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第二話 失われた歯車の音
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第二話 失われた歯車の音
マルグリット・フォン・ルーヴェンが王宮を去った翌朝、王城はいつもより騒がしかった。
夜明けとともに集まった文官たちは、各部署から運び込まれる書類の山を前に、早くも眉間に皺を寄せていた。定刻になっても揃わない決裁印、見当たらない帳簿、確認が取れない外交文書。些細といえば些細だが、積み重なれば確実に支障をきたす――そんな“違和感”が、あちこちで同時に発生していた。
「……おかしいな」
財務官の一人が呟く。
「この補正案、昨日まで最終確認が済んでいたはずだ。担当者は?」
「それが……誰も把握していないのです」
「把握していない?」
財務官は苛立ちを隠せず、書類をめくる。確かに、数字は整理され、注釈も付けられている。だが、その最終判断を下すべき人物の署名がない。
――マルグリット様が、確認してくださっていたはずだ。
その言葉が、喉元まで出かかって、飲み込まれた。
昨夜の出来事を思い出したのだ。
王太子自らが婚約破棄を宣言し、彼女はすべての権限を返上した。つまり、この書類に関与する理由は、もうない。
「代わりに誰が見るのだ?」
「王太子殿下……の、はずですが」
「殿下は今、どちらに?」
「聖女エマ様とご一緒に、礼拝堂へ……」
財務官は、深く息を吐いた。嫌な予感が、背筋を這い上がる。
同じ頃、別の場所でも混乱が起きていた。
外交部では、隣国からの使節団が予定より早く到着したにもかかわらず、応対の段取りが整っていなかった。用意されるはずだった資料が見当たらず、過去の交渉記録も抜け落ちている。
「なぜだ、去年の条約草案は?」
「……倉庫にはありません」
「馬鹿な。あれは、重要書類として――」
言葉を止めた外交官は、はっとして机を叩いた。
「そうだ。あれは……」
マルグリットが管理していた。
彼女は、膨大な文書を分類し、必要な時に即座に取り出せるよう整理していた。その作業がどれほど緻密で、どれほど負担の大きいものだったかを、今になって思い知らされる。
だが、誰もそれを口には出さない。
「……とにかく、殿下に報告を」
王太子ロイド・ヴァルシュタインは、その報告を、執務室で受けていた。
「決裁が遅れている? そんなもの、すぐに処理すればいいだろう」
彼は気にも留めない様子で言う。
「書類が多すぎるのです。整理も不十分で……」
「それなら、文官を増やせばいい。エマも言っていた。形ばかりの手続きに縛られる必要はないと」
その言葉に、部下は一瞬、言葉を失った。
「殿下……これは形式ではなく、国の運営そのものです」
「大げさだな」
ロイドは笑い飛ばす。
「これまでが、細かすぎただけだ。多少の混乱など、すぐに収まる」
彼の視線は、机の上に置かれた花束に向いていた。
聖女エマが、今朝届けたものだ。純真な笑顔とともに「殿下のお力になりたいです」と言われ、悪い気はしなかった。
――マルグリットは、いつも黙って仕事をしていた。
そのことを思い出し、ロイドは小さく首を振る。
彼女は完璧すぎたのだ。だから、いなくなっても、誰かが代われるはずだ。
一方、王宮を離れたマルグリットは、すでにルーヴェン家の屋敷に戻っていた。
長年暮らした王宮の一室とは違い、ここは静かで、落ち着いている。窓から差し込む朝の光を浴びながら、彼女は紅茶を口に運んだ。
「……思ったより、早いですね」
ぽつりと呟く。
王宮からは、すでに数通の非公式な問い合わせが届いていた。
書類の所在、手続きの流れ、過去の判断基準。どれも、彼女が担ってきた業務に関するものばかりだ。
だが、マルグリットはすべてに目を通した後、静かに封を閉じた。
「正式な要請でない以上、返答の義務はありません」
それは冷たい拒絶ではない。
ただ、筋を通しただけだ。
王太子妃候補として教育を受け、支えてきた年月は、確かに存在した。だが、婚約が破棄された以上、彼女が王宮の歯車であり続ける理由はない。
その頃、王宮では、さらに小さな混乱が積み重なっていた。
会議の時間が重なり、誰も調整しない。
必要な人員が配置されず、無駄な待ち時間が生まれる。
誰かが気づいて修正していたはずの“ズレ”が、そのまま放置されていく。
それでも、多くの者はこう考えていた。
――たまたまだ。
――すぐに慣れる。
――一人いなくなっただけで、国が揺らぐはずがない。
だが、失われた歯車は、音を立てずに回らなくなっていた。
静かに、確実に。
