婚約破棄されたので、戻らない選択をしました

ふわふわ

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第4話 実家という名の現実

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第4話 実家という名の現実

 馬車が止まり、扉が開く音で、ミディアはゆっくりと目を開けた。

「お嬢様、到着でございます」

 御者の声は、いつもと変わらない。
 それが、今のミディアには妙にありがたかった。

 窓の外に広がるのは、バイエルン家の屋敷。王宮ほどの華やかさはないが、堅実で、無駄のない佇まいだ。高い塀と整えられた庭は、外に誇るためではなく、内を守るためにある――そんな家だった。

 馬車から降りると、使用人たちがすでに並んでいた。誰一人、声を上げない。驚きも、好奇も、哀れみもない。ただ、主家の令嬢を迎える礼節だけがそこにあった。

「お帰りなさいませ、ミディア様」

 老執事が一歩前に出て、深く一礼する。

「……ただいま戻りました」

 自然に、その言葉が口をついた。
 王宮を出たときには感じなかったが、胸の奥に、わずかな安堵が広がる。

 屋敷の中は静かだった。重厚な扉、落ち着いた調度、廊下に差し込む柔らかな光。すべてが、ミディアの記憶のままだ。

「ご当主様は、書斎にてお待ちです」

「分かりました」

 それだけで十分だった。
 父は、感情を先に出す人間ではない。状況を把握し、判断し、結論を出す――それがバイエルン家の流儀だ。

 書斎の扉の前で、ミディアは一度だけ呼吸を整えた。

「……入ります」

 返事を待たず、扉を開ける。

 書斎の奥、机に向かっていた男が顔を上げた。
 ミディアの父、バイエルン公。鋭い眼差しと、揺るぎない威圧感を持つ人物だ。

「戻ったか」

「はい」

 それ以上の言葉はなかった。
 しばしの沈黙。

 父は、娘の姿をじっと見つめていた。衣装に乱れはないか、姿勢は崩れていないか、目に涙はないか――すべてを確認するように。

「……泣かなかったようだな」

 低い声が、静かに落ちる。

「はい」

「理由は?」

 問いは、優しくも厳しくもない。ただの事実確認だ。

 ミディアは、少し考えてから答えた。

「泣く必要が、なかったからです」

 父の眉が、わずかに動いた。

「それは、強がりか」

「いいえ」

 ミディアは、真っ直ぐに父を見た。

「私は、王太子殿下の婚約者という立場を失いました。でも……それは、私自身を否定されたことではありません」

 書斎の空気が、わずかに変わる。

「私は、私として、何かを間違えたわけではないと考えています」

 父は、すぐには答えなかった。椅子にもたれ、ゆっくりと息を吐く。

「……アルトゥールは、愚かな選択をした」

 その言葉は、怒りではなく、評価だった。

「だが、それ以上に重要なのは――これからだ」

 父は、机の上の書類を指で叩いた。

「王宮からの正式な通知は、すでに届いている。形式上は円満な婚約解消。こちらに非はない」

 ミディアは、静かに頷く。

「しばらくは、世間も騒ぐだろう。お前の名は、好奇の対象になる」

「承知しています」

「……耐えられるか」

 試すような問い。

 ミディアは、即座に答えた。

「耐えるのではなく、受け流します」

 父の口元が、わずかに緩んだ。

「そうか」

 それだけで、十分な評価だった。

 父は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。外に広がる領地を見下ろしながら、静かに続けた。

「お前を、すぐに次の縁談に回すつもりはない」

 ミディアは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

「……よろしいのですか」

「必要ない」

 父は、はっきりと言い切った。

「王太子妃という肩書がなくとも、バイエルン家は揺るがん。むしろ――」

 言葉を切り、振り返る。

「お前自身が、何を望むかを考える時間が、今までなかった」

 ミディアは、その言葉を胸に落とした。

 ――望むこと。

 これまでの人生で、それを問われたことはほとんどない。

「しばらくは、屋敷で静養しろ。必要なら、領地の仕事も見せよう」

「……ありがとうございます」

 深く一礼する。

 書斎を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じられた。
 責められなかった。追い立てられなかった。

 それだけで、十分だった。

 自室に戻り、窓を開ける。庭から、土と草の匂いが流れ込む。王宮の香りとは違う、現実の匂い。

 ミディアは、椅子に腰を下ろし、そっと目を閉じた。

 王太子の婚約者だった自分。
 それは、確かに一つの「過去」だ。

 だが、ここから先――
 ミディア・バイエルンは、家名でも役割でもなく、自分自身として、何者になるのか。

「……考える時間は、たっぷりありそうですね」

 小さく呟き、微かに笑う。

 婚約破棄は終わりではない。
 それは、ようやく始まった「選択」の入り口だった。
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