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第3話 去り際の微笑み
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ヴェルディアの首都、レーヴェルに着いたのは、灰色の雲が空を覆う午後だった。
王国の中央を走る白石の街道は整然としており、人々の表情にも張りつめた静けさがあった。
王都とは違う――どこまでも整然と、強い秩序に支えられた国。そんな印象を受けた。
「お嬢様、まるで別の世界みたいですね」
セリーヌが馬車の窓から外を覗き込む。高い石壁に囲まれた街並みは、どの屋根も規律正しく並び、風の流れすら計算されているように見えた。
「ええ。ここでは、感情よりも理性が重んじられるのでしょうね」
「王太子殿下とは真逆の国というわけですね」
「ふふ……そうかもしれないわ」
セリーヌの言葉に、自然と笑みがこぼれた。
馬車は宰相府の前で止まった。
鋭い角度の塔と白銀の紋章。その正面扉の前に、黒衣の兵士たちが整列している。
威圧的な雰囲気を放ちながらも、無駄のない所作に美しさがある。まさに、理の国の象徴だった。
「リリアナ・フォン・エルディン様でいらっしゃいますね」
迎えに来た青年が一礼する。鋭い青の瞳と、淡く整った笑み。その冷静な佇まいは、記憶に残る姿と一致していた。
「……アルヴェン・クロスフォード様」
「お久しぶりです。お会いできて嬉しい。ここまでの道のりは順調でしたか?」
「はい。ご丁寧にお迎えいただき、ありがとうございます」
「宰相閣下も、貴女にお会いするのを楽しみにしておられます。こちらへどうぞ」
彼は私の荷を受け取ろうとしたが、軽く首を振って辞退した。
「自分で持てますので」
「なるほど。では無理に取り上げはしません。公爵令嬢であっても、独りで立てる方なのですね」
「……褒め言葉として受け取ってよろしいですか?」
「もちろん」
彼の笑みは淡く柔らかい――だが、その奥に冷たい光が潜んでいた。
広間に通されると、宰相府の荘厳さに一瞬息をのむ。
壁には古代ヴェルディアの歴史と法を描いた壁画が並び、床の白大理石には精緻な文様が刻まれている。
空気全体が静謐で、私語ひとつ漏れない。まるで、感情さえ慎むことが礼儀だと教えているようだった。
「アルヴェン様、誰かお見えですか?」
低い声が響いた。
奥の書斎から現れたのは、銀髪混じりの壮年の男性――ヴェルディア宰相レオニード・クロスフォード。アルヴェンの父であり、この国の実質的な統治者だった。
「リリアナ・フォン・エルディンでございます。お招きいただき、光栄に存じます」
私が淑女の礼を取ると、宰相は細めた眼差しでしばし私を見つめた。
「静かな娘だな……まるで氷のごとく」
「……そう見えてしまうのですね」
「それは悪い意味ではない。氷は、熱でしか溶けぬ。だが容易に形を崩さない。堅牢で美しい」
その言葉に、わずかに胸が熱くなった。
王都では「冷たい」「傲慢」と嘲られた私の性格を、この男は“堅牢”と評したのだ。
「君の噂はヴェルディアにも届いている。王太子の一方的な破棄、そしてそれを泣きもせず受け入れた令嬢――。何より、学会での君の提案は見事だった。弱い立場の農民にも利益を分配する財政法案。あれを理論化した娘など、そういない」
「恐縮です」
「アルヴェンが強く推薦した理由も理解できる。私の右腕として力を貸してもらいたい。まずは顧問の立場から始め、成果しだいで正式な官職を授けよう」
「……身に余るお言葉です」
宰相は深く頷き、息子に視線を向けた。
「案内を頼む、アルヴェン」
書斎を辞してから、彼が先に歩き出した。
「この城で働くことになる者の大半は男です。女性の官職者はほとんどいません。貴女が初めてです」
「初めて……」
「偏見を持つ者もいるでしょう。けれど、気にする必要はありません。こちらでは結果が全てです」
「結果、ですか。……それなら得意分野ですわ」
思わず口元に笑みを浮かべると、アルヴェンの横顔がわずかに揺れた。
「……そうですね。貴女のようなタイプは、この国でこそ力を発揮する」
案内された部屋は、簡素ながら整えられていた。
香木の匂いが漂い、窓から差し込む光が静かな温度を保っている。
王都の屋敷よりもずっと質素なのに、不思議と心が安らぐ場所だった。
部屋に入るなり、セリーヌが小声で囁いた。
「お嬢様、アルヴェン様という方……何だか気になりますね」
「ええ。……まるで全部を見透かしているような眼をしているわ」
「ですが、悪い方には見えませんでした」
「それは同感。でも、“良い人”という言葉でまとめてしまうのも、違う気がする……」
しばらく黙っていたが、ふと窓の外を見ると、広場では淡い霧雨が降り始めていた。
この国の空気には、どこか清冽な冷たさがある。
けれどそれは、心地よかった。
◆
午後の報告会が始まる前、私はひとり文書室にいた。
壁一面に法令集と統計資料が並ぶ壮観な空間。
頁を開くたびに、整然とした数字が並び、この国の合理性がどれほど徹底しているかがわかる。
すると、背後から穏やかな声が響いた。
「早速分析に取りかかっているとは……勤勉ですね」
振り向けば、アルヴェンだった。
シャツの袖を折り上げ、手には資料束を抱えている。
「この国の財政運用を理解するには、数字から始めるのが早いと思いまして」
「正しい判断です」
「この国では“情”の影響が少ないぶん、制度が機能しているように見えます。でも、同時に柔軟さを欠いている……そう感じました」
「貴女は鋭い。……リリアナ嬢、この宰相府に足を踏み入れた理由は何です?」
一瞬、返答に迷った。だが、視線を逸らさずに答える。
「理不尽に傷つけられたからです。もう二度と誰にも支配されない自分になるために」
「……なるほど」
低く呟くと、彼はほんのわずかに微笑んだ。
「覚えておきましょう。貴女が望むのは“自由”だ」
「そう、ちゃんと自分の足で立つ自由を」
「それなら、この国は悪くない。……少なくとも、力ある者が努力によって認められる時代です」
窓の外の雨音が静かに響いた。
その音を聞きながら、私は思う。
きっとこれは――新しい人生の幕開けなのだ。
涙ではなく、冷静な微笑みで幕を開ける人生。
◆
その夜、与えられた部屋で日記を開く。
インクを落とすたびに、思考が整理されていくのを感じた。
“王都の誰も、私が再び立ち上がるとは思っていないでしょう。
それでいい。驚かせればいい。
私はここで、もう一度始める。”
ペンを置いた瞬間、扉が軽く叩かれた。
「失礼、こんな時間に」
アルヴェンの声だった。
「もうお休みのところかもしれませんが、一つだけ伝えたいことがある」
私は扉を開けた。廊下の光が彼の肩を照らしている。
「宰相閣下が明日の議会で貴女に発言の機会を与えるそうだ」
「私に、ですか?」
「そう。外部顧問として初めての発表になる。例の財政再編案をベースに、新しい提案を期待しているとのこと」
「突然ですね」
「貴女ならできる、と閣下がおっしゃった」
ふいに、アルヴェンの目が柔らかく光る。
「それと……今日、貴女が笑った時、宰相府の空気が変わった。皆が注目していた」
「笑った、なんて。そんなつもりはなかったのに」
「だが、確かに微笑んでいた。
“氷の令嬢”と呼ばれた貴女が見せたあの一瞬――あれは、強さを知る者の笑みだった」
その言葉に、胸の奥が不意に熱を帯びた。
誰もが私を冷たいと罵った。けれどこの国では、冷たさすらひとつの力として扱われるらしい。
「……光栄です」
私がそう答えると、アルヴェンは軽く頭を下げた。
「お休みなさい、リリアナ嬢。明日は、貴女の出番です」
扉が閉じる音がしたあと、私は月明かりの差し込む窓辺に立った。
遠くの空で雨雲が切れ、星がひとつだけ顔を出す。
去り際のあの微笑み――王都で見せた最後の笑みは、決して終わりの笑顔ではなかった。
それは、新しい未来を切り開くための決意の証。
