公爵令嬢は婚約破棄に微笑む〜かつて私を見下した人たちよ、後悔する準備はできてる?〜

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第5話 隣国の宰相令息

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晩餐会の日まで残されたのはわずか五日。  
その間、私は宰相府の執務室にこもり、山のような資料と格闘していた。  
アルヴェンから課されたのは、地方税改革を具体的に実行に移すための地域別指標案の作成。初仕事としては、あまりにも重い。だが、やるしかない。  
逃げることを選べば、私はまた王太子の“婚約破棄された女”のままになってしまうから。  

万年筆の先を走らせながら、窓の外の光を見上げた。  
ヴェルディアの空はいつも薄い銀色をしている。王国の空より冷たいのに、不思議と胸に染み入る穏やかさがあった。  

ノックの音。  
「どうぞ」  
扉を開けて姿を見せたのは、いつものように端整な顔をしたアルヴェンだった。  
しかし今日は、いつもより少し険しい表情をしていた。  

「失礼します、リリアナ嬢。調子はいかがですか」  
「何とか形になってきました。指標案の草稿はこちらです」  
提出した書類に目を通した瞬間、彼の眉がわずかに持ち上がる。  
「……予想以上だ。数値だけでなく、地方ごとの気候・産業推移まで考慮しているとは」  
「机上の論理ではなく、現実的に動かせるものにしたいのです」  
「なるほど、理論家というより実務家の発想ですね。……では、付け加えましょう。実行の時期が来たら、私の直属補佐として同行してもらう」  
「私が……現地へ?」  
「ええ。机上で作った理屈が現場にどう響くか、自分の目で見るべきです」  

彼の言葉は、挑戦状のようにも聞こえた。  
だがその瞳は、冷たくはなかった。  
むしろ、同じ高さに立つ者へ差し伸べる手のようにまっすぐだった。  

「わかりました。必ず成果で応えてみせます」  
「期待しています」  
その短い言葉の中に、明確な信頼が宿っている気がした。  

アルヴェンが部屋を出ようとした時、私は思わず声をかけた。  
「……一つ伺ってもいいですか?」  
「どうぞ」  
「どうして、私をこの宰相府に呼んでくださったんです?」  

彼は少しだけ口元をほころばせた。  
「簡単ですよ。貴女が理不尽を恐れなかったからです」  
「理不尽を……」  
「多くの者は不条理に折れるか、復讐に飲まれる。けれど貴女は、冷静に分析し、前へ進もうとした。それが、国を導く資質だと感じた」  
「……嬉しいお言葉です」  
「褒めているわけではありません。ただの観察です」  
そう言いながらも、目の奥の光は柔らかかった。  

その夜。  
セリーヌが夜食を持って部屋に来たとき、彼女はすぐ気付いた。  
「お嬢様、どうなさったんです? 顔が紅く……」  
「な、何でもないわ。ただの疲れよ」  
「ふふ。疲れで顔が赤くなるなんて、珍しい症状ですね」  
からかうような声音に、思わずペンを置いた。  
「まったく、調子のいい侍女ね」  
「でも本当に良いお顔をされています。王都にいた時とは違いますわ。もっと生き生きと」  
その言葉に、胸が少しだけ痛む。  

王都。  
あの場所にいた頃は、未来なんてひとつも見えなかった。  
エリアスの隣に立つことだけが自分の価値だと信じ、それを失えば自分も消えると思っていた。  
けれど今は違う。  
ここヴェルディアで、私は自分自身として存在している。  

◆  

晩餐会の前日。  
宰相府全体が落ち着かない空気に覆われていた。隣国ルクレイス王子の訪問、それに陛下の列席。王の前に立つことは、一介の顧問にとって異例中の異例だ。  

その準備の合間に、アルヴェンが私の執務室に現れた。  
「リリアナ嬢、今夜お渡ししたいものがあります」  
机の上に置かれたのは、深紅の velvetの箱。  
開けると、中には繊細な銀のブローチが収められていた。翼を広げた鳥が小さな宝石を爪に抱えている。  

「……美しい」  
「宰相府顧問の公式徽章です。明日の晩餐会ではこれを身につけてください」  
「私のような者に、こんな立派なものを……」  
「遠慮は不要です。貴女はもう、王国の顔の一つですから」  
「顔、ですか……」  
知らぬうちに笑みがこぼれた。  
あの夜、王都の人々に見下されながらも無理に保った笑みではない。今度の笑みは、確かな誇りから生まれたものだった。  

アルヴェンはそんな私をしばらく見つめていたが、ふと視線を逸らした。  
「それと、もう一つ」  
「何でしょう?」  
「明日の晩餐会で、ルクレイスの王子に紹介するのは私です」  
「アルヴェン様が?」  
「陛下のご意向です。私が新任顧問の身元保証人ですから」  
「……その場に、エリアス殿下は?」  
「彼も出席します。おそらく、外交代表として」  

息が止まった。  
あの名を聞くだけで、まだ胸の奥が軋む。  
けれど、同時に奇妙な静けさも訪れた。  

「そうですか。では、覚悟しておきます」  
アルヴェンの眉がかすかに動く。  
「恐れないのですね」  
「ええ。彼に見せてあげたいのです。私を切り捨てたことを、どれほど愚かだったか」  
「……なるほど。女は強い。男などより、ずっと」  
静かに呟くと、彼は一礼して部屋を去った。  

◆  

その晩、眠りにつく前。  
ふと、窓の外に影が動くのが見えた。  
黒衣の人物が一瞬だけ月明かりを横切る。  
心臓が跳ねたが、気づいた時にはもうその姿は消えていた。  

不気味な気配。けれど奇妙な既視感もある。  
あの夜、王都を離れる時にも、似た影を見た気がする。  
偶然なのか、それとも――誰かがずっと私を見ているのか。  

ランプの灯りを落とし、ベッドに横たわる。  
意識の端で、アルヴェンの声が蘇る。  
「貴女が理不尽を恐れなかったからだ」  

恐れない。  
それだけが、今の私の誇り。  

あの夜、すべてを失った私は、今日こうして立っている。  
誰の庇護でもなく、自らの意志で。  

明日――あの人たちの前に再び立つ。  
冷たく笑うことも、復讐でもない。  
ただ、私がどんな女に生まれ変わったのかを、見せてやるために。  

続く
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