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第三話 戻らないもの
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第三話 戻らないもの
王宮の空気が、目に見えない形で重くなり始めていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンが去ってから三日。
たった三日で、王宮のあちこちに「滞り」という名の澱が溜まり始めている。
「……まだか?」
王太子ロイド・ヴァルシュタインは、執務室の机を指で叩きながら苛立ちを隠そうともしなかった。
「財務報告の最終版は、まだ届かないのか」
「申し訳ありません。確認と調整に想定以上の時間がかかっておりまして……」
文官は深く頭を下げる。その額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「時間? 何を言っている。今までは午前中には揃っていたはずだ」
「それは……」
言い淀んだ文官は、口を閉ざす。
言えるはずがなかった。
――それは、マルグリット様がすべてを把握し、整えてくださっていたからです、などと。
「もういい」
ロイドは手を振る。
「多少遅れたところで、国が傾くわけではない。余計な心配をするな」
その言葉に、文官は反論できずに下がった。
だが、執務室を出た瞬間、廊下で待っていた同僚に小さく囁く。
「……これは、多少では済まない」
実際、問題は一つではなかった。
外交部では、隣国への返書が期限を過ぎている。
軍務部では、物資の配分計画が決まらず、現場が混乱している。
内政部では、地方からの請願書が山積みになり、処理の目途が立たない。
これまで、それらは“当たり前のように”滞りなく進んでいた。
誰が指示を出したわけでもなく、誰が声を荒げることもなく。
――気づけば、すべてが整っていた。
その中心に、マルグリットがいた。
彼女は前に出ることはなかった。
だが、各部署の動きを把握し、不要な衝突を避け、必要なところに必要な情報を流していた。
それは、派手な功績ではない。だが、失われたときに初めて、その価値が露わになる類のものだった。
「……マルグリット様なら、どうしていただろうな」
誰かが、ぽつりと呟いた。
それを聞いた別の文官が、慌てて周囲を見回す。
「やめろ、聞かれたら問題になる」
「分かっている。ただ……」
ただ、言わずにはいられなかったのだ。
今の状況が、明らかに“おかしい”ことを。
一方、王太子ロイドは、その変化をまだ正面から受け止めていなかった。
彼は礼拝堂で聖女エマと向かい合い、穏やかな表情を浮かべていた。
「殿下、お疲れでしょう?」
エマは心配そうに首を傾げる。
「少し、慣れないことが多くてな」
「それは、きっと神様が与えた試練です。殿下が正しい道を選ばれた証ですよ」
その言葉に、ロイドは満足そうに頷いた。
「そうだな。古い慣習に縛られていたから、混乱が起きているだけだ。新しい時代には、新しいやり方が必要だ」
エマは微笑みながら、その言葉に同意する。
彼女には、王宮の実務がどれほど複雑で、どれほど繊細な均衡の上に成り立っているかが分からない。
――いや、分かろうともしていない。
その頃、ルーヴェン家の屋敷では、マルグリットが書斎に座っていた。
机の上には、王宮から届いた書簡がいくつも並んでいる。
どれも正式な要請ではなく、「念のため」「参考までに」といった曖昧な文言ばかりだ。
「……相変わらずですね」
彼女は苦笑するでもなく、ただ淡々と封を切り、目を通す。
内容は、想像どおりだった。
書類の所在を尋ねるもの。
過去の判断理由を確認したいというもの。
中には、露骨に「助言を求めたい」と書かれたものもある。
だが、マルグリットはペンを取らなかった。
「婚約者でも、補佐でもない者が、口を出すべきではありません」
それは、冷淡な拒否ではない。
彼女なりの、責任の切り分けだった。
彼女は知っている。
一度でも手を差し伸べれば、再び“都合のいい歯車”として扱われることを。
だからこそ、戻らない。
王宮がどれほど混乱しようと、それは彼女の選択ではない。
選んだのは、ロイド自身だ。
その夜、ロイドは一人、執務室で机に向かっていた。
積み上がった書類を前に、彼は初めて、苛立ちとは違う感情を覚える。
「……なぜ、こんなに時間がかかる」
かつては、こんなことはなかった。
彼が気づかぬうちに、すべてが整えられていた。
ふと、脳裏に浮かぶのは、淡々と報告をするマルグリットの姿だ。
感情を挟まず、必要なことだけを簡潔に伝える声。
――いや。
ロイドは首を振る。
「彼女がいなくても、問題はない」
そう言い聞かせるように呟くが、その言葉には、微かな揺らぎが混じっていた。
失われた歯車は、戻らない。
そして、その事実を認めるには、彼はまだ幼すぎた。
王宮の混乱は、静かに、しかし確実に広がっていく。
