39 / 41
第38話 理想が試される場所
しおりを挟む
第38話 理想が試される場所
試練は、成功のあとにやってくる。
それは、ディアナ・フォン・ヴァイスリーベが、王都で学んだ現実だった。
移行支援制度が始動して、ひと月。
南部を皮切りに、制度は静かに、しかし確実に根を張り始めていた。
孤児院出身の若者が、商会で見習いとして働き始める。
一度失敗した職人が、工房で再挑戦の機会を得る。
目立たないが、確かな成果。
――だからこそ。
反発も、同時に生まれた。
「最近の制度は、甘すぎる」 「失敗した人間を助ける余裕が、どこにある?」
公爵邸に集まった報告書の中に、
不穏な一文が混じっていた。
『支援対象者による契約違反が発生
商会側より、制度見直しの要望あり』
ディアナは、書類を読みながら眉をひそめた。
「……来ましたわね」
クロヴィスが、向かいの席で静かに答える。
「ああ」 「想定内だ」
「ですが」 「軽視できません」
契約違反の内容は、
支援対象の青年が、業務中に無断離脱したというもの。
理由は――
家族の急病。
だが、商会側にとっては、
理由よりも「信用」が問題だった。
「この件が、表に出れば」 「制度全体が叩かれます」
「……そうだな」
クロヴィスは、淡々としている。
「だが」 「切り捨てれば、制度の意味も失われる」
ディアナは、深く息を吸った。
(……選択の時)
支援制度を守るために、
一人を切るか。
一人を守るために、
制度全体を危険に晒すか。
その二択に見える状況が、
何よりも厄介だった。
「……現地へ、行きます」
ディアナは、決断した。
「直接、話を聞きたい」
「俺も行く」
クロヴィスの声は、迷いがない。
問題の商会は、王都近郊にあった。
広い倉庫と、整った事務所。
成功している商会だ。
応接室に通され、
責任者が不満を隠さず切り出す。
「正直に申し上げます」 「今回の件は、想定外でした」
「支援対象者とはいえ」 「最低限の契約は守ってもらわねば」
ディアナは、頷く。
「おっしゃる通りです」
即座に否定しない。
それが、
彼女の選んだ立ち位置だった。
「今回の無断離脱は」 「明確な契約違反です」
責任者の表情が、わずかに緩む。
だが、ディアナは続けた。
「ただし」 「背景を確認した上で」 「処遇を決めさせてください」
「……背景、ですか」
「はい」
青年は、別室で待機していた。
呼ばれ、俯いたまま立つ。
「……すみません」
その声は、かすれていた。
「理由を、聞かせてください」
「母が……急に倒れて」 「病院から連絡が来て」
連絡は、勤務中だった。
報告の余裕がなかった、
という言い分。
ディアナは、問いを重ねる。
「報告しなかった理由は」
「……怒られると思いました」
正直な答え。
未熟さの、証明。
責任者が、苛立ちを隠さず言う。
「それが、信用の問題です」
「ええ」
ディアナは、静かに同意する。
「ですから」
視線を青年に向ける。
「あなたは」 「今回の違反について」 「正式な処分を受けます」
青年の肩が、震えた。
「……解雇、でしょうか」
ディアナは、首を振る。
「いいえ」
一拍置いて。
「再教育と、条件付き継続です」
責任者が、驚いたように眉を上げる。
「条件、とは?」
「無断離脱による損失分は」 「給与から分割で返済」
「加えて」 「緊急時の連絡手順を含む」 「再研修を受けていただきます」
理屈は、通っている。
だが、それでも――
甘いと受け取られかねない。
ディアナは、責任者を見た。
「そして」 「もし、同様の違反が再び起きた場合」 「その時は、制度からも外します」
責任者は、しばらく考え込み、
やがて息を吐いた。
「……分かりました」
「条件付きで、続けましょう」
青年の顔に、安堵が広がる。
だが、ディアナはそこで終わらせなかった。
「ただし」
全員の視線が、彼女に集まる。
「この判断について」 「批判が出た場合」 「責任は、私が引き受けます」
責任者が、目を見開く。
「公爵夫人が……?」
「はい」
迷いはなかった。
「制度を作ったのは、私です」 「ならば」 「その運用の責任も、私にあります」
その言葉は、
場の空気を変えた。
***
帰り道。
馬車の中で、
ディアナは少し疲れた表情を見せていた。
「……正しかったでしょうか」
珍しく、不安を口にする。
クロヴィスは、すぐには答えなかった。
そして、静かに言う。
「正しいかどうかは」 「すぐには、分からない」
「ですが」
彼女を見る。
「逃げなかった」 「責任を、背負った」
