公爵令嬢は婚約破棄に微笑む〜かつて私を見下した人たちよ、後悔する準備はできてる?〜

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第8話 冷たい瞳の中の炎

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夜会の翌朝、まだ薄暗い時間に目が覚めた。  
昨夜の夢の続きを見るように、胸が妙にざわついている。  
赤いドレスを脱ぎ捨てた今も、あの音楽とアルヴェンの手の温度、それにエリアスの焦燥に満ちた瞳が脳裏にこびりついて離れなかった。  

セリーヌが入ってきて、微笑ましいような呆れたような顔をする。  
「お嬢様、昨夜はおつかれでしょうに。朝日より早くお起きになるなんて」  
「眠れなかったの。心がまだ踊っているのかもしれないわ」  
「“心が踊っている”なんて、まるで恋をしているみたいです」  
「まさか」  
口では笑いながらも、鏡に映る自分の頬が少し紅潮していることを見て、言葉が喉につかえた。  

どうしてあの人の手の感触を、未だに覚えているのだろう――。  

机の上の封筒に目を移す。それは今日の朝一番、宰相府の使者が持ってきた書状だ。  
封蝋には銀色の紋章。アルヴェンの家の印。  

「リリアナ・フォン・エルディン顧問へ。  
本日、午前八時より宰相府第二議室にて報告会を行う。  
新制度“地方自主予算制”の施行に伴い、各地議員より意見聴取が行われる予定。  
立会を要請する。  
――アルヴェン・クロスフォード」  

「仕事がすぐに始まるわね」  
「これまでの宰相府顧問のお仕事の速度を思えば、異例の早さですわ。お嬢様の提案がそれだけ注目されてる証ですね」  
「良い風に取るのはまだ早いわ。注目されるほど、敵も増えるもの」  
セリーヌが心配そうに眉を寄せる。  
けれどその表情を見ていて、私はようやく腹が決まった。  
逃げるより、立ち向かう方が性に合っているのだから。  



宰相府の第二議室。  
重厚な扉を開けると、既に数名の議員と文官が席についていた。  
中央の席には宰相レオニード、そして彼の右隣にアルヴェン。  
彼の目はいつも通り冷静で、しかし薄い光の奥に何か熱を閉じ込めているように見えた。  

「リリアナ嬢。ご苦労だった」  
「おはようございます、閣下」  
宰相の声音は柔らかいが、会議室全体には緊張が漂っている。  
私は配布用の書類を机に並べながら、参加者の中にひときわ濃い視線を感じた。  
ルクレイスより派遣された外交顧問、ユリウス・フロイデン。アレクシス王子の側近とも噂されている人物だ。  

「初めまして、エルディン顧問。貴女の噂はルクレイスでも盛んです」  
「それは光栄ですわ」  
「陛下も貴女を高く評価しているとか。しかし残念ながら、我々の一部領土ではこの“地方自主予算制”に懸念の声が上がっています。……地方に権限を渡すのは、やがて王国を分裂させる火種になりかねない」  

刺すような視線。  
会議の場を支配するような言葉。  
だが、その挑発には乗らない。  

「中央による管理が長引けば、地方の活力は枯れます。  
自由を与えられた者が責任を覚え、国全体の力を底上げするのが目的です。統制ではなく信頼がこの制度の核になります」  
「理想論では?」  
「理想を描けない国は滅びます。理論だけでは人も心も動かせません」  

一瞬の沈黙。  
室内の空気が微かに張り詰めた。  
宰相の口元が笑みに変わる。  

「やはり面白い。アルヴェン、お前の見る目は確かだ」  
「ありがとうございます、閣下」  
アルヴェンが短く頷くが、その瞳だけが私にじっと注がれていた。  
どこか誇らしげで、それでいて何かを警告しているような――そんな不思議な光。  

