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39話 名前を呼ばれる時
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39話 名前を呼ばれる時
日常が守られ続けると、人はようやく「誰がそれを守っているのか」に気づき始める。
遅すぎるほどに、静かに。
王宮では、珍しく一つの名が口にされた。
「……この流れを作ったのは、誰だったか」
会議の終わり際、若い官僚がぽつりと呟いた言葉だった。
誰かを称えようという意図はない。ただ、疑問として浮かんだだけだ。
室内が、ほんの一瞬だけ静まる。
「最初に線を引いたのは……」
側近が言いかけて、言葉を止めた。
レオンハルトは、その沈黙を咎めなかった。
代わりに、ゆっくりと口を開く。
「名を呼ぶ必要はない」
視線を上げずに、続ける。
「名を呼ばれた時点で、その人は“象徴”になる。
象徴は、いずれ都合よく使われる」
誰も反論しなかった。
それが、ここまで積み上げてきた判断の延長だと、全員が理解している。
「守るべきは、名前じゃない。
基準と、日常だ」
会議は、それで終わった。
一方、フォーマルハウト領。
私は朝の巡回を終え、集会所で役人から報告を受けていた。
「最近、領民の間で噂があります」
「どんな?」
「“お嬢様が全てを決めている”と」
私は、わずかに眉を動かす。
「否定は?」
「していません。ただ……名前が一人歩きし始めています」
私は少し考え、首を横に振った。
「訂正もしなくていいです」
「よろしいのですか?」
「ええ。名前が出るのは、責任が見えてきた証拠です」
隠す段階は、もう終わっている。
だが、前に出る必要もない。
午後、領内を巡回する。
市場は穏やかで、人々は私に深々と頭を下げるわけでもない。
軽く会釈を交わすだけだ。
(それでいい)
名前を呼ばれなくても、
呼ばれても、
判断は変わらない。
同じ頃、王宮では外部文書に、初めて一つの名が記されていた。
「“現行体制は、フォーマルハウト方式に基づく”……とありますが」
側近の問いに、レオンハルトは短く答える。
「削除しろ」
「理由は?」
「方式に名前は要らない」
人の名を冠した瞬間、
それは個人の功績になり、
個人が消えれば、否定される。
それを、彼はよく知っていた。
夜。
王宮の灯りは、いつも通りに消えていく。
誰の名も呼ばれないまま、制度は動き続ける。
一方、フォーマルハウト領の夜。
私は日誌を開き、今日の出来事を記す。
――名前を呼ばれた。
――だが、立ち止まらない。
名は、記号だ。
判断は、責任だ。
距離は、変わらない。
だが、その距離の中で、王宮と領地はそれぞれに――
同じことを選び続けていた。
名を残さないこと。
それは、消えることではない。
仕組みの中に溶け込み、
誰かが欠けても、日常が続くようにするための選択だ。
そして明日もまた、
誰の名も呼ばれぬまま、
日常は、確かに続いていく。
日常が守られ続けると、人はようやく「誰がそれを守っているのか」に気づき始める。
遅すぎるほどに、静かに。
王宮では、珍しく一つの名が口にされた。
「……この流れを作ったのは、誰だったか」
会議の終わり際、若い官僚がぽつりと呟いた言葉だった。
誰かを称えようという意図はない。ただ、疑問として浮かんだだけだ。
室内が、ほんの一瞬だけ静まる。
「最初に線を引いたのは……」
側近が言いかけて、言葉を止めた。
レオンハルトは、その沈黙を咎めなかった。
代わりに、ゆっくりと口を開く。
「名を呼ぶ必要はない」
視線を上げずに、続ける。
「名を呼ばれた時点で、その人は“象徴”になる。
象徴は、いずれ都合よく使われる」
誰も反論しなかった。
それが、ここまで積み上げてきた判断の延長だと、全員が理解している。
「守るべきは、名前じゃない。
基準と、日常だ」
会議は、それで終わった。
一方、フォーマルハウト領。
私は朝の巡回を終え、集会所で役人から報告を受けていた。
「最近、領民の間で噂があります」
「どんな?」
「“お嬢様が全てを決めている”と」
私は、わずかに眉を動かす。
「否定は?」
「していません。ただ……名前が一人歩きし始めています」
私は少し考え、首を横に振った。
「訂正もしなくていいです」
「よろしいのですか?」
「ええ。名前が出るのは、責任が見えてきた証拠です」
隠す段階は、もう終わっている。
だが、前に出る必要もない。
午後、領内を巡回する。
市場は穏やかで、人々は私に深々と頭を下げるわけでもない。
軽く会釈を交わすだけだ。
(それでいい)
名前を呼ばれなくても、
呼ばれても、
判断は変わらない。
同じ頃、王宮では外部文書に、初めて一つの名が記されていた。
「“現行体制は、フォーマルハウト方式に基づく”……とありますが」
側近の問いに、レオンハルトは短く答える。
「削除しろ」
「理由は?」
「方式に名前は要らない」
人の名を冠した瞬間、
それは個人の功績になり、
個人が消えれば、否定される。
それを、彼はよく知っていた。
夜。
王宮の灯りは、いつも通りに消えていく。
誰の名も呼ばれないまま、制度は動き続ける。
一方、フォーマルハウト領の夜。
私は日誌を開き、今日の出来事を記す。
――名前を呼ばれた。
――だが、立ち止まらない。
名は、記号だ。
判断は、責任だ。
距離は、変わらない。
だが、その距離の中で、王宮と領地はそれぞれに――
同じことを選び続けていた。
名を残さないこと。
それは、消えることではない。
仕組みの中に溶け込み、
誰かが欠けても、日常が続くようにするための選択だ。
そして明日もまた、
誰の名も呼ばれぬまま、
日常は、確かに続いていく。
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