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第9話 新天地へ
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第9話 新天地へ
出立の朝は、驚くほど静かだった。
王都の空は薄曇りで、どこか色彩を失って見える。
ディアナ・フォン・ヴァイスリーベは、侯爵家の正門前に停められた馬車を前に、ゆっくりと息を吸った。
(……ここを離れるのね)
感傷は、ほとんどない。
この屋敷には思い出も多いが、未練はなかった。
「お嬢様」
執事が一歩前に出る。
「シュヴァルツハルト公爵領までは、三日の行程となります」 「途中、二度ほど宿泊地を設けておりますが……」
「問題ありません」
ディアナは穏やかに頷いた。
使用人たちは皆、表情を引き締めている。
主の立場が変わるということは、彼らにとっても人生の転機だ。
「……王都を離れることを、不安には思われませんか?」
侍女が、控えめに尋ねた。
ディアナは、少しだけ考えてから答える。
「いいえ。むしろ……安心しています」
それは、本心だった。
王都には、評価と噂と期待が渦巻いている。
そこにいれば、否応なく“誰かの物語”に組み込まれる。
(私はもう、物語の装置ではありません)
馬車に乗り込むと、扉が閉められる。
御者の合図とともに、ゆっくりと車輪が回り始めた。
王都の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
――その様子を、城壁の上から見下ろす者がいた。
王太子エドガルド・ヴァルシュタインである。
「……行ったか」
誰にともなく呟く。
側近は、答えなかった。
ディアナが王都を去る――
その事実が、なぜか胸に引っかかる。
(白い結婚の、冷徹公爵のもとへ……)
そう聞いているはずなのに。
(……本当に、それで終わりなのか?)
胸の奥に浮かぶ違和感を、エドガルドは振り払った。
「くだらん」
自分で選んだ結果だ。
今さら考える必要はない。
だが、その背後で――
歯車は、確実にずれ始めていた。
一方、馬車の中。
ディアナは、窓の外を流れる景色を眺めていた。
石畳が途切れ、緑が増えていく。
王都特有の騒音が消え、風の音がはっきりと聞こえるようになる。
(……静かですわね)
それだけで、心が軽くなる。
途中の宿では、貴族であることを示す最低限の礼遇はあったが、王都ほどの注目はない。
噂は届いていても、距離がある。
それが、ありがたかった。
二日目の夕刻。
宿の食堂で簡素な食事をとっていると、隣の卓から低い声が聞こえてきた。
「……シュヴァルツハルト公爵領は、治安が良いらしい」 「軍の統制が厳しく、税の管理も明確だとか」
商人らしき男たちの会話だ。
「公爵は冷たい人だと聞くが……」 「少なくとも、不正は許さないそうだ」
ディアナは、何気なく耳を傾ける。
(……外からの評価は、一貫していますわね)
感情は薄いが、統治は堅実。
それは、領民にとっては何よりの安定だ。
三日目の朝。
馬車は、緩やかな丘を越え――視界が開けた。
「……あれが」
侍女が、息を呑む。
眼前に広がるのは、整然と区画された街並み。
無秩序な拡張はなく、道は広く、建物は機能的。
その奥に、黒い城郭が静かに佇んでいる。
――シュヴァルツハルト公爵邸。
(……噂以上ですわ)
冷たい印象を受ける一方で、不思議と圧迫感はない。
整えられた秩序が、むしろ安心感を与えている。
城門が開き、馬車が中へと入る。
整列した使用人たちが、一斉に頭を下げた。
過剰な歓迎はない。
だが、軽んじられている様子もない。
(……ちょうどいい)
ディアナは、そう感じた。
応接の間に通されると、ほどなくして扉が開く。
「到着したと聞いた」
クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルトが現れた。
王都で会ったときと同じ、感情を排した表情。
だが、その声は落ち着いている。
「長旅だったな」
「お気遣い、ありがとうございます」
形式的な挨拶。
それで十分だった。
「今日は、無理をする必要はない」 「部屋を案内させる。必要なものがあれば、遠慮なく言え」
その言葉は、命令ではなく、配慮だった。
(……本当に、線引きが明確ですわね)
期待しすぎず、干渉しすぎない。
ディアナは、深く一礼した。
「感謝いたします」
案内された部屋は、広すぎず、しかし機能的で、明るかった。
窓からは、領地が一望できる。
(……ここが、私の新しい居場所)
王太子の婚約者でもなく、
“可哀想な令嬢”でもない。
ただの、シュヴァルツハルト公爵夫人――
形式上は。
ディアナは、そっと窓辺に立つ。
王都は、もう遠い。
噂も、評価も、過去の役割も――
すべて、背後に置いてきた。
(……ここから始めましょう)
白い結婚。
理想の距離。
それが、いつまで“理想のまま”でいられるかは分からない。
だが、少なくとも今。
ディアナ・フォン・ヴァイスリーベは、
