公爵令嬢は婚約破棄に微笑む〜かつて私を見下した人たちよ、後悔する準備はできてる?〜

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第6話 契約の条件

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王城の大広間――そこに足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。  
白大理石の床には緋色の絨毯がまっすぐに伸び、壁面では巨大なシャンデリアが金の光を降らせている。  
その中央には長い晩餐の席が設けられ、各国の要人や貴族たちが思い思いに言葉を交わしていた。  
香と音と視線の渦。そのどれもが、吐息すらも慎まなければいけないほど重く洗練された空気を作り上げている。  

「……王都とはまるで違うわね」  
小声で漏らすと、隣を歩くアルヴェンが微かに笑った。  
「国が違えば、礼も違う。けれど気にする必要はありません。あなた自身として立てば良い」  
「そう言ってくださると、心が少し軽くなります」  
「貴女が軽んじられることはない。今日、この場にいる誰よりも陛下が貴女を評価している」  

アルヴェンの言葉に胸が温かくなったのも束の間、視界の先に見慣れた輪郭を捉えて心臓が跳ねた。  
――エリアス。  
あの人が、こちらを見ていた。  

王太子としての金の装束に身を包み、かつて私の隣に立っていた姿のまま。  
ただ違うのは、今、その腕には別の女が寄り添っていること。  
もはや説明もいらない。クロエだ。  
肌馴染みの良い淡桃色の衣を纏い、計算し尽くした微笑を浮かべている。  

「……大丈夫ですか」  
アルヴェンの低い声が耳元に届いた。  
「ええ。少し、懐かしい顔を見ただけです」  
「懐かしさが痛みになるなら、外を見てください。庭の月のほうが、よほど美しい」  
「ふふ……上手ですね」  
「事実を述べただけです」  

案内役の侍従が進み、私は陛下の前に通された。  
ヴェルディア王、ライナルト三世。鋭い灰色の瞳の持ち主で、威圧感というよりも静かな力を持っていた。  
その隣に宰相レオニード。  
二人の視線を受け止めながら、私は深く頭を下げた。  

「ヴェルディア宰相府顧問、リリアナ・フォン・エルディンでございます。お招きに心より感謝申し上げます」  
王は頷き、やわらかく言葉を返した。  
「遠く異国よりよく来た。貴国の一件は聞き及んでいる――だが、その屈辱を越えて今ここに立つ勇気、私は高く買っている」  
「過分なお言葉、恐れ入ります」  
「楽しみにしているぞ。ヴェルディアをどう変えるのか」  

王の目が笑った。その眼差しは試すようでもあり、どこか父のような温もりもあった。  
それが、胸の奥に静かな灯をともす。  

宴が始まる。  
音楽と笑い声が響く中でも、あの視線だけは消えなかった。  
エリアスが、確かにこちらを見ている。  
その隣のクロエもまた、絹の扇で口元を隠しながら、挑むような目で私を眺めていた。  

逃げはしない。  
私は静かにワインを口にした。緋の液体が喉を通り抜け、冷たく熱を与える。  

「リリアナ・エルディン様にお会いしたかった」  
そんな声が正面からかけられた。振り向けば、琥珀色の瞳を持つ青年がグラスを掲げていた。  
絹の青衣に勲章の列。姿勢の一つまで完璧に整えられている。  
「……ルクレイス第二王子、アレクシス様でしょうか」  
「光栄だ。君の評判は私の国にも届いている。異例の若さで顧問に抜擢され、王国の制度を動かす女だと」  
「誇張が過ぎます。私はただ、与えられた務めを果たしているだけです」  
「その謙遜がまた好ましい。だが……」  
彼は一歩近づき、声を落とした。  
「かつて婚約を破棄されたとは思えぬほど美しい」  

息が詰まるほど近い距離。  
背後でアルヴェンの姿がピクリと動いたのを感じたが、私は穏やかに微笑んだ。  
「もったいないお言葉です。けれどその件は、もう遠い昔のこと。今はヴェルディアの臣下としてここにおります」  
言葉も仕草も完璧に刻みながら、内心だけが静かに燃える。  

