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第三十四話 試される覚悟と、守るべき線
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第三十四話 試される覚悟と、守るべき線
名前を掲げてからの数日間、工房は静かだった。
静か――だが、気楽ではない。
視線の質が、はっきり変わっている。
「……見られてるな」
シオンが、仕込みの手を止めずに呟く。
「ええ」
リリカは、帳簿を閉じる。
「“味”ではなく、“姿勢”を見られています」
基準になったということは、真似されるだけでなく、試されるということだ。
そして、その試しは、予想より早くやってきた。
午前中。
工房に届いた一通の書簡には、王城の印が押されていた。
「……王城行事?」
シオンが、文面を追う。
「ええ」
リリカは、淡々と説明する。
「来月の式典用に、焼き菓子の提供要請です」
数量は、工房が無理なく対応できる範囲。
名誉もある。
だが――一行だけ、引っかかる条件があった。
「……“配合の一部開示を希望”?」
シオンの声が、低くなる。
「ええ」
リリカは、はっきり頷いた。
「将来的な再現性確保のため、だそうです」
沈黙。
工房の中で、オーブンの音だけが響く。
「……断るのか」
シオンが、短く聞く。
「断ります」
即答だった。
「理由は?」
「越えてはいけない線だからです」
リリカの声は、穏やかだが揺れない。
「味の“結果”は提供できます。工程の“考え方”も説明できます」
だが、と彼女は続ける。
「配合は、現場そのものです。そこを渡せば、ここは“ここ”でなくなります」
午後。
王城側の使者が、直接訪れた。
「……前向きな検討をお願いしたい」
「検討は、終わっています」
リリカは、静かに答える。
「提供はします。開示はしません」
「ですが、王城行事です」
「承知しています」
「名誉にもなります」
「承知しています」
使者は、言葉を詰まらせた。
「……条件が合わない、ということですか」
「はい」
それ以上でも、それ以下でもない。
使者が去った後、工房の空気がわずかに緩む。
「……やったな」
シオンが、ぽつりと呟く。
「ええ」
リリカは、小さく息を吐く。
「ですが、これで終わりではありません」
翌日。
地方の店から、短い連絡が届く。
「……“王城の話、聞いた”」
「“無理しなくていい。変わらないなら、続けたい”」
派手な言葉はない。
だが、その一文が、重かった。
夕方。
見習いの一人が、不安そうに尋ねる。
「……王城を断って、影響はありませんか」
「ある」
シオンは、正直に答える。
「……じゃあ」
「だがな」
彼は、手を止める。
「影響があるから、断った」
見習いは、言葉を失う。
「越えちゃいけない線を越えると、後は楽だ」
シオンは、静かに続ける。
「でも、戻れない」
夜。
二人は、いつものように並んで座っていた。
「……怖くなかったか」
シオンが、低く聞く。
「怖いです」
リリカは、即答する。
「ですが」
少しだけ、微笑む。
「ここで守れないものは、後でも守れません」
「……覚悟、決まってるな」
「ええ」
彼女は、静かに頷いた。
「基準になるということは、境界線を引き続けるということです」
翌朝。
工房の前には、いつもと変わらない光景がある。
数は多くない。
だが、迷いのない足取り。
「……減らなかったな」
「ええ」
リリカは、穏やかに言う。
「むしろ、はっきりしました」
守るべき線を守った。
名誉よりも、現場を選んだ。
それは、派手な勝利ではない。
だが、確かな位置取りだった。
シオンは、火を入れる。
「……もう、分かってきた」
「何がですの?」
「ここは、“大きくなる場所”じゃない」
彼は、静かに続ける。
「“長く残る場所”だ」
リリカは、その言葉に、小さく頷いた。
試される覚悟は、
越えてはいけない線を引いたことで、確かな形を得た。
工房の香りは、今日も変わらない。
それが、何よりの答えだった。
名前を掲げてからの数日間、工房は静かだった。
静か――だが、気楽ではない。
視線の質が、はっきり変わっている。
「……見られてるな」
シオンが、仕込みの手を止めずに呟く。
「ええ」
リリカは、帳簿を閉じる。
「“味”ではなく、“姿勢”を見られています」
基準になったということは、真似されるだけでなく、試されるということだ。
そして、その試しは、予想より早くやってきた。
午前中。
工房に届いた一通の書簡には、王城の印が押されていた。
「……王城行事?」
シオンが、文面を追う。
「ええ」
リリカは、淡々と説明する。
「来月の式典用に、焼き菓子の提供要請です」
数量は、工房が無理なく対応できる範囲。
名誉もある。
だが――一行だけ、引っかかる条件があった。
「……“配合の一部開示を希望”?」
シオンの声が、低くなる。
「ええ」
リリカは、はっきり頷いた。
「将来的な再現性確保のため、だそうです」
沈黙。
工房の中で、オーブンの音だけが響く。
「……断るのか」
シオンが、短く聞く。
「断ります」
即答だった。
「理由は?」
「越えてはいけない線だからです」
リリカの声は、穏やかだが揺れない。
「味の“結果”は提供できます。工程の“考え方”も説明できます」
だが、と彼女は続ける。
「配合は、現場そのものです。そこを渡せば、ここは“ここ”でなくなります」
午後。
王城側の使者が、直接訪れた。
「……前向きな検討をお願いしたい」
「検討は、終わっています」
リリカは、静かに答える。
「提供はします。開示はしません」
「ですが、王城行事です」
「承知しています」
「名誉にもなります」
「承知しています」
使者は、言葉を詰まらせた。
「……条件が合わない、ということですか」
「はい」
それ以上でも、それ以下でもない。
使者が去った後、工房の空気がわずかに緩む。
「……やったな」
シオンが、ぽつりと呟く。
「ええ」
リリカは、小さく息を吐く。
「ですが、これで終わりではありません」
翌日。
地方の店から、短い連絡が届く。
「……“王城の話、聞いた”」
「“無理しなくていい。変わらないなら、続けたい”」
派手な言葉はない。
だが、その一文が、重かった。
夕方。
見習いの一人が、不安そうに尋ねる。
「……王城を断って、影響はありませんか」
「ある」
シオンは、正直に答える。
「……じゃあ」
「だがな」
彼は、手を止める。
「影響があるから、断った」
見習いは、言葉を失う。
「越えちゃいけない線を越えると、後は楽だ」
シオンは、静かに続ける。
「でも、戻れない」
夜。
二人は、いつものように並んで座っていた。
「……怖くなかったか」
シオンが、低く聞く。
「怖いです」
リリカは、即答する。
「ですが」
少しだけ、微笑む。
「ここで守れないものは、後でも守れません」
「……覚悟、決まってるな」
「ええ」
彼女は、静かに頷いた。
「基準になるということは、境界線を引き続けるということです」
翌朝。
工房の前には、いつもと変わらない光景がある。
数は多くない。
だが、迷いのない足取り。
「……減らなかったな」
「ええ」
リリカは、穏やかに言う。
「むしろ、はっきりしました」
守るべき線を守った。
名誉よりも、現場を選んだ。
それは、派手な勝利ではない。
だが、確かな位置取りだった。
シオンは、火を入れる。
「……もう、分かってきた」
「何がですの?」
「ここは、“大きくなる場所”じゃない」
彼は、静かに続ける。
「“長く残る場所”だ」
リリカは、その言葉に、小さく頷いた。
試される覚悟は、
越えてはいけない線を引いたことで、確かな形を得た。
工房の香りは、今日も変わらない。
それが、何よりの答えだった。
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