今度こそ、笑うのは私の番。
あの夜の涙を置き去りにして、この地で自由と誇りを手に入れるのだ。
続く
王国の中央を走る白石の街道は整然としており、人々の表情にも張りつめた静けさがあった。
王都とは違う――どこまでも整然と、強い秩序に支えられた国。そんな印象を受けた。
「お嬢様、まるで別の世界みたいですね」
セリーヌが馬車の窓から外を覗き込む。高い石壁に囲まれた街並みは、どの屋根も規律正しく並び、風の流れすら計算されているように見えた。
「ええ。ここでは、感情よりも理性が重んじられるのでしょうね」
「王太子殿下とは真逆の国というわけですね」
「ふふ……そうかもしれないわ」
セリーヌの言葉に、自然と笑みがこぼれた。
馬車は宰相府の前で止まった。
鋭い角度の塔と白銀の紋章。その正面扉の前に、黒衣の兵士たちが整列している。
威圧的な雰囲気を放ちながらも、無駄のない所作に美しさがある。まさに、理の国の象徴だった。
「リリアナ・フォン・エルディン様でいらっしゃいますね」
迎えに来た青年が一礼する。鋭い青の瞳と、淡く整った笑み。その冷静な佇まいは、記憶に残る姿と一致していた。
「……アルヴェン・クロスフォード様」
「お久しぶりです。お会いできて嬉しい。ここまでの道のりは順調でしたか?」
「はい。ご丁寧にお迎えいただき、ありがとうございます」
「宰相閣下も、貴女にお会いするのを楽しみにしておられます。こちらへどうぞ」
彼は私の荷を受け取ろうとしたが、軽く首を振って辞退した。
「自分で持てますので」
「なるほど。では無理に取り上げはしません。公爵令嬢であっても、独りで立てる方なのですね」
「……褒め言葉として受け取ってよろしいですか?」
「もちろん」
彼の笑みは淡く柔らかい――だが、その奥に冷たい光が潜んでいた。
広間に通されると、宰相府の荘厳さに一瞬息をのむ。
壁には古代ヴェルディアの歴史と法を描いた壁画が並び、床の白大理石には精緻な文様が刻まれている。
空気全体が静謐で、私語ひとつ漏れない。まるで、感情さえ慎むことが礼儀だと教えているようだった。
「アルヴェン様、誰かお見えですか?」
低い声が響いた。
奥の書斎から現れたのは、銀髪混じりの壮年の男性――ヴェルディア宰相レオニード・クロスフォード。アルヴェンの父であり、この国の実質的な統治者だった。
「リリアナ・フォン・エルディンでございます。お招きいただき、光栄に存じます」
私が淑女の礼を取ると、宰相は細めた眼差しでしばし私を見つめた。
「静かな娘だな……まるで氷のごとく」
「……そう見えてしまうのですね」
「それは悪い意味ではない。氷は、熱でしか溶けぬ。だが容易に形を崩さない。堅牢で美しい」
その言葉に、わずかに胸が熱くなった。
王都では「冷たい」「傲慢」と嘲られた私の性格を、この男は“堅牢”と評したのだ。
「君の噂はヴェルディアにも届いている。王太子の一方的な破棄、そしてそれを泣きもせず受け入れた令嬢――。何より、学会での君の提案は見事だった。弱い立場の農民にも利益を分配する財政法案。あれを理論化した娘など、そういない」
「恐縮です」
「アルヴェンが強く推薦した理由も理解できる。私の右腕として力を貸してもらいたい。まずは顧問の立場から始め、成果しだいで正式な官職を授けよう」
「……身に余るお言葉です」
宰相は深く頷き、息子に視線を向けた。
「案内を頼む、アルヴェン」
書斎を辞してから、彼が先に歩き出した。
「この城で働くことになる者の大半は男です。女性の官職者はほとんどいません。貴女が初めてです」
「初めて……」
「偏見を持つ者もいるでしょう。けれど、気にする必要はありません。こちらでは結果が全てです」
「結果、ですか。……それなら得意分野ですわ」
思わず口元に笑みを浮かべると、アルヴェンの横顔がわずかに揺れた。
「……そうですね。貴女のようなタイプは、この国でこそ力を発揮する」
案内された部屋は、簡素ながら整えられていた。
