婚約破棄されたので、戻らない選択をしました

ふわふわ

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第10話 正式な席

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第10話 正式な席

 朝の政庁は、いつもより静かだった。

 ミディア・バイエルンは、廊下を歩きながら、その理由をすぐに察した。職員たちの視線が、わずかにこちらを意識している。好奇でも警戒でもない。――確認だ。

 彼女が、この場に「一時的な視察官」としているのか、それとも、これからも関わる存在なのか。
 皆が、それを測っている。

 応接室の扉の前で足を止める。

「どうぞ」

 中から聞こえた声は、アイロス・アルツハイムのものだった。

 扉を開けると、簡素な会議室に、数名の幹部職員が集まっている。財務、物流、治安。それぞれの責任者だ。全員が席についており、空いている椅子は、ひとつだけ。

 ――用意されている。

 ミディアは、無言でその席に向かい、腰を下ろした。

「本日は、正式な打ち合わせだ」

 アイロスは、前置きなく切り出した。

「これまでの視察を踏まえ、今後の方針を決める」

 職員たちの視線が、一斉に集まる。
 ミディアは、姿勢を正した。

「まず、物流の件から」

 財務担当が資料を広げる。

「北側二集落での共同備蓄案について、試験運用を始めた。現時点では、大きな混乱はない」

「数値は?」

 アイロスが短く問う。

「輸送回数は、従来比で二割減。破損も減少傾向です」

 室内が、わずかにざわついた。
 予想以上の成果だ。

「……順調ですね」

 ミディアが、控えめに言う。

「まだ、結論を出す段階ではありませんが」

 財務担当が、頷いた。

「ええ。ただ、数字だけを見るなら、有効です」

 次に、治安担当が口を開く。

「人手不足については、依然として厳しい。ただし、物流の改善で、村間の不満は減りつつある」

 ミディアは、資料に目を落としながら、静かに言った。

「不満が減ると、無理な移動や私的な輸送も減ります。結果として、治安への負担も軽くなるはずです」

 治安担当が、目を瞬かせた。

「……確かに。その視点は、なかった」

 誰かが、軽く息を吐く。

 会議は、淡々と進んだ。意見は交わされるが、感情的な対立はない。すべてが、現実と数字に基づいている。

 やがて、アイロスが一度、手を上げた。

「ここまでで、ひとつ確認したい」

 視線が、彼に集まる。

「ミディア・バイエルンは、視察補佐官として来ている。だが――」

 一拍、間を置く。

「このまま、補佐官として扱うのは、適切だろうか」

 室内が、静まり返った。

 ミディアは、何も言わない。
 判断するのは、彼女ではない。

 最初に口を開いたのは、物流担当だった。

「……正直に言えば、すでに“補佐”の域を超えている」

 財務担当も、続く。

「決定を下しているわけではないが、方向性を示す役割は、担ってもらっている」

 治安担当は、少し考えてから頷いた。

「現場の声を、正確に拾ってくれる。王都の役人より、よほど話が早い」

 アイロスは、それらの意見を、黙って聞いていた。

 やがて、ミディアの方を向く。

「あなたは、どう思いますか」

 突然、判断を委ねられた。
 だが、ミディアは動じなかった。

「私は、役職にこだわりはありません」

 静かな声だった。

「必要とされる形で、仕事ができるなら、それで十分です」

 飾りも、遠慮もない言葉。

 アイロスは、わずかに目を細めた。

「……なら、こちらから提案する」

 彼は、はっきりと言った。

「今後、あなたを“領政補佐”として迎えたい」

 室内に、短い沈黙が落ちる。

 それは、視察官ではない。
 正式に、領政に関わる立場だ。

「もちろん、最終的な権限は私にある」

 アイロスは続ける。

「だが、方針立案と調整については、任せたい」

 ミディアは、少しだけ視線を落とした。

 ――これは、選択だ。

 王宮では、選択肢など与えられなかった。
 役割は、最初から決まっていた。

「……一つ、条件があります」

 彼女は、顔を上げた。

「私の判断が誤っていた場合、遠慮なく否定してください」

 会議室に、微かな笑いが起こる。

「当然だ」

 アイロスは、即答した。

「ここでは、正しさが優先される」

 その言葉に、ミディアの胸が、静かに熱を帯びる。

「お受けします」

 短く、明確に告げる。

 会議が終わると、職員たちは、それぞれの仕事に戻っていった。だが、去り際の視線が、これまでとは違う。

 ――正式な席。

 その意味を、皆が理解している。

 会議室に、二人だけが残る。

「……驚きませんでしたか」

 アイロスが、ふと尋ねる。

「少しは」

 ミディアは、正直に答えた。

「ですが、逃げたいとは思いませんでした」

 アイロスは、窓の外を見た。広がる辺境の地。厳しく、だが確かな現実。

「ここは、楽な場所ではありません」

「承知しています」

「王都に戻る道も、ある」

「……それでも」

 ミディアは、静かに言った。

「ここでの仕事は、意味があります」

 アイロスは、しばらく黙っていた。
 やがて、短く頷く。

「では、改めて」

 彼は、手を差し出した。

「よろしくお願いします。領政補佐、ミディア・バイエルン」

 ミディアは、その手を、ためらいなく取った。

「こちらこそ。アルツハイム辺境伯領のために」

 握手は、短く、だが確かなものだった。

 その夜、ミディアは宿舎の机に向かい、新しい書類に目を通していた。肩書が増えたからといって、仕事の本質は変わらない。だが、責任は確実に重くなっている。

「……それでも」

 ペンを走らせながら、彼女は小さく微笑んだ。

 誰かの隣に立つためではない。
 誰かの名の下で評価されるためでもない。

 ここでの席は、自分の仕事で得たものだ。

 窓の外で、辺境の夜が静かに広がる。
 ミディア・バイエルンは、ようやく、自分の名前で立つ場所を得たのだった。
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