婚約破棄されたので、戻らない選択をしました

ふわふわ

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第8話 対等という距離

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第8話 対等という距離

 翌朝、辺境の空は澄み切っていた。

 ミディア・バイエルンは、宿舎の窓を開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。王都の朝とは違う。香水や焚き染めの匂いではなく、土と木と、遠くで燃える薪の匂いが混じっている。ここでは、人の営みが自然と地続きだ。

「……良い朝ですね」

 独り言のように呟き、身支度を整える。派手な装いは必要ない。動きやすい服、筆記用具、地図。今日は現地視察だと聞いている。

 政庁に向かうと、すでに人の気配があった。朝早くから職員たちが出入りし、書類を抱え、短い言葉を交わしている。そこに無駄はなく、誰もが自分の役割を理解している様子だった。

「おはようございます」

 ミディアが声をかけると、何人かが一瞬驚いたようにこちらを見て、すぐに頭を下げた。

「おはようございます、バイエルン様」

 呼び方に、妙な敬意や遠慮はない。ただ、仕事相手としての礼。ミディアはその距離感に、内心で小さく安堵した。

 奥から足音が近づく。

「準備はできています」

 アイロス・アルツハイムだった。昨日と同じ、簡素な服装。剣は帯びていないが、腰の動きや視線から、必要とあらば即座に動けると分かる。

「今日は、まず北側の集落へ行きます」

「理由は?」

 ミディアが即座に問う。

「物流の滞りが、最も顕著です」

「分かりました」

 余計な説明はいらない。二人の会話は、自然と簡潔になる。

 馬車ではなく、簡易な馬に乗って移動することになった。道は整えられているが、王都の舗装路とは比べものにならない。ところどころ、ぬかるみも残っている。

「視察官に、こういう道を通らせるのは、失礼では?」

 ミディアが半ば冗談めかして言うと、アイロスはわずかに口角を上げた。

「実情を知られた方が、後が楽です」

「同感です」

 ミディアは頷いた。

 道中、アイロスは多くを語らない。ただ、必要なときにだけ、短く説明する。どの村がどの時期に困窮しやすいか、どの道が冬に使えなくなるか。すべて、経験に裏打ちされた言葉だった。

 北側の集落に着くと、村人たちが集まってきた。好奇心と警戒が入り混じった視線が、ミディアに向けられる。

「こちらは、今回の視察補佐官だ」

 アイロスが簡潔に紹介する。

 村長と思しき老人が、一歩前に出た。

「……王都からの方ですか」

「いえ」

 ミディアは、はっきりと否定した。

「私は、状況を知るために来ました。約束はしませんが、必要なことは、正確に伝えます」

 ざわめきが、ほんの少し収まる。
 耳触りの良い言葉より、正直な言葉の方が、ここでは信用される。

 倉庫を見せてもらい、保管状況を確認する。物資の量は、帳簿上より少ない。輸送途中での遅延、あるいは破損。理由はすぐに分かった。

「この道では、荷車は限界ですね」

 ミディアは、地図に視線を落とす。

「冬場は、完全に止まるでしょう」

「その通りです」

 アイロスは淡々と答える。

「だから、備蓄が必要だが……場所も、人手も足りない」

 ミディアは、倉庫の構造を見回した。

「一時的に、二つの集落で共同管理するのは?」

「……距離がある」

「ですが、今よりは効率が良いはずです」

 即興の提案だったが、根拠はある。地形、道幅、人の動線。頭の中で、すでに簡易な計画が組み上がっていた。

 アイロスは、少しだけ黙り込んだ。

「……検討の価値はある」

 その言葉に、ミディアは内心で驚いた。王宮であれば、「前例がない」「検討する」で終わる話だ。だが、彼は違う。

「後で、詳しく詰めましょう」

「ええ」

 昼過ぎ、視察を終えて政庁に戻る。

 応接室ではなく、簡素な会議室に通された。机の上には、地図と帳簿が並ぶ。アイロスは椅子に腰掛けると、こちらを見た。

「……率直に言います」

「どうぞ」

「あなたは、王宮向きではない」

 一瞬、言葉を失いかけたが、ミディアはすぐに理解した。

「褒め言葉、と受け取っていいですか」

「ええ」

 アイロスは、ためらいなく頷いた。

「ここでは、感情よりも現実が優先されます。あなたの判断は、現実に即している」

 ミディアは、小さく息を吐いた。

「ありがとうございます。私も、同じことを感じています」

 視線が交わる。
 そこに、上下はない。

 王太子の隣にいた頃、ミディアは常に「一段下」だった。意見は許されても、決定権はない。評価も、名義は別の誰かに帰属する。

 だが、今は違う。

「……ここでは」

 ミディアは、静かに言った。

「私を、どう扱うおつもりですか」

 アイロスは、即答した。

「協力者です」

 短く、明確な言葉。

「肩書ではなく、能力で」

 ミディアは、その答えに、心の奥が静かに震えるのを感じた。

「それで、十分です」

 それ以上は、何もいらない。

 夕方、政庁を出ると、空は赤く染まっていた。遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえる。厳しい土地だが、確かに生活がある。

 ミディアは、隣を歩くアイロスを見た。

 この人は、私を「選ばなかった」。
 まだ、何も始まっていない。

 だが、それが、何より心地よかった。

 ――対等であること。

 それが、こんなにも、静かで、強い安心をもたらすとは思わなかった。

 辺境の一日は、こうして終わる。
 ミディアの中で、確かな手応えが芽生え始めていた。
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