「それが」 「あなたの選んだ役割だ」
ディアナは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「怖くなったか」
「少し」
正直な答え。
「でも」
小さく、笑う。
「逃げたいとは、思いませんでした」
クロヴィスの口元が、わずかに緩む。
「それでいい」
夜。
ディアナは、執務室で一人、書類を書いていた。
商会への正式な通知。
制度運用の改善案。
手は、止まらない。
(……理想は)
(守るものではなく、試されるもの)
今日、身をもって学んだ。
だが、後悔はない。
窓の外には、静かな夜。
その静けさの中で、
ディアナは確信していた。
選んだ役割は、
簡単ではない。
それでも。
自分で選んだ道だからこそ、歩き続けられる。
そして、その隣には――
黙って支える存在がいる。
それで、十分だった。
試練は、成功のあとにやってくる。
それは、ディアナ・フォン・ヴァイスリーベが、王都で学んだ現実だった。
移行支援制度が始動して、ひと月。
南部を皮切りに、制度は静かに、しかし確実に根を張り始めていた。
孤児院出身の若者が、商会で見習いとして働き始める。
一度失敗した職人が、工房で再挑戦の機会を得る。
目立たないが、確かな成果。
――だからこそ。
反発も、同時に生まれた。
「最近の制度は、甘すぎる」 「失敗した人間を助ける余裕が、どこにある?」
公爵邸に集まった報告書の中に、
不穏な一文が混じっていた。
『支援対象者による契約違反が発生
商会側より、制度見直しの要望あり』
ディアナは、書類を読みながら眉をひそめた。
「……来ましたわね」
クロヴィスが、向かいの席で静かに答える。
「ああ」 「想定内だ」
「ですが」 「軽視できません」
契約違反の内容は、
支援対象の青年が、業務中に無断離脱したというもの。
理由は――
家族の急病。
だが、商会側にとっては、
理由よりも「信用」が問題だった。
「この件が、表に出れば」 「制度全体が叩かれます」
「……そうだな」
クロヴィスは、淡々としている。
「だが」 「切り捨てれば、制度の意味も失われる」
ディアナは、深く息を吸った。
(……選択の時)
支援制度を守るために、
一人を切るか。
一人を守るために、
制度全体を危険に晒すか。
その二択に見える状況が、
何よりも厄介だった。
「……現地へ、行きます」
ディアナは、決断した。
「直接、話を聞きたい」
「俺も行く」
クロヴィスの声は、迷いがない。
問題の商会は、王都近郊にあった。
広い倉庫と、整った事務所。
成功している商会だ。
応接室に通され、
責任者が不満を隠さず切り出す。
「正直に申し上げます」 「今回の件は、想定外でした」
「支援対象者とはいえ」 「最低限の契約は守ってもらわねば」
ディアナは、頷く。
「おっしゃる通りです」
即座に否定しない。
それが、
彼女の選んだ立ち位置だった。
「今回の無断離脱は」 「明確な契約違反です」
責任者の表情が、わずかに緩む。
だが、ディアナは続けた。
「ただし」 「背景を確認した上で」 「処遇を決めさせてください」
「……背景、ですか」
「はい」
青年は、別室で待機していた。
呼ばれ、俯いたまま立つ。
「……すみません」
その声は、かすれていた。
「理由を、聞かせてください」
「母が……急に倒れて」 「病院から連絡が来て」
連絡は、勤務中だった。
報告の余裕がなかった、
という言い分。
ディアナは、問いを重ねる。
「報告しなかった理由は」
「……怒られると思いました」
正直な答え。
未熟さの、証明。
責任者が、苛立ちを隠さず言う。
「それが、信用の問題です」
「ええ」
ディアナは、静かに同意する。
「ですから」
視線を青年に向ける。
「あなたは」 「今回の違反について」 「正式な処分を受けます」
青年の肩が、震えた。
「……解雇、でしょうか」
ディアナは、首を振る。
「いいえ」
一拍置いて。
「再教育と、条件付き継続です」
責任者が、驚いたように眉を上げる。
「条件、とは?」
「無断離脱による損失分は」 「給与から分割で返済」
「加えて」 「緊急時の連絡手順を含む」 「再研修を受けていただきます」
理屈は、通っている。
だが、それでも――
甘いと受け取られかねない。
ディアナは、責任者を見た。
「そして」 「もし、同様の違反が再び起きた場合」 「その時は、制度からも外します」
責任者は、しばらく考え込み、
やがて息を吐いた。
「……分かりました」
「条件付きで、続けましょう」
青年の顔に、安堵が広がる。