そして、その異変に最初に気づくべき者ほど、まだそれを認めようとしていなかった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンが王宮を去った翌朝、王城はいつもより騒がしかった。
夜明けとともに集まった文官たちは、各部署から運び込まれる書類の山を前に、早くも眉間に皺を寄せていた。定刻になっても揃わない決裁印、見当たらない帳簿、確認が取れない外交文書。些細といえば些細だが、積み重なれば確実に支障をきたす――そんな“違和感”が、あちこちで同時に発生していた。
「……おかしいな」
財務官の一人が呟く。
「この補正案、昨日まで最終確認が済んでいたはずだ。担当者は?」
「それが……誰も把握していないのです」
「把握していない?」
財務官は苛立ちを隠せず、書類をめくる。確かに、数字は整理され、注釈も付けられている。だが、その最終判断を下すべき人物の署名がない。
――マルグリット様が、確認してくださっていたはずだ。
その言葉が、喉元まで出かかって、飲み込まれた。
昨夜の出来事を思い出したのだ。
王太子自らが婚約破棄を宣言し、彼女はすべての権限を返上した。つまり、この書類に関与する理由は、もうない。
「代わりに誰が見るのだ?」
「王太子殿下……の、はずですが」
「殿下は今、どちらに?」
「聖女エマ様とご一緒に、礼拝堂へ……」
財務官は、深く息を吐いた。嫌な予感が、背筋を這い上がる。
同じ頃、別の場所でも混乱が起きていた。
外交部では、隣国からの使節団が予定より早く到着したにもかかわらず、応対の段取りが整っていなかった。用意されるはずだった資料が見当たらず、過去の交渉記録も抜け落ちている。
「なぜだ、去年の条約草案は?」
「……倉庫にはありません」
「馬鹿な。あれは、重要書類として――」
言葉を止めた外交官は、はっとして机を叩いた。
「そうだ。あれは……」
マルグリットが管理していた。
彼女は、膨大な文書を分類し、必要な時に即座に取り出せるよう整理していた。その作業がどれほど緻密で、どれほど負担の大きいものだったかを、今になって思い知らされる。
だが、誰もそれを口には出さない。
「……とにかく、殿下に報告を」
王太子ロイド・ヴァルシュタインは、その報告を、執務室で受けていた。
「決裁が遅れている? そんなもの、すぐに処理すればいいだろう」
彼は気にも留めない様子で言う。
「書類が多すぎるのです。整理も不十分で……」
「それなら、文官を増やせばいい。エマも言っていた。形ばかりの手続きに縛られる必要はないと」
その言葉に、部下は一瞬、言葉を失った。
「殿下……これは形式ではなく、国の運営そのものです」
「大げさだな」
ロイドは笑い飛ばす。
「これまでが、細かすぎただけだ。多少の混乱など、すぐに収まる」
彼の視線は、机の上に置かれた花束に向いていた。
聖女エマが、今朝届けたものだ。純真な笑顔とともに「殿下のお力になりたいです」と言われ、悪い気はしなかった。
――マルグリットは、いつも黙って仕事をしていた。
そのことを思い出し、ロイドは小さく首を振る。
彼女は完璧すぎたのだ。だから、いなくなっても、誰かが代われるはずだ。
一方、王宮を離れたマルグリットは、すでにルーヴェン家の屋敷に戻っていた。
長年暮らした王宮の一室とは違い、ここは静かで、落ち着いている。窓から差し込む朝の光を浴びながら、彼女は紅茶を口に運んだ。
「……思ったより、早いですね」
ぽつりと呟く。
王宮からは、すでに数通の非公式な問い合わせが届いていた。
書類の所在、手続きの流れ、過去の判断基準。どれも、彼女が担ってきた業務に関するものばかりだ。
だが、マルグリットはすべてに目を通した後、静かに封を閉じた。
「正式な要請でない以上、返答の義務はありません」
それは冷たい拒絶ではない。
ただ、筋を通しただけだ。
王太子妃候補として教育を受け、支えてきた年月は、確かに存在した。だが、婚約が破棄された以上、彼女が王宮の歯車であり続ける理由はない。
その頃、王宮では、さらに小さな混乱が積み重なっていた。
会議の時間が重なり、誰も調整しない。
必要な人員が配置されず、無駄な待ち時間が生まれる。
誰かが気づいて修正していたはずの“ズレ”が、そのまま放置されていく。
それでも、多くの者はこう考えていた。
――たまたまだ。
――すぐに慣れる。
――一人いなくなっただけで、国が揺らぐはずがない。
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静かに、確実に。
そして、その異変に最初に気づくべき者ほど、まだそれを認めようとしていなかった。
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