香木の匂いが漂い、窓から差し込む光が静かな温度を保っている。
王都の屋敷よりもずっと質素なのに、不思議と心が安らぐ場所だった。
部屋に入るなり、セリーヌが小声で囁いた。
「お嬢様、アルヴェン様という方……何だか気になりますね」
「ええ。……まるで全部を見透かしているような眼をしているわ」
「ですが、悪い方には見えませんでした」
「それは同感。でも、“良い人”という言葉でまとめてしまうのも、違う気がする……」
しばらく黙っていたが、ふと窓の外を見ると、広場では淡い霧雨が降り始めていた。
この国の空気には、どこか清冽な冷たさがある。
けれどそれは、心地よかった。
◆
午後の報告会が始まる前、私はひとり文書室にいた。
壁一面に法令集と統計資料が並ぶ壮観な空間。
頁を開くたびに、整然とした数字が並び、この国の合理性がどれほど徹底しているかがわかる。
すると、背後から穏やかな声が響いた。
「早速分析に取りかかっているとは……勤勉ですね」
振り向けば、アルヴェンだった。
シャツの袖を折り上げ、手には資料束を抱えている。
「この国の財政運用を理解するには、数字から始めるのが早いと思いまして」
「正しい判断です」
「この国では“情”の影響が少ないぶん、制度が機能しているように見えます。でも、同時に柔軟さを欠いている……そう感じました」
「貴女は鋭い。……リリアナ嬢、この宰相府に足を踏み入れた理由は何です?」
一瞬、返答に迷った。だが、視線を逸らさずに答える。
「理不尽に傷つけられたからです。もう二度と誰にも支配されない自分になるために」
「……なるほど」
低く呟くと、彼はほんのわずかに微笑んだ。
「覚えておきましょう。貴女が望むのは“自由”だ」
「そう、ちゃんと自分の足で立つ自由を」
「それなら、この国は悪くない。……少なくとも、力ある者が努力によって認められる時代です」
窓の外の雨音が静かに響いた。
その音を聞きながら、私は思う。
きっとこれは――新しい人生の幕開けなのだ。
涙ではなく、冷静な微笑みで幕を開ける人生。
◆
その夜、与えられた部屋で日記を開く。
インクを落とすたびに、思考が整理されていくのを感じた。
“王都の誰も、私が再び立ち上がるとは思っていないでしょう。
それでいい。驚かせればいい。
私はここで、もう一度始める。”
ペンを置いた瞬間、扉が軽く叩かれた。
「失礼、こんな時間に」
アルヴェンの声だった。
「もうお休みのところかもしれませんが、一つだけ伝えたいことがある」
私は扉を開けた。廊下の光が彼の肩を照らしている。
「宰相閣下が明日の議会で貴女に発言の機会を与えるそうだ」
「私に、ですか?」
「そう。外部顧問として初めての発表になる。例の財政再編案をベースに、新しい提案を期待しているとのこと」
「突然ですね」
「貴女ならできる、と閣下がおっしゃった」
ふいに、アルヴェンの目が柔らかく光る。
「それと……今日、貴女が笑った時、宰相府の空気が変わった。皆が注目していた」
「笑った、なんて。そんなつもりはなかったのに」
「だが、確かに微笑んでいた。
“氷の令嬢”と呼ばれた貴女が見せたあの一瞬――あれは、強さを知る者の笑みだった」
その言葉に、胸の奥が不意に熱を帯びた。
誰もが私を冷たいと罵った。けれどこの国では、冷たさすらひとつの力として扱われるらしい。
「……光栄です」
私がそう答えると、アルヴェンは軽く頭を下げた。
「お休みなさい、リリアナ嬢。明日は、貴女の出番です」
扉が閉じる音がしたあと、私は月明かりの差し込む窓辺に立った。
遠くの空で雨雲が切れ、星がひとつだけ顔を出す。
去り際のあの微笑み――王都で見せた最後の笑みは、決して終わりの笑顔ではなかった。
それは、新しい未来を切り開くための決意の証。
今度こそ、笑うのは私の番。
あの夜の涙を置き去りにして、この地で自由と誇りを手に入れるのだ。
続く
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