「遠い昔、か」  
アレクシスは笑みに含みを残したままグラスを傾けた。  
その奥底に光るのは興味か、それとも企みか。  

「……彼がルクレイスの使者ですよ」  
アルヴェンが低く囁いた。  
「外交の場では油断できません。王子は温厚に見えて、交渉となれば梟のように鋭い」  
「承知しました。話術で挑んでみましょう」  
「気をつけて。貴女の声は人の心を動かす。だが同時に、引き寄せすぎることもある」  
その言葉がやけに熱を帯びて聞こえた。  

――まるで、仮面の下から覗く素顔のようだ。  

やがて、音楽が一瞬止み、広間の中心でエリアスが立ち上がった。  
「皆様にご挨拶を。ルクレイスとの同盟は王国に新たな平和をもたらします。どうか、未来に栄光あれ!」  
口上は見事だったが、その声に以前の威厳はなかった。  
言葉の背後に、迷いや焦りが見える。  

拍手が鳴り響く中で、彼の視線がまた私に向けられた。  
ほんのわずか、唇が動く。  
“まだ遅くない”  
――そう言った気がした。  

私の笑みは、鏡のように冷たく返した。  
“もう遅いの。あなたにとっても、私にとっても”  

◆  

宴も終盤、陛下から声がかかった。  
「リリアナ・エルディン顧問。今宵ここにおいて、貴女の正式な任命式を行う。今後、宰相補佐アルヴェン・クロスフォードの下で政務全般に助言することを命ずる」  
ざわめきが広間を駆ける。  
顧問という名目上の地位ではなく、実権を持つ補佐职位――それは貴族の娘だけでなく、多くの男性官僚すらも手の届かない場所だ。  

「異存は?」と陛下が問う。  
「光栄に存じます」  
「ならばよい。アルヴェン、手続きを」  

アルヴェンが歩み寄り、私の前に跪いた。  
薄金の書状を手にしながら、静かに口を開く。  
「リリアナ・フォン・エルディン殿。陛下の名において正式に宰相府補佐顧問の任を授ける。  
 これより、ヴェルディア王国の繁栄を担う新たな同志として、その知を捧げられよ」  
「お受けいたします」  
彼が差し出した手を取ると、微かに指先が触れ、そこから熱が走った。  
一瞬の接触。しかし確かに、生きている人間の温もりがあった。  

その時、横から風が吹いたように声がした。  
「……ヴェルディアは素晴らしい女性を手に入れましたね」  
再び現れたアレクシス王子が、微笑と共に言葉を重ねる。  
「ですが、もし彼女が自由意志で動ける立場なら――我がルクレイスで迎えたいものです」  

広間の空気が一瞬で凍りついた。外交の場での直言は失礼に等しい。  
アルヴェンの表情がわずかに険しくなる。  
「王子、それは契約の申し出と受け取ってよいのですか?」  
「契約? そうだな……“未来において、彼女が望めば”という条件付きの提案だ。今はまだ、風の戯言程度に」  
挑発を含んだ視線。  
アルヴェンは即座に一歩前に出て、私の前に立った。  
「彼女はヴェルディアの顧問です。望むときはいつでも自由だが、少なくとも今は、我々の理の旗のもとにいる」  
その瞬間、敵意とも庇護ともつかぬ感情が彼の瞳に閃いた。  

王子は笑みを深め、グラスを掲げる。  
「ではその理の国の美徳に。――いずれまた、お話しできることを楽しみにしています」  

去っていく王子の背中を見送りながら、私の心臓は異様に早く打っていた。  
言葉の裏に潜む、幾重もの契約と駆け引き。  
そして――アルヴェンのさりげない庇護。  

この国に来た日から感じていた、彼の中に潜む冷静さの奥の熱。  
理性を装いながら、確かな情がある人。  
その目に宿る感情が何であれ、私は受け止めなければならなかった。  
なぜなら今日、王の前で私は正式に“ヴェルディアの女”となったのだから。  

広間の扉の向こう、夜風が吹き抜ける。  
遠くで鐘が鳴り、宴の終わりを告げていた。  

――契約は結ばれた。  
それが栄光を運ぶのか、それとも新たな宿命を呼ぶのか。  
まだ誰も知らない。  

続く
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