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第6話 新しい辞令
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第6話 新しい辞令
バイエルン家の朝は、静かに始まる。
ミディア・バイエルンは、机に向かい、父から渡された書類に目を通していた。厚手の紙に整然と並ぶ文字は、感情を排した事務的な内容だが、その一行一行が、彼女のこれからを決める重みを持っている。
「……辺境領視察補佐官」
声に出して読んだその役職名は、王宮で耳にしてきたどの肩書きとも違った。王太子妃候補、宮廷補佐、儀礼担当――そうした「王宮のための役割」ではない。実務のための、現場のための役目だ。
書斎の向かいで、父が静かに紅茶を口にしている。
「唐突に思えるかもしれんが、唐突ではない」
低く、落ち着いた声だった。
「王宮を離れた今、お前に必要なのは“空白”ではなく“仕事”だ」
ミディアは、書類から目を上げた。
「……私で、務まるでしょうか」
それは謙遜ではなかった。辺境領といえば、王都から遠く、治安や財政に課題を抱える場所だ。視察とは名ばかりで、実態は問題整理と報告、場合によっては即時の判断も求められる。
「務まらぬなら、最初から話は持ち込まれん」
父はそう言い切った。
「お前が王宮で担ってきた仕事は、儀礼だけではない。数字、文書、調整――誰よりも把握していたのは、お前だ」
ミディアは、わずかに目を伏せた。
確かに、そうだった。アルトゥールが方針を掲げ、周囲が右往左往する中で、実務を整え、形にしてきたのは自分だ。だが、それが評価されることは、ほとんどなかった。
「……視察先は、どこですか」
「アルツハイム辺境伯領」
その名を聞いた瞬間、ミディアの記憶が動いた。
アルツハイム家。
王家に連なるほどの血筋ではないが、代々、辺境を治め続けてきた名門。派手さはないが、堅実で、独立性が高いと聞く。
「現地の領主代理は、若い男だ」
父は淡々と続ける。
「名を、アイロス・アルツハイムという」
ミディアは、その名を心の中で反芻した。聞いたことはない。だが、それが不安にはならなかった。むしろ、先入観のない相手であることが、少しだけ心を軽くする。
「王宮からの正式な命ではありません」
父は、あえてそう付け加えた。
「バイエルン家の推薦として、視察補佐官を派遣する。つまり――」
「私自身の評価が、直接問われる、ということですね」
ミディアが言葉を継ぐと、父は小さく頷いた。
「そうだ」
沈黙が落ちる。
ミディアは、書類にもう一度目を通した。期限、目的、権限。すべてが明確だ。曖昧な期待や、感情的な配慮は一切ない。
――逃げ場はない。
だが、それが、心地よかった。
「……お受けします」
ミディアは、はっきりと言った。
父は、何も言わなかった。ただ、目を閉じ、短く頷く。それが、最大限の承認だった。
書斎を出ると、廊下の窓から風が吹き込んできた。王宮の香りとは違う、土と木の匂い。ミディアは、深く息を吸い込む。
その日の午後、屋敷は慌ただしくなった。必要な資料の整理、移動の準備、随行員の選定。だが、どれも過剰ではない。父は、あくまで「仕事」として、ミディアを送り出すつもりなのだ。
「お嬢様、本当に行かれるのですね……」
侍女が、少し不安そうに声をかける。
「ええ」
ミディアは、穏やかに答えた。
「行ってきます」
それは、初めて自分の意思で口にする「行ってきます」だった。
夜、荷物をまとめ終えたミディアは、机に向かい、一枚の白紙を取り出した。辺境領で成すべきこと、確認すべき点、想定される問題。思いつく限りを書き出していく。
書いているうちに、自然と集中している自分に気づく。
――私は、こういうことが好きなのだ。
整理し、理解し、形にする。感情に振り回されず、現実と向き合う。
王太子の隣では、それを「当然」として扱われてきた。だが、辺境では違う。結果がすべてだ。
「……悪くないですね」
小さく呟き、ペンを置く。
窓の外では、星が静かに瞬いていた。王都の喧騒から遠く離れた空。これから向かう辺境の空も、きっと同じように澄んでいるだろう。
婚約破棄から、まだ数日しか経っていない。
だが、ミディアの人生は、すでに大きく動き始めている。
誰かに選ばれるのではない。
自分で、選ぶ。
その最初の選択が、この辞令だった。
ミディアは、そっと目を閉じた。
辺境で出会う人々、まだ知らぬ風景、そして――アイロス・アルツハイムという名の男。
それが、未来をどう変えるのか。
今は、まだ分からない。
