何も決めなかった王国は、静かに席を失う』

ふわふわ

文字の大きさ
10 / 40

第十話 名を呼ばれなくなった人

しおりを挟む
第十話 名を呼ばれなくなった人

 

 王城の一日は、忙しなく始まり、そして終わる。
 それは、ネフェリアが去ったあとも変わらない――はずだった。

 だが、その日、王太子は奇妙な静けさに気づいていた。

 執務室に集められた報告書の山。
 外交、財政、内政。
 どれも重要な案件であることに違いはない。

 それなのに。

「……意見は?」

 王太子が問いかけても、返ってくるのは慎重すぎる言葉ばかりだった。

「前例がありませんので……」 「念のため、次回に回すのが無難かと」 「もう少し情報を集めてから判断すべきでしょう」

 どれも、間違ってはいない。
 だが、決定には至らない。

 王太子は、無意識のうちに視線を室内に巡らせていた。
 いつもなら、視界の端に、ある人物の姿があったはずだ。

 必要な情報を整理し、
 要点を端的に示し、
 選択肢と結果を冷静に並べる存在。

 だが、そこにいるのは、高官たちだけ。

「……もう一度、整理し直そう」

 そう口にした瞬間、王太子は気づいた。

 “整理”という言葉を、誰に向けて発していないことに。

 かつてなら、無意識に名を呼んでいたはずだった。

「ネフェリア、どう思う?」

 その一言が、
 思考の切り替えの合図だった。

 だが今、その名は、会議の中で一度も出てこない。

 誰も、彼女を話題にしない。
 まるで、最初から存在しなかったかのように。

 会議が終わり、高官たちが退出していく。
 王太子は、一人、椅子に深く腰を下ろした。

「……なぜだ」

 小さく呟く。

 彼女は、もうここにいない。
 それは理解している。

 だが、理解しているはずなのに、
 頭のどこかが、追いついていなかった。

 ――名を呼ばなくなった。

 それは、単なる習慣の問題ではない。
 頼る相手を失った、という事実だった。

 王太子は、机の上の引き継ぎ資料に手を伸ばす。
 分厚い束。
 必要最低限だと、彼女は言っていた。

 ページをめくる。
 確かに、情報はある。
 だが、それは“静止した知識”に過ぎなかった。

 今、この瞬間に何を優先すべきか。
 どこを切り、どこを守るべきか。

 その判断は、どこにも書かれていない。

「……彼女は」

 言葉にしようとして、王太子は口を閉じる。

 彼女は、資料以上のことをしていた。
 日々変化する状況を見極め、
 必要なら予定を組み替え、
 問題が問題になる前に、消していた。

 それを、自分は“当たり前”だと思っていた。

 その夜、王城の廊下で、二人の高官が小声で話しているのを耳にする。

「最近、判断が遅いな」 「誰も、最終的にまとめないからな……」 「前は、自然と話がまとまっていたのに」

 王太子は足を止める。

 彼らは、ネフェリアの名を出さない。
 だが、誰のことを指しているのかは、明白だった。

 ――呼ばれなくなったのは、名だけではない。

 彼女が担っていた役割そのものが、
 今、王国の中で空白になっている。

 王太子は、夜の窓辺に立ち、遠くを見つめる。
 王都の灯りは、変わらず輝いている。

 だが、その下で、
 何かが確実に遅れ、
 噛み合わなくなっている。

「……戻ってきてくれ」

 その言葉は、誰にも届かず、
 ただ夜の闇に溶けていった。

 ネフェリアの名は、もう会議では呼ばれない。
 だが、呼ばれなくなったことで、
 彼女の存在の大きさだけが、
 皮肉なほど、はっきりと浮かび上がっていた。

 そして王太子は、まだ知らない。

 名を呼ばなくなった代償が、
 これから、はっきりと“形”を持って現れることを。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

第一王子様が選んだのは、妹ではなく私でした!