誰かが“戻ってきてほしい”と口にする、その時まで。
王宮の空気が、目に見えない形で重くなり始めていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンが去ってから三日。
たった三日で、王宮のあちこちに「滞り」という名の澱が溜まり始めている。
「……まだか?」
王太子ロイド・ヴァルシュタインは、執務室の机を指で叩きながら苛立ちを隠そうともしなかった。
「財務報告の最終版は、まだ届かないのか」
「申し訳ありません。確認と調整に想定以上の時間がかかっておりまして……」
文官は深く頭を下げる。その額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「時間? 何を言っている。今までは午前中には揃っていたはずだ」
「それは……」
言い淀んだ文官は、口を閉ざす。
言えるはずがなかった。
――それは、マルグリット様がすべてを把握し、整えてくださっていたからです、などと。
「もういい」
ロイドは手を振る。
「多少遅れたところで、国が傾くわけではない。余計な心配をするな」
その言葉に、文官は反論できずに下がった。
だが、執務室を出た瞬間、廊下で待っていた同僚に小さく囁く。
「……これは、多少では済まない」
実際、問題は一つではなかった。
外交部では、隣国への返書が期限を過ぎている。
軍務部では、物資の配分計画が決まらず、現場が混乱している。
内政部では、地方からの請願書が山積みになり、処理の目途が立たない。
これまで、それらは“当たり前のように”滞りなく進んでいた。
誰が指示を出したわけでもなく、誰が声を荒げることもなく。
――気づけば、すべてが整っていた。
その中心に、マルグリットがいた。
彼女は前に出ることはなかった。
だが、各部署の動きを把握し、不要な衝突を避け、必要なところに必要な情報を流していた。
それは、派手な功績ではない。だが、失われたときに初めて、その価値が露わになる類のものだった。
「……マルグリット様なら、どうしていただろうな」
誰かが、ぽつりと呟いた。
それを聞いた別の文官が、慌てて周囲を見回す。
「やめろ、聞かれたら問題になる」
「分かっている。ただ……」
ただ、言わずにはいられなかったのだ。
今の状況が、明らかに“おかしい”ことを。
一方、王太子ロイドは、その変化をまだ正面から受け止めていなかった。
彼は礼拝堂で聖女エマと向かい合い、穏やかな表情を浮かべていた。
「殿下、お疲れでしょう?」
エマは心配そうに首を傾げる。
「少し、慣れないことが多くてな」
「それは、きっと神様が与えた試練です。殿下が正しい道を選ばれた証ですよ」
その言葉に、ロイドは満足そうに頷いた。
「そうだな。古い慣習に縛られていたから、混乱が起きているだけだ。新しい時代には、新しいやり方が必要だ」
エマは微笑みながら、その言葉に同意する。
彼女には、王宮の実務がどれほど複雑で、どれほど繊細な均衡の上に成り立っているかが分からない。
――いや、分かろうともしていない。
その頃、ルーヴェン家の屋敷では、マルグリットが書斎に座っていた。
机の上には、王宮から届いた書簡がいくつも並んでいる。
どれも正式な要請ではなく、「念のため」「参考までに」といった曖昧な文言ばかりだ。
「……相変わらずですね」
彼女は苦笑するでもなく、ただ淡々と封を切り、目を通す。
内容は、想像どおりだった。
書類の所在を尋ねるもの。
過去の判断理由を確認したいというもの。
中には、露骨に「助言を求めたい」と書かれたものもある。
だが、マルグリットはペンを取らなかった。
「婚約者でも、補佐でもない者が、口を出すべきではありません」
それは、冷淡な拒否ではない。
彼女なりの、責任の切り分けだった。
彼女は知っている。
一度でも手を差し伸べれば、再び“都合のいい歯車”として扱われることを。
だからこそ、戻らない。
王宮がどれほど混乱しようと、それは彼女の選択ではない。
選んだのは、ロイド自身だ。
その夜、ロイドは一人、執務室で机に向かっていた。
積み上がった書類を前に、彼は初めて、苛立ちとは違う感情を覚える。
「……なぜ、こんなに時間がかかる」
かつては、こんなことはなかった。
彼が気づかぬうちに、すべてが整えられていた。
ふと、脳裏に浮かぶのは、淡々と報告をするマルグリットの姿だ。
感情を挟まず、必要なことだけを簡潔に伝える声。
――いや。
ロイドは首を振る。
「彼女がいなくても、問題はない」
そう言い聞かせるように呟くが、その言葉には、微かな揺らぎが混じっていた。
失われた歯車は、戻らない。
そして、その事実を認めるには、彼はまだ幼すぎた。
王宮の混乱は、静かに、しかし確実に広がっていく。
誰かが“戻ってきてほしい”と口にする、その時まで。
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