議会は二時間に及んだ。  
最後に宰相が結論を告げ、紙を叩く。  
「次期施行区域は南部と決定する。……リリアナ顧問、直接現地調査を頼む」  
「承知いたしました」  
それが私に与えられた新しい任務。  
同時に、それは王都を離れるという意味でもある。  

会議が終わると、皆が三々五々に退席する。  
私も退出しようとした時、アルヴェンが声をかけた。  
「少し話せますか?」  
彼の執務室に通され、扉が閉まった瞬間、空気の温度が変わった。  

「……どうかしましたか?」  
「先ほどの発言。堂々としていましたが、ルクレイス側は本気で貴女を試していた」  
「試していた?」  
「アレクシス王子が、何を考えているか分からない。彼の側近たちは“貴女の理論を王国譲渡の口実に使える”と考えている節がある」  
「つまり、利用されるかもしれないということですね」  
「そう。だが、それは貴女が選ばれた証でもある。強い者は常に狙われる」  

その言葉に、胸がすっと静まった。  
たしかに私は狙われる側に立っている。  
だが、恐れよりもむしろ心が燃え上がるのを感じていた。  

「ならば上等です。誰がどう狙おうと、最後にこの国を導くのは私の意思です」  
アルヴェンの口元が、わずかに弧を描いた。  
「その言葉、宰相閣下に聞かせたいほどだ」  
その声は穏やかだったが、次の瞬間彼の手が机を支え、私との距離を詰めた。  

「……ですが、もしもの時には、私の許可なく一人で動くな。分かりますね?」  
低く響く声。まるで命令でもあり、願いでもあるような調子。  
彼の瞳の奥に見えたのは氷のような冷たさ――それなのに、その奥底に炎が灯っていた。  

「アルヴェン様……」  
「貴女は理性の国に来たといえど、決して安全ではない。貴女の存在は、この国の均衡そのものなんです」  
「心配してくださっているのですか?」  
「当然だ。貴女は……大切な戦力であり、尊敬すべき頭脳だから」  
言葉の途中で、彼は一瞬視線を逸らした。  
その一瞬の間に、またあの夜会の手の温度が思い出される。  

「ありがとうございます。ですが私は、誰かに護られるだけの存在ではありません」  
「知っていますとも。貴女が戦う人間だということは」  
今度こそ、彼の口調に笑みが滲んだ。  
同時に、胸の奥をくすぐるような温かさが広がった。  

「準備が整い次第、南部へ向かってもらいます。明朝には正式な文書が届くでしょう」  
「承知いたしました」  
「それと……」  
彼が言い淀んだ。  
珍しく、ほんのわずかにためらいがある。  
「出発の前に、もう一度食事を共にしませんか。私的な誘いは控えるべきかもしれないが――これが、けじめということで」  
私は一拍置いて、ゆっくりと頷いた。  
「けじめ。いい響きですね。喜んでお受けします」  



部屋を出た後、廊下の端で誰かの気配を感じて立ち止まった。  
灯りの陰に誰かがいる。  
呼吸を殺して耳を澄ますが、足音一つしない。  
それでも確信があった。あの黒衣の影――やはり、私を追っている。  

「……何者なの」  
誰にともなく呟いたその瞬間、視界の端に光るものがあった。  
窓の外、屋根の上で、朝陽を反射する銀のプレート。  
狙撃鏡? 否、あれはただの反射か――。  

気配が消える。  
胸の鼓動だけが静かな廊下に残った。  
私は唇を噛み、歩を進めた。  
いずれにせよ、向かわねばならない。闇も運命もすべて引き連れて。  

廊下を歩きながら、ふと思う。  
アルヴェンの冷たい瞳の中には、確かに炎があった。  
それは理性の光なのか、それとも――私という危うい存在に燃やされ始めた熱情なのか。  
まだ答えは出ない。  

けれど、どちらでも構わない。  
理性と情熱、その両方を掴んでこそ、私はこの国で生きていける。  

続く
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