だが、確かに言えることがひとつだけあった。
この一歩は、後悔のためのものではない。
バイエルン家の朝は、静かに始まる。
ミディア・バイエルンは、机に向かい、父から渡された書類に目を通していた。厚手の紙に整然と並ぶ文字は、感情を排した事務的な内容だが、その一行一行が、彼女のこれからを決める重みを持っている。
「……辺境領視察補佐官」
声に出して読んだその役職名は、王宮で耳にしてきたどの肩書きとも違った。王太子妃候補、宮廷補佐、儀礼担当――そうした「王宮のための役割」ではない。実務のための、現場のための役目だ。
書斎の向かいで、父が静かに紅茶を口にしている。
「唐突に思えるかもしれんが、唐突ではない」
低く、落ち着いた声だった。
「王宮を離れた今、お前に必要なのは“空白”ではなく“仕事”だ」
ミディアは、書類から目を上げた。
「……私で、務まるでしょうか」
それは謙遜ではなかった。辺境領といえば、王都から遠く、治安や財政に課題を抱える場所だ。視察とは名ばかりで、実態は問題整理と報告、場合によっては即時の判断も求められる。
「務まらぬなら、最初から話は持ち込まれん」
父はそう言い切った。
「お前が王宮で担ってきた仕事は、儀礼だけではない。数字、文書、調整――誰よりも把握していたのは、お前だ」
ミディアは、わずかに目を伏せた。
確かに、そうだった。アルトゥールが方針を掲げ、周囲が右往左往する中で、実務を整え、形にしてきたのは自分だ。だが、それが評価されることは、ほとんどなかった。
「……視察先は、どこですか」
「アルツハイム辺境伯領」
その名を聞いた瞬間、ミディアの記憶が動いた。
アルツハイム家。
王家に連なるほどの血筋ではないが、代々、辺境を治め続けてきた名門。派手さはないが、堅実で、独立性が高いと聞く。
「現地の領主代理は、若い男だ」
父は淡々と続ける。
「名を、アイロス・アルツハイムという」
ミディアは、その名を心の中で反芻した。聞いたことはない。だが、それが不安にはならなかった。むしろ、先入観のない相手であることが、少しだけ心を軽くする。
「王宮からの正式な命ではありません」
父は、あえてそう付け加えた。
「バイエルン家の推薦として、視察補佐官を派遣する。つまり――」
「私自身の評価が、直接問われる、ということですね」
ミディアが言葉を継ぐと、父は小さく頷いた。
「そうだ」
沈黙が落ちる。
ミディアは、書類にもう一度目を通した。期限、目的、権限。すべてが明確だ。曖昧な期待や、感情的な配慮は一切ない。
――逃げ場はない。
だが、それが、心地よかった。
「……お受けします」
ミディアは、はっきりと言った。
父は、何も言わなかった。ただ、目を閉じ、短く頷く。それが、最大限の承認だった。
書斎を出ると、廊下の窓から風が吹き込んできた。王宮の香りとは違う、土と木の匂い。ミディアは、深く息を吸い込む。
その日の午後、屋敷は慌ただしくなった。必要な資料の整理、移動の準備、随行員の選定。だが、どれも過剰ではない。父は、あくまで「仕事」として、ミディアを送り出すつもりなのだ。
「お嬢様、本当に行かれるのですね……」
侍女が、少し不安そうに声をかける。
「ええ」
ミディアは、穏やかに答えた。
「行ってきます」
それは、初めて自分の意思で口にする「行ってきます」だった。
夜、荷物をまとめ終えたミディアは、机に向かい、一枚の白紙を取り出した。辺境領で成すべきこと、確認すべき点、想定される問題。思いつく限りを書き出していく。
書いているうちに、自然と集中している自分に気づく。
――私は、こういうことが好きなのだ。
整理し、理解し、形にする。感情に振り回されず、現実と向き合う。
王太子の隣では、それを「当然」として扱われてきた。だが、辺境では違う。結果がすべてだ。
「……悪くないですね」
小さく呟き、ペンを置く。
窓の外では、星が静かに瞬いていた。王都の喧騒から遠く離れた空。これから向かう辺境の空も、きっと同じように澄んでいるだろう。
婚約破棄から、まだ数日しか経っていない。
だが、ミディアの人生は、すでに大きく動き始めている。
誰かに選ばれるのではない。
自分で、選ぶ。
その最初の選択が、この辞令だった。
ミディアは、そっと目を閉じた。
辺境で出会う人々、まだ知らぬ風景、そして――アイロス・アルツハイムという名の男。
それが、未来をどう変えるのか。
今は、まだ分からない。
だが、確かに言えることがひとつだけあった。
この一歩は、後悔のためのものではない。
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