白い結婚のはずでしたが、選ぶ人生を取り戻しました

ふわふわ

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第10話 理想の距離

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 シュヴァルツハルト公爵邸で迎える、最初の朝。

 ディアナ・フォン・ヴァイスリーベは、目覚めと同時に感じた静けさに、ほんのわずか目を瞬いた。

(……音が、少ない)

 王都の屋敷では、早朝から人の気配があった。
 馬車の音、通りを行き交う声、屋敷内の足音。

 だがここでは、それらが最小限に抑えられている。

 必要な音だけがあり、不要なものは排されている。

(……よく管理されていますわね)

 身支度を整え、用意されていた簡素な朝食を口にする。
 量も内容も過不足がない。

 そして――。

「本日の予定ですが」

 控えめに声をかけてきたのは、公爵邸付きの侍女だった。

「奥様は、午前中は自由時間と伺っております」 「午後に、最低限の顔合わせのみを予定しておりますが……」

 ディアナは、思わず瞬きをする。

「……自由時間、ですか?」

「はい」

 侍女は淡々と答えた。

「公爵様より、“奥様の時間を拘束するな”とのご指示です」

(……本当に、徹底していますわね)

 ディアナは、胸の奥で小さく息を吐いた。

 形式上は、夫婦。
 だが、生活に踏み込む気配がまるでない。

 それは、彼女にとって――。

(これ以上なく、理想的)

 午前中、ディアナは屋敷内を静かに見て回った。

 使用人たちは過剰に気を遣うこともなく、かといって無礼でもない。
 “公爵夫人”として、適切な距離で接してくる。

 誰も、感情を押し付けてこない。

(……居心地が、良すぎます)

 昼前。

 執事から、公爵との短い面談の時間が設けられたと知らされる。

 応接室に入ると、クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルトはすでに席に着いていた。

「体調は問題ないか」

 形式的だが、投げやりではない問い。

「ええ。配慮が行き届いております」

「それならいい」

 それだけで、会話は一度途切れる。

 沈黙は、気まずくない。

 互いに、沈黙を“無理に埋める必要がない”と理解しているからだ。

「改めて確認しておきたい」

 クロヴィスが、静かに口を開いた。

「生活について、希望はあるか」

 ディアナは、少し考えてから答えた。

「……干渉されないこと」 「それだけで、十分です」

 クロヴィスは、わずかに頷いた。

「こちらも同じだ」 「必要な場には同席してもらうが、それ以外は自由にしていい」

 あまりにも、条件通り。

(……完璧ですわ)

 ディアナは、心の底からそう思った。

 王都での生活とは、正反対。
 誰かの期待に応える必要も、失策を補う必要もない。

 ただ、存在していればいい。

「一つだけ」

 クロヴィスが続ける。

「世間向けの体裁は、こちらで整える」 「あなたが噂に煩わされないように」

 その言葉に、ディアナは目を上げた。

「……ありがとうございます」

 それは、契約以上の配慮だった。

 クロヴィスは、それ以上何も言わず、話は終わった。

 午後。

 最低限の顔合わせ――領内の要職者との短い挨拶。

 ディアナは、淡々と、しかし的確に対応した。

 必要以上に前に出ず、だが存在感は消さない。

 それを、クロヴィスは黙って見ていた。

(……やはり)

 彼女は、有能だ。
 それも、“使われる側”としてではなく。

 夕刻。

 食事は、同じテーブルだが、会話は必要最低限。

 それでいて、不自然さはない。

 ディアナは、食後に紅茶を口にしながら思った。

(……ここまで、何も起こらないとは)

 拍子抜けするほど、穏やか。

 白い結婚とは、こういうものなのか。

 夜、自室に戻り、ディアナは窓辺に立った。

 外は静かで、灯りが整然と並んでいる。

(……これでいい)

 期待しない。
 期待されない。

 それが、どれほど心を軽くするか。

 ――そのとき。

 ふと、脳裏をよぎる。

(……でも)

 なぜか、胸の奥にわずかな違和感が残った。

 快適すぎる距離。
 理想的すぎる関係。

(……このまま、本当に何も起きないのかしら)

 ディアナは、苦笑した。

(何を期待しているのかしら、私は)

 白い結婚。
 それを選んだのは、自分だ。

 なのに。

(……まあ)

 今は、考える必要はない。

 彼女は、静かにカーテンを閉めた。

 理想の距離は、確かに存在している。

 だが――
 その距離が、いつまで“理想のまま”でいられるのか。

 それを知る者は、
 まだ、誰もいなかった。


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