だが、ディアナはそこで終わらせなかった。
「ただし」
全員の視線が、彼女に集まる。
「この判断について」 「批判が出た場合」 「責任は、私が引き受けます」
責任者が、目を見開く。
「公爵夫人が……?」
「はい」
迷いはなかった。
「制度を作ったのは、私です」 「ならば」 「その運用の責任も、私にあります」
その言葉は、
場の空気を変えた。
***
帰り道。
馬車の中で、
ディアナは少し疲れた表情を見せていた。
「……正しかったでしょうか」
珍しく、不安を口にする。
クロヴィスは、すぐには答えなかった。
そして、静かに言う。
「正しいかどうかは」 「すぐには、分からない」
「ですが」
彼女を見る。
「逃げなかった」 「責任を、背負った」
「それが」 「あなたの選んだ役割だ」
ディアナは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「怖くなったか」
「少し」
正直な答え。
「でも」
小さく、笑う。
「逃げたいとは、思いませんでした」
クロヴィスの口元が、わずかに緩む。
「それでいい」
夜。
ディアナは、執務室で一人、書類を書いていた。
商会への正式な通知。
制度運用の改善案。
手は、止まらない。
(……理想は)
(守るものではなく、試されるもの)
今日、身をもって学んだ。
だが、後悔はない。
窓の外には、静かな夜。
その静けさの中で、
ディアナは確信していた。
選んだ役割は、
簡単ではない。
それでも。
自分で選んだ道だからこそ、歩き続けられる。
そして、その隣には――
黙って支える存在がいる。
それで、十分だった。
0
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢、休職致します
碧井 汐桜香
ファンタジー
そのキツい目つきと高飛車な言動から悪役令嬢として中傷されるサーシャ・ツンドール公爵令嬢。王太子殿下の婚約者候補として、他の婚約者候補の妨害をするように父に言われて、実行しているのも一因だろう。
しかし、ある日突然身体が動かなくなり、母のいる領地で療養することに。
作中、主人公が精神を病む描写があります。ご注意ください。
作品内に登場する医療行為や病気、治療などは創作です。作者は医療従事者ではありません。実際の症状や治療に関する判断は、必ず医師など専門家にご相談ください。
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです
藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。
家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。
その“褒賞”として押しつけられたのは――
魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。
けれど私は、絶望しなかった。
むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。
そして、予想外の出来事が起きる。
――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。
「君をひとりで行かせるわけがない」
そう言って微笑む勇者レオン。
村を守るため剣を抜く騎士。
魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。
物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。
彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。
気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き――
いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。
もう、誰にも振り回されない。
ここが私の新しい居場所。
そして、隣には――かつての仲間たちがいる。
捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。
これは、そんな私の第二の人生の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる