近開発された映像中継魔道具で『騎士団の日常』という映像を配信する。容姿のいい男たちが仲良く睦み合っている姿にご令嬢方は釘付けになるだろう。できればストーリー性も欲しいところだな。こう、一人くらいみんなに構われるような、一回り小さい愛され美少年で『姫』キャラがいれば言うことないんだが」 うちの騎士団はガタイのいい男しかいないからなー…… と、語る騎士と室長の会話を聞きながらルイスは首をひねる。「実際にいない『姫』キャラを仕立て上げるなんて、やらせでは?」 そのルイスの手元に、室長と騎士の影が落ちてきた。 「姫、見つけた」 これは騎士団の必要資金獲得のため、男装して騎士団にもぐりこみ「姫(※男)」として配信任務に体当たりで挑むことになったヒロインの物語。 異世界ゆる配信・似非ボーイズライフ。お兄ちゃんは苦労性。 ※メインキャラはBLではありませんが、要所要所に演出として書く可能性があります。 その他、苦手な要素がある方は閲覧ご注意願います。細かいことが気になる方には不向きな内容です。考察や展開の予想感想等は承認せず削除します。 ◆他サイトにも公開しています。作者プロフィール記載サイト以外での公開はすべて無断転載です。無断転載禁止。

婚約破棄されたけど、どうして王子が泣きながら戻ってくるんですか?

ほーみ
恋愛
「――よって、リリアーヌ・アルフェン嬢との婚約は、ここに破棄とする!」  華やかな夜会の真っ最中。  王子の口から堂々と告げられたその言葉に、場は静まり返った。 「……あ、そうなんですね」  私はにこやかにワイングラスを口元に運ぶ。周囲の貴族たちがどよめく中、口をぽかんと開けたままの王子に、私は笑顔でさらに一言添えた。 「で? 次のご予定は?」 「……は?」

悪役令嬢ですが、今日も元婚約者とヒロインにざまぁされました(なお、全員私を溺愛しています)

ほーみ
恋愛
「レティシア・エルフォード! お前との婚約は破棄する!」  王太子アレクシス・ヴォルフェンがそう宣言した瞬間、広間はざわめいた。私は静かに紅茶を口にしながら、その言葉を聞き流す。どうやら、今日もまた「ざまぁ」される日らしい。  ここは王宮の舞踏会場。華やかな装飾と甘い香りが漂う中、私はまたしても断罪劇の主役に据えられていた。目の前では、王太子が優雅に微笑みながら、私に婚約破棄を突きつけている。その隣には、栗色の髪をふわりと揺らした少女――リリア・エヴァンスが涙ぐんでいた。

「異常」と言われて追放された最強聖女、隣国で超チートな癒しの力で溺愛される〜前世は過労死した介護士、今度は幸せになります〜

赤紫
恋愛
 私、リリアナは前世で介護士として過労死した後、異世界で最強の癒しの力を持つ聖女に転生しました。でも完璧すぎる治療魔法を「異常」と恐れられ、婚約者の王太子から「君の力は危険だ」と婚約破棄されて魔獣の森に追放されてしまいます。  絶望の中で瀕死の隣国王子を救ったところ、「君は最高だ!」と初めて私の力を称賛してくれました。新天地では「真の聖女」と呼ばれ、前世の介護経験も活かして疫病を根絶!魔獣との共存も実現して、国民の皆さんから「ありがとう!」の声をたくさんいただきました。  そんな時、私を捨てた元の国で災いが起こり、「戻ってきて」と懇願されたけれど——「私を捨てた国には用はありません」。  今度こそ私は、私を理解してくれる人たちと本当の幸せを掴みます!

処理中です...