自分の意思で、新天地に立っていた。
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出立の朝は、驚くほど静かだった。
王都の空は薄曇りで、どこか色彩を失って見える。
ディアナ・フォン・ヴァイスリーベは、侯爵家の正門前に停められた馬車を前に、ゆっくりと息を吸った。
(……ここを離れるのね)
感傷は、ほとんどない。
この屋敷には思い出も多いが、未練はなかった。
「お嬢様」
執事が一歩前に出る。
「シュヴァルツハルト公爵領までは、三日の行程となります」 「途中、二度ほど宿泊地を設けておりますが……」
「問題ありません」
ディアナは穏やかに頷いた。
使用人たちは皆、表情を引き締めている。
主の立場が変わるということは、彼らにとっても人生の転機だ。
「……王都を離れることを、不安には思われませんか?」
侍女が、控えめに尋ねた。
ディアナは、少しだけ考えてから答える。
「いいえ。むしろ……安心しています」
それは、本心だった。
王都には、評価と噂と期待が渦巻いている。
そこにいれば、否応なく“誰かの物語”に組み込まれる。
(私はもう、物語の装置ではありません)
馬車に乗り込むと、扉が閉められる。
御者の合図とともに、ゆっくりと車輪が回り始めた。
王都の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
――その様子を、城壁の上から見下ろす者がいた。
王太子エドガルド・ヴァルシュタインである。
「……行ったか」
誰にともなく呟く。
側近は、答えなかった。
ディアナが王都を去る――
その事実が、なぜか胸に引っかかる。
(白い結婚の、冷徹公爵のもとへ……)
そう聞いているはずなのに。
(……本当に、それで終わりなのか?)
胸の奥に浮かぶ違和感を、エドガルドは振り払った。
「くだらん」
自分で選んだ結果だ。
今さら考える必要はない。
だが、その背後で――
歯車は、確実にずれ始めていた。
一方、馬車の中。
ディアナは、窓の外を流れる景色を眺めていた。
石畳が途切れ、緑が増えていく。
王都特有の騒音が消え、風の音がはっきりと聞こえるようになる。
(……静かですわね)
それだけで、心が軽くなる。
途中の宿では、貴族であることを示す最低限の礼遇はあったが、王都ほどの注目はない。
噂は届いていても、距離がある。
それが、ありがたかった。
二日目の夕刻。
宿の食堂で簡素な食事をとっていると、隣の卓から低い声が聞こえてきた。
「……シュヴァルツハルト公爵領は、治安が良いらしい」 「軍の統制が厳しく、税の管理も明確だとか」
商人らしき男たちの会話だ。
「公爵は冷たい人だと聞くが……」 「少なくとも、不正は許さないそうだ」
ディアナは、何気なく耳を傾ける。
(……外からの評価は、一貫していますわね)
感情は薄いが、統治は堅実。
それは、領民にとっては何よりの安定だ。
三日目の朝。
馬車は、緩やかな丘を越え――視界が開けた。
「……あれが」
侍女が、息を呑む。
眼前に広がるのは、整然と区画された街並み。
無秩序な拡張はなく、道は広く、建物は機能的。
その奥に、黒い城郭が静かに佇んでいる。
――シュヴァルツハルト公爵邸。
(……噂以上ですわ)
冷たい印象を受ける一方で、不思議と圧迫感はない。
整えられた秩序が、むしろ安心感を与えている。
城門が開き、馬車が中へと入る。
整列した使用人たちが、一斉に頭を下げた。
過剰な歓迎はない。
だが、軽んじられている様子もない。
(……ちょうどいい)
ディアナは、そう感じた。
応接の間に通されると、ほどなくして扉が開く。
「到着したと聞いた」
クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルトが現れた。
王都で会ったときと同じ、感情を排した表情。
だが、その声は落ち着いている。
「長旅だったな」
「お気遣い、ありがとうございます」
形式的な挨拶。
それで十分だった。
「今日は、無理をする必要はない」 「部屋を案内させる。必要なものがあれば、遠慮なく言え」
その言葉は、命令ではなく、配慮だった。
(……本当に、線引きが明確ですわね)
期待しすぎず、干渉しすぎない。
ディアナは、深く一礼した。
「感謝いたします」
案内された部屋は、広すぎず、しかし機能的で、明るかった。
窓からは、領地が一望できる。
(……ここが、私の新しい居場所)
王太子の婚約者でもなく、
“可哀想な令嬢”でもない。
ただの、シュヴァルツハルト公爵夫人――
形式上は。
ディアナは、そっと窓辺に立つ。
王都は、もう遠い。
噂も、評価も、過去の役割も――
すべて、背後に置いてきた。
(……ここから始めましょう)
白い結婚。
理想の距離。
それが、いつまで“理想のまま”でいられるかは分からない。
だが、少なくとも今。
ディアナ・フォン・ヴァイスリーベは、
自分の意思で、新天地に立っていた。
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