婚約破棄したその場から、ざまぁは始まっていました

ふわふわ

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第36話 取り残された者

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第36話 取り残された者

その男の名を、
口にする者は
ほとんどいなくなっていた。

アセルス・アウストラリス。

かつては、
第一王子。
王太子最有力候補。
次代の王として
当然のように扱われていた存在。

だが今――
彼は、
王都の外れにある
安宿の一室で、
天井を見つめていた。


---

「……どうして、
 こうなった」

呟きは、
誰に届くこともない。

豪奢な調度も、
絹のカーテンもない。

軋む木の床。
薄い毛布。
冷めた空気。

それが、
今の彼の世界だった。


---

王太子の座を失った日。

派閥が離れ、
商会が取引を止め、
周囲は一斉に
距離を取った。

だが、
その時点では
まだ理解していなかった。

(……一時的なものだ)

(時間が経てば、
 また評価される)

そう思っていた。

自分は、
王子なのだから。


---

現実は、
静かで、
容赦がなかった。

資金提供の打ち切り。
過去の投資の返還要求。
積み上がる借金。

「王太子になると
 思っていたからこそ、
 投資していたのです」

アルベルド商会の言葉が、
何度も頭をよぎる。

(……そんなの、
 後出しだろう)

だが、
契約書は
確かに存在していた。

署名したのは、
自分自身だ。


---

「……シャウラ」

ふと、
その名を口にする。

婚約者だった公爵令嬢。

冷たい女。
政治に興味のない女。
そう決めつけていた。

(……違った)

彼女は、
何も望まず、
何も奪わず、
ただそこにいただけだ。

それなのに――
彼は、
自ら手放した。

いや、
切り捨てた。


---

数日前。

ロスベルド商店の男が
再び現れた。

「殿下、
 借金の件ですがね」

「……何度も言うな。
 返すと言っている」

「ええ。
 ですから、
 その方法を」

書類を差し出され、
彼は内容を
ろくに読まなかった。

「……本当に、
 これで終わるのだな」

「はい。
 一気に返済できます」

その言葉を、
信じた。

信じたというより――
考える余裕が
なかった。


---

今。

彼は、
自分の手首を見つめる。

そこには、
王家の紋章も、
指輪もない。

(……俺は、
 何者だ?)

王子ではない。
王太子でもない。

ただの――
何も持たない男。

「……違う」

そう呟き、
首を振る。

「俺は、
 選ばれなかった
 だけだ」

だが、
その言葉は
自分自身を
慰めるには、
あまりにも軽かった。


---

同じ頃。

王都では、
新しい制度が
施行されていた。

旧王太子派の官僚が
地方行政で
成果を上げている。

商業組合は
過去最高の
取引量を記録。

誰も、
アセルスの不在を
不便だとは
感じていない。


---

「……俺が、
 いなくても」

その事実が、
何よりも
彼を打ちのめした。

怒りでもない。
悲しみでもない。

ただ――
空白。

世界から、
静かに
切り離された感覚。


---

夜。

安宿の窓から、
王都の灯りが
遠くに見えた。

かつて、
自分が立っていた場所。

(……戻れるのか?)

その問いに、
答えはない。

だが、
一つだけ
確かなことがあった。

彼の“ざまぁ”は、
まだ終わっていない。

それは、
誰かに罰せられる物語ではない。

“必要とされない”
という現実を、
自分自身で
噛み締め続ける――
終わりのない章だった。

この夜、
アセルス・アウストラリスは、
初めて理解する。

――自分は、
 失脚したのではない。

――自分で、
 すべてを
 手放したのだと。
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