睡蓮
恋愛
姉妹であるクレアとミリア、しかしその仲は決していいと言えるものではなかった。妹のミリアはずる賢く、姉のクレアの事を悪者に仕立て上げて自分を可愛く見せる事に必死になっており、二人の両親もまたそんなミリアに味方をし、クレアの事を冷遇していた。そんなある日の事、二人のもとにエバー第一王子からの招待状が届けられる。これは自分に対する好意に違いないと確信したミリアは有頂天になり、それまで以上にクレアの事を攻撃し始める。…しかし、エバー第一王子がその心に決めていたのはミリアではなく、クレアなのだった…!

捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来

鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」 婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。 王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。 アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。 だが、彼女は決して屈しない。 「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」 そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。 ――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。 彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」

逆行した悪女は婚約破棄を待ち望む~他の令嬢に夢中だったはずの婚約者の距離感がおかしいのですか!?

魚谷
恋愛
目が覚めると公爵令嬢オリヴィエは学生時代に逆行していた。 彼女は婚約者である王太子カリストに近づく伯爵令嬢ミリエルを妬み、毒殺を図るも失敗。 国外追放の系に処された。 そこで老商人に拾われ、世界中を見て回り、いかにそれまで自分の世界が狭かったのかを痛感する。 新しい人生がこのまま謳歌しようと思いきや、偶然滞在していた某国の動乱に巻き込まれて命を落としてしまう。 しかし次の瞬間、まるで夢から目覚めるように、オリヴィエは5年前──ミリエルの毒殺を図った学生時代まで時を遡っていた。 夢ではないことを確信したオリヴィエはやり直しを決意する。 ミリエルはもちろん、王太子カリストとも距離を取り、静かに生きる。 そして学校を卒業したら大陸中を巡る! そう胸に誓ったのも束の間、次々と押し寄せる問題に回帰前に習得した知識で対応していたら、 鬼のように恐ろしかったはずの王妃に気に入られ、回帰前はオリヴィエを疎ましく思っていたはずのカリストが少しずつ距離をつめてきて……? 「君を愛している」 一体なにがどうなってるの!?

結婚式をボイコットした王女

椿森
恋愛
請われて隣国の王太子の元に嫁ぐこととなった、王女のナルシア。 しかし、婚姻の儀の直前に王太子が不貞とも言える行動をしたためにボイコットすることにした。もちろん、婚約は解消させていただきます。 ※初投稿のため生暖か目で見てくださると幸いです※ 1/9:一応、本編完結です。今後、このお話に至るまでを書いていこうと思います。 1/17:王太子の名前を修正しました!申し訳ございませんでした···( ´ཫ`)

記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。 穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。 ——あの日までは。 突如として王都を揺るがした 「王太子サフィル、重傷」の報せ。 駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。 ※本作品は別サイトにて掲載中です

今度こそ君と結婚するために生まれ変わったんだ。そう言った人は明日、わたしの妹と結婚します

柚木ゆず
恋愛
「俺はね、前世で果たせなかった約束を守るために――君と結婚をするために、生まれ変わったんだ」  ある日突然レトローザ伯爵令息ロドルフ様がいらっしゃり、ロドルフ様から前世で婚約関係にあったと知らされました。  ――生まれ変わる前は相思相愛で式を心待ちにしていたものの、結婚直前でロドルフ様が亡くなってしまい来世での結婚を誓い合った――。  わたしにはその記憶はありませんでしたがやがて生まれ変わりを信じるようになり、わたし達は婚約をすることとなりました。  ロドルフ様は、とてもお優しい方。そのため記憶が戻らずとも好意を抱いており、結婚式を心待ちにしていたのですが――。  直前になってロドルフ様は、わたしの妹アンジェルと結婚すると言い出したのでした。  ※9月26日、本編完結いたしました。時期は未定ではございますが、エピローグ後のエピソードの投稿を考えております。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

処理中です...