公爵令嬢は婚約破棄に微笑む〜かつて私を見下した人たちよ、後悔する準備はできてる?〜

sika

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第7話 深紅のドレスと仮面舞踏会

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晩餐会から二日後、王都レーヴェルではさらなる催しが告げられた。  
王城主催の仮面舞踏会――外交の延長ではあるが、実際には新たな人脈を繋ぐための場でもある。  
ヴェルディアの上流社会にとっては一種の試練であり饗宴。  
私にとっても、決して避けることのできない試しの夜だった。

鏡台の前。  
セリーヌが私の髪を結い上げ、深紅のドレスのリボンを結ぶ。  
「まるで薔薇そのものですわ……お嬢様、誰も目を離せなくなりますよ」  
「目くらましになってくれればいいのだけど」  
「いいえ、この色は真実の証です。血ではなく、誇りの赤」  
「大げさね」  
そう言いながらも、鏡の中に映る自分から目が離せなかった。  
かつて王太子の好みに合わせ、淡く柔らかな色しか身に着けられなかった私が、今はこんなにも濃い色を纏っている。  
まるで別人のようだった。

舞踏会の会場は、宰相府の大ホール。天窓から差し込む月光が白く輝き、無数の仮面がその光を反射していた。  
黄金の仮面、黒い羽根飾り、銀糸で刺繍された面布。  
誰が誰か分からない中で、声だけがすれ違う。  
「これがヴェルディア式の舞踏会……息を呑むほど芸術ですね」  
セリーヌが感嘆の声を漏らす。  
私は短くうなずき、仮面を顔にかけた。  
真紅のドレスに合わせた、細工の細かい黒のレースマスク。  
「お嬢様、まるで女神のようです」  
「女神なんて大層なものじゃないわ。ただの――亡霊よ」  
「亡霊?」  
「ええ。過去に葬られたはずの女が、今夜もう一度踊るの」  

仮面をつけると、不思議なものだ。  
冷たい面布の感触が、過去と現在の境を切り離す。  
誰の婚約者でもない。誰の影でもない。  
ただ、リリアナ・フォン・エルディンという一人の女になる。

入場を告げる鐘が鳴り、音楽が流れ始めた。  
拍子のそろった弦と管の音。  
その中を、仮面の群れが渦のように回り出す。  

「見事なものです」  
突然、低い声が耳元に響いた。  
振り返れば、黒金の仮面の男が立っていた。  
声の響きで分かる――アルヴェンだ。  

「アルヴェン様……貴方も仮面を?」  
「規則です。今夜ここにいるのは地位でも家名でもない、一個人の参加者ですから」  
「それなら、私もただの一人の女として話せるのですね」  
「もちろん」  
差し出された手。  
「踊っていただけますか」  

迷いはなかった。  
手を取った瞬間、彼の掌の熱が直に伝わり、胸の奥に波紋が走る。  
耳元で優しい旋律が響く。  
体を委ねると、彼はほとんど触れることなく私の動きを導いた。  

「リリアナ嬢。今夜の貴女は危うい」  
「危うい?」  
「誰よりも光っている。……その姿を見たら、誰もが触れたくなる」  
「それは忠告ですか、それとも――警告?」  
「どちらでもない。ただの感想です」  
軽やかな足取りの奥に、ほんのわずかな緊張があった。  
彼もまた、この夜の何かを警戒しているように見えた。

曲が一区切りついたとき、彼は視線を泳がせていた。  
「ルクレイスの王子がいませんね。先ほどまでいたはずが」  
「私を探しているのかしら」  
「……警護をつけてありますが、万が一がある。決して一人にならないでください」  
彼の声音には、いつになく感情が込められていた。  

「護ってくださるんですか?」  
冗談めかして問うと、アルヴェンの目が微かに揺れた。  
「もちろん。貴女を失うのは、この国にとって損失だから」  
「……国だけ?」  
「……貴女も察しているでしょう」  
それだけ告げて、彼はゆっくりと私の手を離した。  

彼が去っていく背を見送りながら、私はようやく息を吐いた。  
香の濃い空気の中で、心臓の拍動だけが際立つ。  
胸の奥が熱い。  
あの言葉の意味を、深く考えたくも、考えずにもいられない。  

すると背後から別の声がした。  
「お久しぶりですね、リリアナ・様」  
あの声音。振り向くと、淡い青の仮面をつけたエリアスがいた。  
「……殿下」  
仮面越しでも分かる、あの目の色。  
かつての温もりも、軽蔑も、全部がそこに混じっていた。  

「もう“殿下”ではなく“エリアス”と呼べばいい」  
「その呼び方を許したのは、貴方が最後に裏切った夜でしたね」  
「違う、あれは――」  
「真実の愛を貫いた? ええ、よく存じております」  
静かに笑って言うと、彼は息をのんだ。  
「リリアナ、お前は変わった。冷たいと思っていたが、こんなにも……」  
「強くなった?」  
「……美しくなった」  
その一言に、胸の底から冷笑がこみ上げた。  

「貴方、後悔しているの?」  
「俺は……」  
「その答えは聞かないわ。もう意味がないもの」  
「だが、クロエは変わってしまった。あの優しさを取り戻したい」  
「あら、それは残念。貴方が壊した優しさを、今さら求めるなんて。貴方らしい皮肉ですね」  

彼の喉が詰まったように動く。  
ほんの数秒、音楽だけが二人の間を流れた。  

「リリアナ。ヴェルディアを離れろ」  
「命令ですか?」  
「忠告だ。ルクレイスの王子は――危険だ。あいつは貴女を“駒”にするつもりだ」  
「駒?」  
「陛下との間で、すでに裏の話がある。貴女の立場を利用してこの国を動かすつもりだ。知っているだろう、あの男の手腕を」  
その瞳には確かな焦燥があった。かつて見たことのない種類の。  
けれど私は、ただ微笑を返した。  

「ご心配なく。駒になるつもりはありません。  
この国を、そして私を利用しようとする者は――全員、同じ結末を迎えます」  
「その強がりが……お前らしいよ」  
「ありがとう。強がりで十分よ」  

エリアスが踵を返し、群衆の中に消えていった。  
残された空間に漂うのは、薄い香水の匂いだけ。  
私は息を吸い込み、それを吐き出した。  

――過去はもう、終わった。  

ふと、視界の隅で動く影を捉えた。  
暗がりの柱の陰に、一瞬だけ黒衣の人影が佇んでいた。  
また、あの男。  
王都を出た時、国境で、そしてあの夜窓の外でも見た影――同じ気配。  
視線を返す間もなく、その存在は霧のように消えた。  

ただの幻ではない。私を追う何かが、確かに存在している。  

音楽が再び変わる。  
アルヴェンが人混みの向こうから戻ってくる。  
「リリアナ嬢、何かあったのですか?」  
「いえ、少し過去の亡霊を見ただけです」  
「亡霊?」  
「ええ。でも心配いりません。もう、私は振り向かない」  

アルヴェンの目が、仮面の奥で穏やかに揺れた。  
彼が手を差し出す。  
「もう一度、踊っていただけますか?」  
「喜んで」  

二人の間に、また音楽が戻る。  
深紅と漆黒が交差し、仮面の下の表情が僅かに溶ける。  
誰にも見えない場所で、確かに心が触れ合った。  

遠くの宮廷時計が鳴る。  
この夜が終わる時、たぶん――世界が動く。  
運命は、舞踏の音とともに回り始めていた。  

続く
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